ビョン・ヨンジュ
撮影:宮田浩史
名前 漢字 ハングル |
ビョン・ヨンジュ 邊永[女主] 변영주 |
性別 |
女 |
監督作品 |
1993 | アジアで女性として生きるということ |
1995 | ナヌムの家 |
1997 | ナヌムの家2 |
1998 | 忘れられた匠人 ヤン・ジュナム監督 |
1999 | 息づかい |
2000 | 地域映画史−全州 |
2002 | 密愛 |
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韓国で最も有名なドキュメンタリー作家。女性による映画製作運動にも取り組んでおり、関連講演会やトークに参加するため何度も来日している。2002年には長編商業劇映画の監督としてもデビュー。
1966年12月20日、ソウル生まれ。梨花女子大学法学科を卒業し、中央大学大学院映画学科修士課程を修了する。学生時代に劇映画『X』(1988年,8mm)を製作。独立映画集団チャンサンコンメを経由し、1988年に結成された韓国初の女性だけによる映画集団バリトに参加。ソウルの託児所問題を取り上げたドキュメンタリー『私たちの子供たち』(1990年,ビデオ)で撮影と編集を、職場での女性差別をテーマにした劇映画『花の名前(原題:小さな草にも名前がある(1990年,16mm))』でシナリオと撮影を担当する。また、バリトが製作にタッチし蔚山現代重工業の労働運動を描いた『戦列』(1991年,ビデオ)の撮影と編集にも参加している。その後、「青い映像」でアジア諸国の売春の実態を追うドキュメンタリー『アジアで女性として生きるということ』(1993年,ビデオ)を演出する。
初期にビョン・ヨンジュが製作に関連した作品のうち、『私たちの子供たち』と『戦列』は山形国際ドキュメンタリー映画祭 '91で、『アジアで女性として生きるということ』は『アジアの女として』という題名で、山形国際ドキュメンタリー映画祭 '93で紹介されている。なお、彼女はドキュメンタリー映画製作に迷いを持っていた頃、日韓映画界の橋渡し的役割を果たしている青木謙介氏の「日本に行けば非常に重要なドキュメンタリー監督に会う事ができる」とのアドバイスで、1991年7月に小川紳介監督の事務所を訪問。小川監督からドキュメンタリー映画について助言を受け、その精神を受け継いでいる。彼女自身、「山形ドキュメンタリー映画祭と小川紳介との出会いが自分にとってもっとも重要だった」と発言しており、また、ドキュメンタリー作品を映画館で一般公開する土壌のなかった韓国で『ナヌムの家』シリーズを上映するノウハウは、日本での同作品の配給会社であるパンドラから学んだとも発言しており、日本とのつながりの深い作家であることが分かる。
1993年6月に記録映画製作所ポイムを設立し、従軍慰安婦問題を取り扱った『ナヌムの家』の製作を開始。撮影に使った16mmなどの機材は小川紳介監督の小川プロダクションから無料レンタルして製作されたこの作品は、1995年に完成。第4回(1995)山形国際ドキュメンタリー映画祭「アジア百花繚乱」部門に招待され、前途有望なアジアの新人監督に与えられる小川紳介賞を受賞した他、世界各国の国際映画祭で上映され、世界中に大きな衝撃を与えた。また国内でも映画評論家協会賞で特別賞を受賞するなど高い評価を受けた。
1997年には『ナヌムの家』の続編『ナヌムの家2』を製作し、1999年には『ナヌムの家』シリーズの完結編『息づかい』を完成させた。そして、『ナヌムの家』3部作で第20回(2000)映画評論家協会賞特別賞を受賞する。
第2回(1998)富川国際ファンタスティック映画祭では、ドキュメンタリー『忘れられた匠人 ヤン・ジュナム監督』(1998年,ビデオ,映像資料院シリーズ)を、第1回(2000)全州国際映画祭では、全州地域の映画史に関するドキュメンタリー『地域映画史−全州』を製作。
現在、記録映画製作所ポイム代表。なお、彼女の姓名は一般的には「ピョン・ヨンジュ」と表記するが、監督本人の要望で日本では「ビョン・ヨンジュ」と表記されているので、このサイトでもそれに従っている。
キム・ドンウォン監督のドキュメンタリー『送還日記』では撮影監督のうちの一人をつとめた。
初版:1998
最新版:2002/6/18
■ 『密愛』 ビョン・ヨンジュ監督インタビュー
『密愛』のプロモーションで来日されたビョン・ヨンジュ監督のインタビューはこちら。
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