スプリング・イン・ホームタウン
題名 英題
原題 ハングル |
スプリング・イン・ホームタウン Spring in My Hometown Spring in Hometown(日本での表記) 美しい時代 아름다운 시절 |
製作年 |
1998 |
時間 |
121 |
製作 配給 |
白頭大幹 SKC |
監督 |
イ・グァンモ |
出演 |
イ・イン アン・ソンギ ペ・ユジョン ソン・オクスク ユ・オソン ミョン・スンミ キム・ジョンウ コ・ドンオプ オ・ジヘ チョン・ソンジュン キム・ギョンジェ シン・サンフン ペ・ヒョヌ アン・ギョンヨン キム・スンジン ユ・ヘジョン チャ・ガラム クァク・セリョン パク・ソニョン ミョン・ゲナム |
日本版 Video DVD |
なし |
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朝鮮戦争時代の人々の姿を二人の少年の目を通して描いた作品。美しいロングショットと長回しを多用したその映像美は一見の価値があるとともに、朝鮮戦争に対する根本的な問いかけをした重厚な作品に仕上がっている。同テーマを扱った作品『銀馬将軍は来なかった』と比較してみると面白い。
ソンミン(イ・イン)とチャンヒ(キム・ジョンウ)。二人の少年が住む村は米軍基地と深くかかわり、基地がなくては生活が出来ないような村。ソンミンの父(アン・ソンギ)は娘ヨンスク(ミョン・スンミ)が米軍将校と付き合っているおかげで米軍倉庫で働いている。一方、貧しいチャンヒ一家はソンミンの家族のおかげでやっと生活できている状態。ある日、二人の少年はソンミンの父の手引きでチャンヒの母親(ペ・ユジョン)がアメリカ兵相手に体を売っているのを目撃し激しい衝撃を受ける。
監督のイ・グァンモは、この作品がデビュー作。8年余りの執筆期間の後、1995年に完成したシナリオ "Spring in My Hometown" は第7回 Hartley-Merrill 国際シナリオコンテストで大賞を受賞。'97 ロッテルダム映画祭シネマートで各国配給社から配給のオファーが殺到するなど、国内より海外でいち早く注目を浴びた。
伝統音楽と現代音楽を融合させたウォン・イルの音楽も秀逸。撮影はキム・ヒョング。照明監督はイ・ガンサン。ユ・ヨンシクが助監督を担当している。
作家主義の作品であるため韓国国内での興行が心配されたが、封切り前後に相次いだ国際映画賞の受賞が功を奏したか、ソウルで10万名近い観客を動員した。
第11回(1998)東京国際映画祭と、1999年に開催された NEO KOREA 韓国新世代映画祭'99 では『故郷の春』という題名で上映された。
1998年カンヌ国際映画祭「監督週間」部門に出品され、以後モントリオール・シカゴ・ハワイ・香港・エジンバラなど50余りの国際映画祭から招待された。第3回(1998)釜山国際映画祭「韓国映画パノラマ」部門、第36回(2001)Karlovy Vary国際映画祭回顧展「ニュー・コリアン・シネマ」出品。第11回(1998)東京国際映画祭では東京ゴールド賞(新人監督を対象とする賞で、旧ヤングシネマ・コンペティションのグランプリに相当する)を受賞。他にも第18回(1998)ハワイ国際映画祭グランプリ、第39回(1998)テサロニキ国際映画祭最優秀芸術貢献賞、フランスの'98ベルフォール映画祭グランプリ、第13回(1999)スイス・フライブルグ国際映画祭国際映画連盟賞(国際シネクラブ賞)、第4回(1999)インド・ケーララ国際映画祭審査委員特別賞を受賞している。
第3回全州国際映画祭2002「韓国映画回顧展」部門上映作品。
