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研究ノート:ユ・ヨンギルの映像美

小沢英裕(SUM)
1999/3/10受領



  1. ユ・ヨンギルとの出会い

    「この映画をユ・ヨンギル撮影監督の霊前に捧げる」

    −『八月のクリスマス』冒頭のテロップより−

     1998年2月下旬、 久しぶりにやってきたソウルの映画館で1本の作品を鑑賞し、ずいぶん不思議な感覚に包まれた。その作品のタイトルは『八月のクリスマス』。事前に「レベルが高い作品」と聞いてはいたが、まいった。綴られる何気ない日常世界のセンスの素晴らしさは、今までの韓国映画に対する印象を根本から変えてくれた。その映像には迫ってくるような感じこそなかったが、この作品を思いだそうとする度に映像の断片が目に浮かんでは消える。いつからなのだろうか、「映像が気になる」、そう思った頃に、この映画のカメラマン ユ・ヨンギルが既にこの世にないことを耳にしたのだった。そして驚いた。そのカメラマンの作品を自分は何本か見ていたのだ。しかもそのいずれもが過去の韓国映画の中で忘れられない作品なのだった。私が今でも韓国映画ベストテンに数える『チルスとマンス』や『三度は短く、三度は長く』、そして『ホワイト・バッジ』など。その後彼の作品をさらに何本か目にして、「自分が好きだった韓国映画の良さというのはこの映像だったのかもしれない」とさえ思った。なんと生き生きとした人間の姿、風景の香り。

  2. ユ・ヨンギルの映像
     韓国映画を代表する作品といっていいだろう『神様こんにちは』『ホワイト・バッジ』ではクレーンを用いた躍動的なカメラワークが生きている。これらはいずれもユ・ヨンギルが担当した作品であり、彼の映像で注目すべき大きなポイントの一つは移動カメラにある。だが、彼の精妙な色彩センスというものも忘れてはならないだろう。『八月のクリスマス』の監督ホ・ジノはユ・ヨンギルについて次のように語っている。

     いつだったか明け方までお酒を飲んでいて、ゴミ箱を一つ取ってぴたりとそれを置かれたんですよ。そして「このゴミ箱が光に従って、こうやって違って見えるんだ」とおっしゃった。 (中略) 光に対して非常に意見の多い方だったのでしょう(注1)
    光に対する精妙な色彩センスこそ、『八月のクリスマス』で結実した彼の才能であるが、この点は海外ではやや過小評価されてきたように思う。
     動きのカメラでならした彼かも知れないが、『グリーンフィッシュ』では、冒頭で動かないフレームの中でハン・ソッキュへスカーフが向かってくるシーンのさりげない美しさを筆頭として、裏世界でボスに従うシーンの冷めた感覚、そして殺人という形で自分を全身で表現したシーンのリアルさ、そしてすべて過ぎ去って家族が結びついたシーンの日常的日差しまで、色彩の移り変わりの微妙な変化は見事である。『八月のクリスマス』全編に漂う制止して見つめる視線の暖かみも同様であり、いずれも人間の喜びも悩みも暖かく包み込むような映像が彼が最後にたどりついた姿なのである。そしてのこの視線は、何も人間に限ったことでもないし、特定の作品にだけ見られた傾向でもないのだ。
     『チルスとマンス』における、生き生きとしたアン・ソンギパク・チュンフンの表情が彼の映像によってより輝いたということは、ハン・ソッキュとシム・ウナの自然体の演技が光った『八月のクリスマス』と比べて述べることも可能であろうし、さらに『私の愛、私の花嫁』においてパク・チュンフンとチェ・ジンシルが、漫画チックでありながらも輝いていたことと並べて考えれば、そこに1本の線がおぼろげながらも見えてくるような気がしないだろうか。
     『ホワイト・バッジ』における砂漠やジャングルの土の生々しさも彼の映像センスを表しているだろう。そして『美しき青年 全泰壱』では、炎に包まれる全泰壱(チョン・テイル)の美しさ、1960年代の白黒でくすんでいながらカラーよりヴィヴィッドな感覚、1970年代の自然な太陽光の色彩をうけながらどこか明くるなりきらないくすみ、その見事さは改めてここで語る必要はないだろう。
     彼は日常に「ある」こと、そして「いる」ことに感動できる人だったのではないだろうか。日常のただ何気ない人や動物や風景の生命力に感動していたのではないだろうか。そしてそれを無邪気に感動しながらも理論的に刻み込んで人が感動できるシークエンスというものを熟知していったのではないだろうか。
     彼の目は太陽光で白熱球。一瞬の映像のきらめきでは海外のあまたの魔術師たちにかなわないかも知れないが、それよりも、自然体で心から消えない映像世界を知っている。

