「恵園」申潤福(シン・ユンボク)、「檀園」金弘道(キム・ホンド)と共に「朝鮮時代三大画家(朝鮮時代三園)」と呼ばれる天才画家「吾園」張承業(チャン・スンオプ,1843〜1897,「吾園」はスンオプの雅号)の生涯を映画化。酒と女なしには筆をとろうとしなかった破天荒な天才画家チャン・スンオプの芸術世界と、芸術家としての苦悩、そして彼にまつわる女性たちの物語を、全編山水画のような秀麗な映像で描く。題名の『酔画仙』は、常に酒と共にあったチャン・スンオプの人生と、彼の絵の実力を表す意味で付けられた。
チャン・スンオプは朝鮮末期に身分の低い家系に生まれ、宮中画家にまでのぼりつめた実在の人物。伝統的な画風にこだわらない自由な画風で韓国近代絵画の土台を築いた。また、朝鮮王朝没落の激動期に宮廷を三回も逃げ出した奇行でも有名。ただし、彼に関する記録は極めて少なく、酒と女なしでは絵が描けなかった放蕩者、結婚はしたものの一日で逃げ出した、日本人記者と親交があった、などの記録が残っているのみ。従って、本作のエピソードの多くは創作されたもの。
時は1850年代、朝鮮王朝の末期。派閥勢力争いに組せず新しい世の中を夢見る開化派の学者キム・ビョンムン(アン・ソンギ)は、ある日、清渓川の乞食街で乞食達に痛めつけられていた物乞いのチャン・スンオプ少年を助けた。そして、スンオプの絵の実力に驚いたビョンムンは、彼をエリート官僚イ・ウンホン(ハン・ミョング)に預ける。ウンホンの家で作男として働きながら、絵の実力を発揮し始めるスンオプ。やがて、彼はウンホンの妹ソウン(ソン・イェジン)に一目惚れするが、彼の初恋はソウンの結婚で幕を閉じる。その後、画家として名前が知られ始めたスンオプは、天主教信者であるため迫害を受けて没落した両班(ヤンバン)の娘で妓生(キーセン)となったメヒャン(ユ・ホジョン)と知り合う。天主教に対する迫害が原因で何度も別れと再会を繰り返す二人。メヒャンはスンオプを理解できる唯一の女性だった。やがてスンオプは宮廷画家にまで上り詰めるが、その一方で彼の奇行はどんどん激しくなり、誰も彼を理解できなくなっていく。しかし、酒に酔って興が沸いたとき彼が取る筆からは神業が繰り出される。周りの者は、そんな彼の絵をただ手に入れ財産にしようと考えるだけだった。
時代劇にふさわしい豪華なキャスティングが実現。チェ・ミンシクが主人公のチャン・スンオプを演じ、KBSテレビ・ドラマ『天使のキス』にも出演していたユ・ホジョン(柳好貞,33歳)が生涯彼を見守り続ける妓生メヒャンを、アン・ソンギがチャン・スンオプの師キム・ビョンムンを、そしてキム・ヨジンがチャン・スンオプと同居する妓生ジノンを演じる。ちなみに、ユ・ホジョンは1995年11月にタレントのイ・ジェリョンと結婚しているが、この映画の撮影中は妊娠中だったとか(その後、無事出産)。そのほか、チャン・スンオプの初恋の相手ソウン役はソン・イェジンが担当。幼き日のチャン・スンオプは、チェ・ジョンソンが、若き日のチャン・スンオプは、KBSの歴史ドラマ『太祖王健』にも出演していたチョン・テウ(19)が演じた。
『春香伝』でパンソリの映像化に成功したイム・グォンテクが今度は東洋画の美しさを絶妙のタッチで描く。俳優よりも、そして主人公チャン・スンオプよりも、絵に重点の置かれた独特な作風は、達人による職人技映画といった趣。感動的なヒューマンドラマでもなく、天才画家の生涯を精緻に描くのでもなく、圧倒的な映像を写し取っている。
イム監督自らがシナリオを執筆し、東洋哲学の巨匠キム・ヨンオク(金容沃)教授が脚色を担当。キム・ヨンオクは、これまで『風の丘を越えて〜西便制』、『イ・ジェスの乱』などで製作時に助言を行っているが、直接映画製作にタッチするのは今回が初めて。
製作・企画はイ・テウォン。監督はイム・グォンテク。原案はミン・ビョンサム。脚本はイム・グォンテクとキム・ヨンオク。撮影はチョン・イルソン。照明はキム・ドンホ。編集はパク・スンドク。美術・衣装・小物・メイクはMBC美術センター。音楽はキム・ヨンドン。
『風の丘を越えて〜西便制』、『春香伝』などですっかりお馴染みとなった、イム・グォンテク監督、チョン・イルソン撮影監督、イ・テウォン プロデューサーの三人トリオが本作の根幹を支えている。
総製作費は60億ウォン。MBC美術センターが22億ウォンを投入して、ソウル総合撮影所に19世紀末の鍾路を再現した韓国映画史上最大のオープンセットを作った(『JSA』の板門店のセット建設費は約10億ウォン)。このオープンセットは、撮影終了後も保存され、観光も可能とする予定。また、韓国画の著名な画家や書道家など美術家200人あまりが端役出演などで製作に協力している。