映画振興公社が選定する1998年の「芸術・実験映画」選定作品。第7回(1999)春史映画芸術賞最優秀作品賞・企画賞(イ・グァンモ)・音楽賞(ウォン・イル)、第35回(1999)百想芸術大賞新人監督賞、第36回(1999)大鐘賞最優秀作品賞・監督賞・撮影賞(キム・ヒョング)・音楽賞(ウォン・イル)・美術賞(MBC美術センター)・衣装賞(MBC美術センター)、第19回(1999)映画評論家協会賞最優秀作品賞・最優秀監督賞・撮影賞(キム・ヒョング)・音楽賞(ウォン・イル)受賞作品。
『シネ・フロント』289号(October 2000 Vol.25 No.11)の29頁から33頁に『スプリング・イン・ホームタウン』のショート・ストーリー(シナリオ採録)がある。
初版:1998/11
最新版:2001/7/3
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【ソチョンの鑑賞ノート】
1998年11月5日、オーチャードホール(第11回東京国際映画祭)にて鑑賞
鑑賞直後の第一印象
この映画を見て最も印象に残ったのは、抑制の効いた表現と固定カメラによる長廻しという撮影テクニックでした。今年のカンヌ映画祭には韓国映画が3本招待されているのですが、その3本(『スプリング・イン・ホームタウン』,『八月のクリスマス』,『カンウォンドの恋』)は、いずれも抑制の効いた表現と固定カメラによる長廻しという特徴を共有しています。しかし、『八月のクリスマス』と『カンウォンドの恋』にはなくて『スプリング・イン・ホームタウン』にはある特徴が一つあります。それはカメラと俳優の距離が非常に遠いということ(ロング・ショット)。いわゆるアップが全くでてきません。そして押し並べて非常に遠い距離を保って俳優を撮っている。結果として一人一人の人物は豆粒のように小さいので、どの俳優がどの役をやっていたのか全然分かりません(ユ・オソンがソンミンのおじさんをやっていたとパンフを見て知った)。そして表情演技というものが全くない。いや、俳優の方々は演じてらっしゃるのだろうけど観客にはそれが見えない。表情演技と言えるのは、ソンミンとチャンヒが壁穴越しに建物の中を覗くシーンぐらいじゃないでしょうか。アン・ソンギという名優を使っていながら、彼の演技力を必要としない撮影方法を用いている。普通の韓国映画の監督は、アン・ソンギをキャスティングする際、彼の圧倒的なまでの存在感と演技力(特に表情演技)を生かそうとするのですが、イ・グァンモという監督はそれをやっていない。その点、『眠る男』でアン・ソンギにひたすら眠り続ける演技を要求した小栗康平監督に何か一脈通じる点があるような気もします。ただ『眠る男』の役はアン・ソンギでなければ成立しなかったかもしれませんが、『スプリング・イン・ホームタウン』でのアン・ソンギの役は彼である必要はなかったのではないか? このような印象を持ちました。その意味でこの映画は良くも悪くもイ・グァンモの映画であって、役者は本当に脇役です。釜山国際映画祭でこの映画のティーチ・インを見ましたが、その時俳優がアン・ソンギを含めて7人もいたのに彼らに対する質問は全く飛ばなかった。その時は、映画を見ていなかったのでピンときませんでしたが、今回初めて作品を見て、俳優に対する質問が出なかった理由が分かったような気がします。
『八月のクリスマス』は俳優に依存する部分がかなりあります。ホ・ジノ監督は「この映画では大きなドラマ展開や、大きな感情の起伏を表わすというよりも、日常生活の中の自然な演技が要求されるので、ハン・ソッキュを起用した。(アジアフォーカスの質疑応答より)」と言っています。『カンウォンドの恋』でホン・サンス監督は「観客が映画の主人公の中に自分の姿を発見して共感しやすい様に..」と全くの素人を主人公に起用しました。演技力そのものは期待していなくても素人であることを期待している。イ・グァンモは俳優に何を期待してキャスティングをしたのか? そんな疑問が湧く撮影方法でした。
鑑賞からしばらく経って...