  3. ユ・ヨンギルの映画人生(前期:1956〜1980)
     1935年生まれの彼は、1956年大学1年の時、学費を稼ぐための家庭教師先が偶然にもヤン・ジュナム撮影監督宅となった。そして映画『ペベンイグッ』の撮影現場に見学へ行ったことから彼の映画人生が始まる。撮影チームでの下積み時代には彼と並ぶ撮影監督チョン・イルソンの下でも仕事をしており、彼の影響も大きかったという。そして1969年にユ・ヒョンモクの『私も人間になりたい』で撮影監督のデビューを飾った。初期の彼の作品でまず挙げるとすればユ・ヒョンモクの後期の代表作『長雨』となろうか。1960年〜1970年代のビッグ3(ユ・ヒョンモク、シン・サンオク、キム・ギヨン)との評価を受けている一人と組んでいるわけである。そして、1970年代前半にハ・ギルチョン監督と出会い、「映像時代」の監督たちと主に仕事をする。その後、1975年から1991年まで RKB/TBS NEWSならびにアメリカ CBS 放送ソウル支局記者をつとめ、特に1985年までは1年1本程度との契約だったため作品がしばらく減少する。

  4. ユ・ヨンギルの映画人生(中期:1980年代)
     中期であるが、彼はまず1980年に光州事件を自分のカメラで世界に報じるという経験をしている。『美しい人間 ユ・ヨンギル』(イ・ヨングァン編,1998)にある450字程度のプロフィールでもこの点が触れられているところをみると(注2)、この経験がこの後ドキュメンタリータッチの作品が増えてゆく彼を表す一つのキーワードと見てよいように思う(注3)
     1980年代はチョン・ジヨンペ・チャンホらと組んでいる。特にペ・チャンホとは『すばらしき我が青春の日々』『神様こんにちは』を生んだ。『神様こんにちは』などは自由な映像が映画を特徴づけている作品である。この作品はロングショットと動きのあるカメラが特徴であり、この時期の韓国映画の代表的な傑作である。ペ・チャンホとは、主に彼の後期の作品を担当しており、それがこの監督にとってより実験的で興行成績の伴っていない作品であるのが面白い(注4)。1979年のハ・ギルチョンの死によって「もう映画を撮れない」とさえ思った彼がペ・チャンホとの出会いにより再び映画に明かりを見いだしたという(注5)
     私はこの時期の作品ではキム・ホソンの『三度は短く、三度は長く』くらいしか見ていないが、ここでもちょっとした効果音の収録のためにカラフルな風船に囲まれたシーンのほほえましさと色彩感覚、焦った彼が走るときのスピーディーなカメラといった映像テクニックが十分に感じ取られる。

  5. ユ・ヨンギルの映画人生(後期:1980年代後半〜1990年代前半)
     1980年代後期から1990年代初期は民主化期のニューウェーブとの出会いの時期であった。この時期の作品はどれも高いレベルで海外で数々の賞を受賞している。特に、チャン・ソヌパク・クァンスイ・ミョンセとの出会いが集中した1988年を彼は後に「生涯最良の年」と語ったという。チャン・ソヌと組んで『成功時代』,『ウムッペミの愛』,『競馬場へ行く道』,『華厳経』、パク・クァンスと『チルスとマンス』『追われし者の挽歌』『あの島へ行きたい』チョン・ジヨン『南部軍 愛と幻想のパルチザン』,『粉々に砕け散った名前よ』,『ホワイト・バッジ』。民主化に伴ってやっと吹き出した社会派世代と多く仕事をして傑作を生んでいるのだ。
     その一方で、イ・ミョンセ『私の愛、私の花嫁』『初恋』など漫画チックでハッピーな映画を撮っているのも面白い。また、1990年代の韓国娯楽映画を1世代前に進めたカン・ウソクの初期作品である『十九の絶望の末に歌う一つの愛の歌』『二十歳まで生きたい』を担当していることも見逃せない。
     これらの監督はいずれも初期から彼がコンビを組んで、後に韓国を代表する監督へと成長している。彼が1990年代初期ニューウェーブを支えたのは明らかである。
     『追われし者の挽歌』についてトニーレインズは「広角レンズの使用による複雑な構図の用い方は、政治的な問題が働いていることをたえず想起させる」と語っているが(注6)、『あの島へ行きたい』も、複雑な問題を等距離に見つめている作品である。いずれも登場人物が生き生きとしているが過度に感情移入せず人間を見つめており、ここへパク・クァンスの「視線」を彼が担ったことが生きている。
     この時代の彼は世界に名を知られた韓国映画の多くを送り出した反面、抑えて見つめるような視線が災いして、彼の名が海外で注目されるまでには至らなかったという気がしてならない。しかし、これも『グリーンフィッシュ』『八月のクリスマス』と見ていけば1本の線として結びつけられると言って良いだろう。