第55回(2002)カンヌ国際映画祭コンペ部門、第37回(2002)Karlovy Vary国際映画祭Horizons部門、第12回アジアフォーカス・福岡映画祭2002、第27回(2002)トロント国際映画祭カラー・プレゼンテーション部門、第40回(2002)ニューヨーク映画祭、第15回東京国際映画祭協賛企画コリアン・シネマ・ウィーク2002、第38回(2002)シカゴ映画祭国際コンペ部門、第22回(2002)ハワイ国際映画祭Gala Presentation部門、2002年米国AFI国際映画祭アジアン・ニュークラシック部門、第7回(2002)釜山国際映画祭韓国映画パノマラ部門、2003年バンコク国際映画祭、2003年パームスプリングス国際映画祭マスター・シリーズ部門、第26回(2003)イェテボリ映画祭韓国映画特別展/ワールド・ワイド部門、フランス第9回(2003)ベス・アジア映画祭「今日のアジア映画の流れ」招待部門、第16回(2003)シンガポール国際映画祭オープニング、韓国文化院開院24周年記念コリアン・シネマ・ウィーク in Spring, 2003、金沢コミュニティ映画祭2004招待作品。
第55回(2002)カンヌ国際映画祭監督賞受賞作品。長編映画がカンヌで受賞したのは韓国映画史上初の快挙。これまで三大映画祭での受賞歴という点では、日本や中国語圏の映画に遅れを取っていた韓国映画界にとって、大きな自信となった。ちなみにカンヌでは「映像美と俳優の演技が印象的」との評を得た。東洋的なオリジナリティーを武器にしたこの作品の受賞スピーチで、イム監督は「アジア人全体に与えられた賞だと思う、この賞を受賞するまで支持してくれた全世界の批評家に感謝する」と発言した。
カンヌでの受賞をうけて、イム監督は、カトリック大学から映画界初の名誉文学博士号を授与されたほか、金冠文化勲章、ユネスコのフェリーニ・メダルを、製作者のイ・テウォンは銀冠文化勲章を受賞した。なお、金冠文化勲章は、韓国の芸術文化分野最高の勲章で、映画人に授与されるのは今回が初めて。またフェリーニ・メダルは、1995年に映画生誕100周年を記念し、フェデリコ・フェリーニの名前をとって制定された賞。人権保護と人類愛を謳う作家主義映画監督に授与されるユネスコ唯一の映画賞で、アジア映画人ではこれまでに『カンダハール』のモフセン・マフマルバフ監督が受賞している。
イム・グォンテク、イ・テウォン、チョン・イルソンの三人は、高麗大学言論大学院が授ける第1回(2002)言論・文化人賞受賞者に選定された。
第3回(2002)釜山映画評論家協会賞撮影賞(チョン・イルソン)・助演女優賞(キム・ヨジン)、第22回(2002)映画評論家協会賞撮影賞(チョン・イルソン)、第10回(2002)春史羅雲奎映画芸術祭功労賞(イ・テウォン、イム・グォンテク、チョン・イルソン)、2002国会大衆文化メディア大賞(映画部門)、第39回(2003)百想芸術大賞特別賞(イ・テウォン)、第23回(2002)青龍賞最優秀作品賞・監督賞(イム・グォンテク)・撮影賞(チョン・イルソン)受賞作。
2002年5月10日に韓国公開されたが、当初はそれほど動員数が伸びず、全国で50万人程度の集客で終わることが予想されていた。ところが、カンヌ国際映画祭での「監督賞受賞!」の朗報が届くやいなや配給会社が劇場数を増加させ、国内の興行成績がグン!と上がってロング・ラン。最終的には全国で100万人以上の観客を動員した。
その後、一旦上映終了されたが、カンヌでの受賞後、家族での鑑賞や、中学校・高校教師から学生に団体で鑑賞させたいという問い合わせが相次ぎ、「18歳以上鑑賞可」のレイティングだったオリジナルからエロティックな情事シーンを二分ほどカットして、中高校生でも見られるように「12歳以上鑑賞可」のレイティングにしたものを『吾園 張承業 酔画仙(오원 장승업 취화선 )』と改題して、8月30日より再公開した。ただし、こちらは期待されたほどの動員数を記録することはできなかった。
2002年冬にフランスで封切られ、二週目には87,000人余りの観客を動員し、ボックスオフィス第9位となった。ちなみに、フランスで公開された韓国映画で5万人以上を動員したのは、本作が初めて。その後、三週目には累計で13万600名の観客動員数をマークした。
また、フランスの第28回(2003)セザール賞では最優秀外国語映画賞にノミネートされた。韓国映画が同賞にノミネートされるのはこれが始めて。
韓国版公式サイトは第49回(2002)カンヌ国際広告祭フィルム・イベント・プロモーション部門銀賞を受賞している。
初版:2002/9/13 最新版:2003/2/13
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