1919年10月10日、ソウル生まれ。医学部を卒業し歯科医の資格を持つ。1930年に平壌に移り、以後激動の時代を南北双方で過ごす。大学時代には演劇活動の経験があり、平壌では主に演劇活動をしていた。京都の医大に留学経験あり。韓国映画界の黄金時代である1950〜1960年代をキム・スヨン、シン・サンオク、ユ・ヒョンモク、イ・マニらとともに支えた人物であり、その独特の風貌と豪胆な性格でも知られる名物監督。韓国映画界の「怪物」と評される。
1955年に『屍の箱』で監督デビュー。初期の作品には戦中・戦後の韓国社会を描いたものが多いが、転機は1960年の『下女』。この作品で、監督の特徴である徹底的にデフォルメされた映像空間と、生涯のテーマである「人間のエゴイズム」がグロテスクな描写であますところなく表現され、以後、個人の問題や女性の問題を独自のスタイルで描写し続けた。『下女』は1961年の第8回アジア映画祭(マニラ)に出品され、小津安二郎監督の『秋日和』を上回る評価を受けた。
フィルムが現存している関係で、『下女』以降の『火女』『虫女』など「女シリーズ」が強調されるが、それだけの作家ではなく『十代の反抗』『玄海灘は知っている』『高麗葬』など伝説の名作を数多く製作している。『十代の反抗』は荒廃した韓国社会で浮浪する少年達をリアルに描いた作品で、子役時代のアン・ソンギ主演。彼は、この作品でサンフランシスコ映画祭の少年特別演技賞を受賞している。そもそもアン・ソンギを自作『黄昏列車』でデビューさせたのは、キム・ギヨンその人である。『玄海灘は知っている』は第二次世界大戦中、日本軍に入隊させられた朝鮮人兵士の目で旧日本軍を見つめた作品。『高麗葬』は姥捨て伝説にもとづくストーリーで、『楢山節考』などと比較してみたいところだが、残念ながらいずれもフィルムが紛失しているか、あっても上映に耐えられる状態ではないという。
1984年の『肉食動物』以後、長い間監督業から遠ざかっていたが、1996年に東京は赤坂で国際交流基金アジアセンターが開催した「アジア映画監督シリーズ 韓国の二大巨匠 金綺泳&金洙容」から再度脚光を浴び始め、1997年には釜山国際映画祭で特集が組まれ、韓国内で大きく再評価される。そして1998年にはベルリン国際映画祭など多数の映画祭で監督の特別展が開かれ、高い評価を受けた。独自のタッチで個人主義的なテーマを貫いてきたため、その作品は数十年経った今日でもまったく色褪せることがない。
監督休業中にも常に脚本を用意していた監督は、再評価の大きなうねりの中で、新作『悪女』の製作を決定。主演女優も決まり、製作に入っていこうというその矢先1998年2月5日、不意の火災で夫人と共に他界された。
一般公開はされていないが『死んでもいい経験』(1988)という作品があり、第3回(1998)釜山国際映画祭で特別上映された。生命保険会社に勤める男と彼の妻、そして子供欲しさのあまりセックス狂になった中年女性の話で、「女」シリーズの系譜に入る作品と思われる。この作品は「2001韓国映画プロジェクト2」で日本でも上映された。
初版:1998/9/4
最新版:2001/11/11
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