「国民俳優」アン・ソンギが「100の顔を持つ男」なら、「知性派俳優」ムン・ソングンは「1,000の顔を持つ男」。『追われし者の挽歌』で、百想芸術大賞新人賞を獲得したのをはじめとし、数え切れないほどの国内映画賞を受賞している演技派男優。
第三国経由で初めて北朝鮮に布教活動のため入国し、その後、板門店を通って帰国、即逮捕されて有名になったムン・イクァン(文益換)牧師(詩人/統一運動家)の息子。6年間のサラリーマン生活を経て、1985年に演劇『韓氏年代記』で演劇俳優としての活動を始め、この作品の演技で1985年百想芸術大賞新人演技賞(演劇部門)を受賞する。
民主化運動が盛んだった激動の1980年代を文化運動の本流である演劇界で過ごした後、1990年の『びりから一等まで僕たちのクラスを訪ねます』でスクリーン・デビュー。映画界に進出したきっかけの一つは、『五月−夢の国』を見て映画の社会的影響力の大きさを感じたことだったという。1990年代前半は、社会派監督であるパク・クァンス作品に四作品、また同じく社会批判的作品を供給し続けるチャン・ソヌの作品に三作品出演しているのが、彼の俳優としてのポジションを物語っている。
30歳を過ぎてから映画デビューしたにもかかわらず、またたくまにスターの座を獲得したのは、徹底した努力の賜物。当の本人がインテリのため、『追われし者の挽歌(原題:彼らも我らのように)』,『競馬場へ行く道』など初期作品では知識人のイメージが強い役が多かったが、次第に演技の幅を広げ、今では、やくざの親分、映画監督、場末の労働者、その辺にいる小市民的親父などいかなる役柄も見事にこなす。特に製作者としても参加した『グリーンフィッシュ』で演じた暴力団のボス役は、何気ない素振りから喋り方まで完璧になりきっていたのは記憶に新しい。
釜山国際映画祭のコンペ部門の審査委員になるなど俳優以外の活動も活発で、1995年以降は、映画製作会社「イースト・フィルム」と映画投資会社「ユニコリア文芸投資」を創立した他、映画政策問題を考える忠武路フォーラムの代表をつとめたり、スクリーン・クォーター制死守運動の先頭に立つなど、様々な活動をしている。1999年には映画振興委員会(旧:映画振興公社)副委員長に就任したが、権力闘争の中で辞任。ただし、そのお陰で以前から出演依頼を受けていた『秘花 〜スジョンの愛〜』に出演できることとなった。
2000年には、スクリーン・クォーター監視団が拡大・再編されたスクリーン・クォーター文化連帯の理事長に就任。また、自らが司会をしている人気ドキュメンタリー番組『それが知りたい』のPDとドキュメンタリー専門プロダクション「ドキュメンタリー・フォーラム」を設立。2001年4月からは、映画のメイキング・ドキュメンタリーに力を注ぐ映画紹介番組『ムン・ソングンの映画世界』(ドキュメンタリー・フォーラムが製作の50%を担当)の司会をつとめる。そして、2001年末に新たに設立されたソウル映像委員会(フィルムコミッション)の監査にも就任。
次回作は、パク・チャノク監督の『嫉妬は我が力』。
『嫉妬は我が力』の撮影終了後、2002年末の大統領選挙にあたって、ノ・ムヒョン(盧武鉉)候補の応援活動に専念。国民参加運動本部共同本部長やテレビでの応援演説などを通じて、ミョン・ゲナム等と共に同候補を当選へと導いた。なお、同年5月には政治活動を理由に『それが知りたい』の司会や、スクリーン・クォーター文化連帯理事長職を辞任したが、選挙終了後は芸能活動に復帰予定で、政治の世界に身をおく予定はないという。
初版:1998
最新版:2003/1/13
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