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キム・ヒョング


名前
ハングル
キム・ヒョング
김형구
性別
撮影作品
1994偶然な旅行
1995ドクター・ポン
1996真の男
パク・ポンゴン家出事件
1997ビート
1998スプリング・イン・ホームタウン
太陽はない
1999イ・ジェスの乱
ペパーミント・キャンディー
2000Interview
2001MUSA−武士−
春の日は過ぎゆく
2002北京ヴァイオリン(中国)
2003殺人の追憶
英語完全征服
2004女は男の未来だ

 『グリーンフィッシュ』『八月のクリスマス』の名撮影監督ユ・ヨンギル亡き後、最も注目すべき撮影監督の一人。ありとあらゆる撮影法を駆使することで知られ、作品によって全くタイプの異なる映像を作り上げる。例えば、『ビート』、『太陽はない』では、ウォン・カーウァイ作品ばりの動的な映像を、『スプリング・イン・ホームタウン』では、ロング・テーク、ロング・ショットを多用し静的な映像を生み出している。

 1960年、京畿道生まれ。中学生の頃、幼い頃から機械好きだったキム・ヒョングに父親がキャノンのカメラを買い与えたのが、「カメラ」との出会いだったという。1987年に中央大学写真学科を卒業。大学の映画サークルで映画製作の面白さを知り、卒業後、映画アカデミー4期に入り、映画作りを学ぶ(1988年卒)。その後、映画界に入門し、『成功時代』『チルスとマンス』『ギャグマン』の撮影助手を担当。同作の撮影監督ユ・ヨンギルの下で働く。そして、映画アカデミーで同期だったキム・テギュン等と「大衆映画を作ること」を目標に映画工場ソウルを設立するが、うまくいかず解散。

 転機となったのは、1993年のアメリカ留学。AFI(American Film Institute)で撮影を専攻し修士(MFA)を取得したキム・ヒョングは、帰国後、撮影監督が撮影技師と照明技師を統括するアメリカ式 "Director of Photography" システムを導入した。これは「撮影が光と色を制御できないなら、撮影監督は監督ではなくただの技能工にすぎない」という考えのため。しかし、撮影と照明が独立していた既存の製作慣行に反するため、初期作品の『偶然な旅行』では、撮影協会から圧力をかけられ(彼は当時協会に入会していなかった/その資格がなかった)照明技師が逃げてしまうという事件が発生、そして『ドクター・ポン』では撮影協会の妨害で機材のレンタルに苦労するなど、ベテラン映画人との軋轢も大きかった(『ドクター・ポン』撮影後、協会内部で「若い世代も受け入れるべきだ」との意見が生まれ、またユ・ヨンギル撮影監督の斡旋もあり、入会が認められた)。しかし、彼に反対する声は実力でねじ伏せ、今や韓国を代表する撮影監督となった。海外留学により実力を付け、長い助手時代を経ずとも(通常、最低でも助手を10年は務めないと撮影監督になれない)、実力だけで直ちにデビューできることを証明した新世代撮影監督と言えば、それすなわちキム・ヒョングなのだ。

 1993年にキム・ソンス監督の出世作となった短編映画『悲鳴都市』で初めて撮影監督を担当する。留学から帰国後、企画時代で子供用プログラムの『洪吉童とターミネーター』、『ミスターキムチ博士』などを手掛けた後、子供向け映画『偶然な旅行』で本格的にデビュー。そして、1997年、キム・ソンス監督の『ビート』で、広角レンズによる極端なクローズアップ、低速撮影、ゆれるカメラなど新感覚の映像を駆使して注目を浴び、第17回(1997)映画評論家協会賞撮影賞を受賞。世に認められる。以後、『スプリング・イン・ホームタウン』では第36回(1999)大鐘賞撮影賞と第19回(1999)映画評論家協会賞撮影賞を、『太陽はない』では第22回(1999)黄金撮影賞銅賞を受賞している。

 『悲鳴都市』でコンビを組んだイ・ガンサン照明監督とは1997年に『ビート』で再びコンビを組み、以来『スプリング・イン・ホームタウン』、『太陽はない』、『ペパーミント・キャンディー』、『Interview』、『MUSA−武士−』、『春の日は過ぎゆく』などその年の韓国映画を代表する作品を撮影=キム・ヒョング、照明=イ・ガンサンのコンビで生み出している。

 2001年にはキム・ソンス監督の『MUSA−武士−』と、ホ・ジノ監督の『春の日は過ぎゆく』の撮影を担当。それぞれの監督の特長を生かし、『MUSA−武士−』では動的な映像を、『春の日は過ぎゆく』では静的な映像を生み出している。そして、『MUSA−武士−』で第2回(2001)釜山映画評論家協会賞撮影賞、第22回(2001)青龍賞撮影賞、第25回(2002)黄金撮影賞金賞を、『春の日は過ぎゆく』で第21回(2001)映画評論家協会賞撮影賞を受賞。

 ホ・ジノ監督とは『春の日は過ぎゆく』で初めて共同作業をしたわけだが、その感想は「近年で最も幸福な作業だった」とのこと。ちなみに、ホ・ジノはセットを極端に嫌うので、屋内での撮影は35mmカメラを置く場所もないほどに狭いケースが少なくなく、撮影監督としてはなかなか大変だったとか。

 中国ロケをした『MUSA−武士−』がチェン・カイコー(陳凱歌)の眼にとまり、彼の作品『北京ヴァイオリン』の撮影を担当。名実共に韓国を代表する撮影監督となった。

 撮影監督のライバルは、『ディナーの後に』『ユリョン』『反則王』『純愛譜−じゅんあいふ−』ホン・ギョンピョ、そして『接続』『シュリ』『カル』『JSA』キム・ソンボク等。

初版:2000/4/1
最新版:2001/12/15


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