  6. ユ・ヨンギルの映画人生(晩年:1990年代後半)
     彼の晩年は「素晴らしい」という一言に尽きる。この時期は社会派世代のクライマックスと言っても良い傑作『美しき青年 全泰壱』パク・クァンス監督)と『つぼみ(原題:花びら)』チャン・ソヌ監督)を生んでいる一方、パク・クァンス監督の元でも仕事を経験している3人、ヨ・ギュンドン『セサン・パクロ 外の世界へ』)、イ・チャンドン『グリーンフィッシュ』)、ホ・ジノ『八月のクリスマス』)らのデビュー作に携わっている。まさに新世代への道しるべとなって亡くなったのだ。
     これらはいずれも、映画全体で映像が完結している。どの場面を切り取っても、その断面だけでは彼の良さが十分にはわからない。『美しき青年 全泰壱』の炎に包まれる全泰壱がこれほどまでに美しかったのは、白黒でくすんでいながらなカラーよりヴィヴィッドな大過去の映像と自然な太陽光の色彩をうけながらどこか明くるなりきらない過去の映像が絡んでいき、その接点となったラストであるからこそであろう。
     政治的色彩のより薄い『グリーンフィッシュ』では、何でもない主人公とその家族の日常そのものである生命力を感じさせながら、家族の隙間によって彼が冷たく影のある世界へ進んでいき、一人の人間が砕けてなくなってしまう。最後に家族にまた太陽のもとの日常が訪れたときの輝きは積み重ねがあってこそである。
     いずれも映画全体の構造の中の映像としてそれぞれの場面に意味を与えている。全体の構成が緻密な映画であるとともに、いかにその一つ一つが生命力を持って有機的に結びつけられているかをも示しているであろう。数ある映像のテクニックと映像センスをもって、作品全体に生命を与えるために選んだ一つ一つの映像の結実がそこにある。

  7. 最後に
     長らく韓国映画は、確かに映像にあか抜けないところがあった。これは映画の技術の問題というよりも、カメラや照明の機材、そしてフィルムも含めて予算などの問題が大きかったのではないだろうか。それがために他の要素を無視して「古い」と言われるのは我慢ならない。評論家を含めた多くの日本人がユ・ヨンギルを、そしてもしかすると韓国映画を忘れている間に彼は韓国映画を進化させていたような気がする。
     担当した作品を論じられる中でその映像が触れられることは少なくなかったものの、海外で十分に名を知られるまでに至らなかった彼である。それが、遺作『八月のクリスマス』で韓国1990年代後半のニューウェーブの一つとして彼が発見されつつあるというのは何よりの喜びである(注7)
     ここでは触れなかったが、完全主義者としての彼、教育者としての彼など、多くの論点がありそうなこの作家に関する研究が海外で、中でも日本でなされることを願う。


(注1) 『美しい人間 ユ・ヨンギル』(イ・ヨングァン編,1998)に収録されている「ホ・ジノへのインタビュー 苦悶をともにする大人」 p.201 から引用。
(注2) 『美しい人間 ユ・ヨンギル』(イ・ヨングァン編,1998)は、ユ・ヨンギルの回顧展が開かれた第3回(1998)釜山国際映画祭で出版された書籍。韓国語版と英語版の "Beutiful Cinematographer Yoo Young-Kil" があり、英語版は韓国語版の抜粋。但し一部、英語版にしか掲載されていない部分もある。韓国語版は韓国の書店で入手可。
(注3) 後にユ・ヨンギルは光州事件を描いた作品『つぼみ(原題:花びら)』チャン・ソヌ監督,1996)の撮影監督を担当し、所感として「その日、そこにいたから感慨が格別だ」と述べている。
(注4) ペ・チャンホの後期作品に実験的で興行成績の伴っていない作品が多いことは、前川道博「「昶浩(ペ・チャンホ)論」(佐藤忠男編『アジア映画小事典』,三一書房,1995,pp.235-243)が詳しい。
(注5) 『美しい人間 ユ・ヨンギル』(イ・ヨングァン編,1998)に収録されているイ・ヨノ「ニュウェーブの目となり韓国映画の精神になった」の p.26 の記述による。
(注6) トニー・レインズ「韓国映画の新しい波 東アジアの映画シーンにおける韓国ヌーヴェル・ヴァーグ」(『Cinema101』第3号,1996,pp.11-21)の p.20,l.5-7 より引用。
(注7) ユ・ヨンギルが担当していた作品を日本で最も多く見ている一人である佐藤忠男氏が、『八月のクリスマス』が上映されたアジアフォーカス・福岡映画祭 '98 のティーチ・インの席で、ホ・ジノ監督へカメラマンについて質問したというのは非常に印象的である。

謝辞
 この文章を書く動機とともに、書き進むその方向性に対しても適宜示唆に富んだコメントを与えてくださった西村嘉夫(ソチョン)氏に感謝の意を表します。


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