まれに見る作家主義の映画。朝鮮戦争をテーマとしているが、この映画は歴史やイデオロギーを語らない。抑制の効いた表現で、ただ淡々と民衆の生活を描く。その点、妙なセンチメンタリズムがなくてよい。監督はティーチ・インの最中に別の文脈の中で「自分は朝鮮戦争の時代に生きておらず、どうしても表現が観念的・抽象的になるので...」という文言を使われた。そのとおりだと思う。監督は1961年生まれだが、この世代は実体験というものを持っていないから、この映画のように静かに控えめに描写してあとは観客一人一人に読み取ってもらう作りにしたほうが嘘っぽくなくて、またイデオロギッシュにならなくてよいだろう。そうでなければ『ナヌムの家』のように生証人に語らせるかどちらかだ。
撮影技術では、固定カメラによるロング・ショットとロング・テークの多用が印象的だった。1998年のカンヌ映画祭に招待された韓国映画3本(この映画と『八月のクリスマス』,『カンウォンドの恋』)は、いずれも抑制の効いた表現と固定カメラによる長廻しを使っているが、俳優の顔が識別困難な程のロング・ショットはこの映画にだけ見られる特徴だ。このロング・ショットにより観客は昔の記録を見るように、恐らく監督の願いとしては「我々の父や祖父の世代の日記帳を読むように」一定の距離を置いて映画に接することとなる。決して人物に近づこうとしないカメラ。映画のどの部分を読むのか、また映画から何を読み取るのかは観客の自由裁量に委ねられている。いみじくも上映前の挨拶で監督は次のように述べた。
映画の見えない部分にも想像力をはたらかし、みなさん各自でこの映画を完成させてほしい(東京国際映画祭の舞台挨拶より)。
合間合間に入る字幕もなかなか効果的。映像と台詞の省略を補完する役割を担っている。上半分は物語を補足する内容で、下半分はその時代の歴史的な出来事を記述している。この字幕によって観客は映画にのめり込みすぎることなく、自らの考えや歴史的な流れを再確認することが出来る。日本人には分からないが、朝鮮戦争を生き抜いた世代の方にとっては、折々の戦況や休戦、捕虜交換などの事件を記述した字幕が出るだけでも感じ入るものがあるに違いない。ただし上半分の物語を補足する字幕は賛否両論別れるところだろう。個人的にはストーリー・ラインはやはり映像で語ってもらいたいと思う。この映画は極力客観的になろうと意識しすぎるあまり、また極力観客自身に感じ取ってもらいたいと願うあまり、一部描写が不十分な箇所がある。その結果、物語を補足する字幕が必要となる。例えば、アン・ソンギ演じる父親の崔氏は娘が米軍将校と付き合っているおかげで職を持つことができているのだが、観客はそれを字幕からしか知ることが出来ない。しかし、この程度の事であれば映像や台詞に語らせることはさほど難しくないだろう。どのあたりでバランスを取るのかは大変難しい問題であるが、この映画は観客の想像力に委ねる部分が多すぎるように思う。徹底した客観性はこの映画の長所であると共に短所でもあるのだ。ロング・ショットにより生み出される客観性が観客をこの映画にのめり込ませるのを妨げているとも言える。それすらも監督の狙いかもしれないが。
投稿者:SUMさん 投稿日:1999年8月12日(木)23時06分44秒
現在の韓国が立っている場所を描いている。今の韓国人が歴史を感じるのには、素晴らしい映画なのだろう。
シーンの省略とロングショットで観客に随分と解釈を預けた映画なのだけれども、何を明確に描いて、何をそうしなかったか、という構成において、センスや緻密さにやや欠ける部分があるような気がしてならない。それでも、その映像美と家族・村の姿など、それを差し引いても伝わってくるものだけで、この映画には十分感動して、余韻を感じることが出来る。
メインとなる家族、父、姉、息子、そしてその友だち。それを取り巻く村。それがこの時代の韓国だったのだろうし、監督のルーツだったのだろうし、今の韓国なのかもしれない。
【評価:★★★★】
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