イ・ウン
名前 漢字 ハングル |
イ・ウン 李恩 이은 |
性別 |
男 |
監督作品 |
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新進気鋭の製作会社ミョン・フィルムの代表兼映画監督。現在では、映画人会議やスクリーン・クォーター制死守運動でも活躍しており、非常任映画振興委員会委員も勤める。
1961年、ソウル生まれ。1989年に中央大学演劇映画科を、1990年に同大学院映画学科修士課程を修了し、BAとMFAを持つ。
大学は「映画」ではなく「演劇」で入学。加えて、入学後はサークル活動に興じていたが、兵役に就いていたさなか「時代と良心のために生きるべきだ」と決心。軍隊にいるときに見た『馬鹿宣言』に衝撃を受けたのがきっかけで、復学後、1985年から大学で映画のワークショップを始める。短編映画『工場のあかり』を製作したのがきっかけで、チャン・ドンホン、チャン・ユニョンらと知り合い、光州事件を描いたインディペンデント映画『五月−夢の国』を共同製作する。そして、この作品が完成した1988年冬に、映画活動を続けていくため、「映画を通じて現実を変える」ことを目的に独立映画集団チャンサンコンメを結成。1990年には労働運動を描いた『ストライキ前夜』を製作する。
『ストライキ前夜』の成功後、イ・ウンは韓国映画界のメイン・ストリームとの交流を促進しようとしたが、チャンサンコンメの他のメンバーからは反対意見が続出。遅々として進まぬチャンサンコンメの活動に見切りをつけたイ・ウンは脱退して、チャン・ユニョン、オ・チャンファンらとチャンイオ・プロダクションを設立する。そして、1994年にミョン企画のシム・ジェミョンと結婚。1995年にミョン・フィルムを創立し商業映画界に進出する。
1996年にミョン・フィルム創立作品として『コルセット』を発表。翌1997年には『接続』を大ヒットさせて製作会社としての基盤を確立し、以後、『クワイエット・ファミリー』、『陽が西から昇ったら』、『ハッピーエンド』などの話題作・秀作を作り続ける。
1998年には、韓国映画で初めてプロ野球審判という職業をラブストーリーを通して描いた『陽が西から昇ったら』で商業映画監督としてデビュー。ちなみに、イ・ウンは、野球狂の若いシナリオ作家キム・ヒョンソクが書いた『陽が西から昇ったら』の草稿を読んだ瞬間、男性主人公のキャラクターに魅了され、当初は製作者としてシナリオ修正作業などを進めていたが、時間が経つに連れ自らメガホンを取る決心をするに至ったという。
2000年には、ヴェネチア国際映画祭コンペ部門に進出した『魚と寝る女』、そして記録的な大ヒットとなった『JSA』を製作。『JSA』は、1998年12月に原作小説『DMZ』を読んだイ・ウンが「誰かが映画化すべき内容」と判断し、妻のシム・ジェミョンに相談したのがきっかけで製作がスタート。翌1999年1月にはパク・チャヌクを監督に決定し、シナリオの完成にほぼ1年を費やしたという。
ミョン・フィルムは、2001年に、インターネットなどの新しいメディアを対象とした映画社 dnding.com と、海外合弁事業・海外セールス専門の会社 E Pictures(代表は釜山国際映画祭のフリーマーケット「釜山プロモーション・プラン」設立の立役者であるポール・イ)の二つの子会社を設立。また、100億ウォン・クラスの映像専門投資組合を結成したり、CJエンターテインメントと持ち株を交換して関係を強化するなど、事業の多角化に乗り出している。
また同年には、妻のシム・ジェミョンと共に、アメリカの週刊誌『バラエティー』で「注目すべき10人のプロデューサー」にアジアから唯一選出された。
ミョン・フィルムは現在、製作実務を総括するイ・ウン、シナリオ選定とマーケティングを担当するシム・ジェミョン、シム・ジェミョンの妹でマーケティングと製作全般に関与するシム・ボギョンの三人によって支えられている。なお、シム・ジェミョンは専門性を重視して現実的な判断をする一方で、イ・ウンは長期的な視野にたって理想を追求するタイプとか。
他の有力製作会社が大作に偏りがちなのに対し、ミョン・フィルムは『魚と寝る女』、『ワイキキ・ブラザース』といった作家性のある小品の製作も積極的に手がけているのが特長。
初版:1998/12
最新版:2002/3/11
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