1929年9月23日、京畿道安城生まれ。ソウル国立師範大学卒業。英語ができるのが幸いし、朝鮮戦争時に米軍の通訳将校を務める。休戦後、教育部署でラジオドラマを書くようになり、以後キャンペーン映画、ニュース映画などを演出する。
1958年の『恐妻家』で監督デビュー。キム・ギヨン、シン・サンオク、ユ・ヒョンモク、イ・マニらととも韓国映画界の黄金時代である1950〜1960年代を支えた。文芸映画を得意とし、『月給袋』,『あの空にも悲しみが』,『浜辺の村』,『満船』,『血脈』,『山火事』,『霧』,『射撃場の子供たち』,『春、春』,『土地』,『華やかな外出』,『亡命の沼』などが高く評価され、数え切れないほどの国内外の映画賞を受賞している。中でも『浜辺の村』と『霧』は特に評価が高く、『霧』では「韓国のアントニオーニ」と評された。
1972年の作品『雨中花』と『娃娃夫人』は、香港のショウ・ブラザーズで撮った作品で、『娃娃夫人』は香港でDVDもリリースされている。
1986年に製作した『重光(チュングァン)の空言』が検閲で11ヶ所削除されたのに抗議し、映画監督を引退。以後、清州大芸術学部教授、モントリオール映画祭審査委員、東京国際映画祭審査委員などを務め、後進の育成に尽力する。
1995年、初の日韓合作である『愛の黙示録』で監督復帰。この作品で監督作品が108作を数え、韓国の映画監督中最多記録を誇る(1998年現在)。以後「人間の108の煩悩を全て撮った」と豪語(?)。それはともかくとして、この最多記録は恐らく破られることはないだろう。
『愛の黙示録』以前、日韓の国交が正常化する前から『有情』,『東京特派員』などで何度となく日本ロケを敢行しており、最も多くの日本ロケをした監督。その来日回数は両手両足を使っても数え切れないほど。
日本文学に対する造詣も深く、日本語も堪能。デッサン画を得意とし、ベレー帽をかぶるその姿は芸術家のようでもある。文芸作品が得意というのもうなずける教養を持つ多作かつ多才な韓国映画界の巨匠。
最新作は第4回(1999)釜山国際映画祭「韓国映画パノラマ」部門で上映された『沈香』。
著書に『映画とは何か』,『どうして生きるべきか』,『芸術家の行き方』,『金洙容の映画講座』,『映画をあつくするもの達』などがある。
【略歴】
- 1929年:京畿道安城にて生まれる
- 1950年:ソウル師範大学法科卒業
- 1954〜58年:国防部軍映画撮影所監督
- 1975年:ソウル芸術専門大学、中央大学、慶煕大学、檀国大学講師
- 1989年:芸術院会員(映画)
- 1991年:モントリオール世界映画祭審査委員
- 1992年:アジア太平洋映画祭、東京国際映画祭審査委員
- 1993〜95年:清州大学演劇映画科教授
- 1995年:中央大学大学院講師、K.J.Kフィルム代表
- 1999年:映像物等級委員会委員長
初版:2000/6/26
|