HOME団体概要support シネマコリア!メルマガ登録サイトマッププライバシー・ポリシーお問合せ



サイト内検索 >> powered by Google

■日本で観る
-上映&放映情報
-日本公開作リスト
-DVDリリース予定
-日本発売DVDリスト
■韓国で観る
-上映情報
-週末興行成績
-韓国で映画鑑賞
■その他
-リンク集
-レビュー&リポート
■データベース
-映画の紹介
-監督などの紹介
-俳優の紹介
-興行成績
-大鐘賞
-青龍賞
-その他の映画賞


Review 『私たちの生涯最高の瞬間』『M(エム)』
『セックス・イズ・ゼロ2』

Text by カツヲうどん
2008/9/6


『私たちの生涯最高の瞬間』

2008年執筆原稿

 2004年アテネ夏季オリンピック。そこで行われた韓国vs.デンマークによる緊迫した女子ハンドボール決勝戦を基に、韓国チームが織りなす苦悩の人間ドラマを描く。

 この映画はよくある「手に汗握る感動とカタルシス」のスポ根物ではない。むしろ全く逆であり、意図的にそういった感動パターンから本筋を外したのではないかとさえ感じられた地味で淡々とした人間ドラマである。監督のイム・スルレは、表向きは「手に汗握る」「愛国心を喚起する」ドラマを作るつもりだったとは思う。しかし、意図的かどうかはわからないにしても、映画は監督自身の持ち味が濃く滲み出た作品となり、よい意味で大衆の期待を裏切った。

 この映画において最大の見せ場は、アテネ大会の大接戦の再現であることは間違いないが、このシーンは予想以上にあっさりと終わってしまう。二時間を超える上映時間の中で、最も重点を置いて描かれたのは、恵まれない環境で家庭とチームを両立させようと苦悩する女性選手たちの姿なのだ。

 「現実の感動を映画は超えられない。」

 しかし、この開き直りがリアルで感動的な女性群像を生み出した。この映画に出てくる選手たちにスーパーヒーローは誰もいないし、極端におかしなキャラもいない。皆、普通に生きている女性たちばかりだ。働きながら、主婦業をこなしながら、情けない家族に振り回されつつも、ハンドボールの練習をこなし、誰も来ない試合を消化して、弱体チームをかろうじて支えている。それは一種の苦行であって、いつどう報われるか保証は何も無い。彼女たちを支えているのは、宗教にも似た信念であって、富や名声などと基本的には無縁なのだ。

 そうしたこの作品の平坦さ、地味さに期待はずれだった人もいただろう。しかし、それは監督イム・スルレの代えがたい個性でもあって、その素晴らしさは第一に主演女優陣たちの静かな熱演を導き出した。中核となるムン・ソリもキム・ジョンウンも、韓国では一枚看板背負ったスターだが、いままで世間が作り上げた虚像を廃し、演技の原点に戻ろうとしているかのような印象をこの映画からは受けた。ミオク演じたムン・ソリは、必要以上の大芸能人になってしまい最近はピントの外れた役柄が多かったが、今回は久々に良い意味でのブサイクさが活きる役柄を演じている。ムン・ソリの優れた演技力と女優としての資質は、トレンディ・ドラマやエセ問題作よりも、こういった役柄こそ本領発揮でよく似合う。

 しかし、ムン・ソリよりも本当の主役だったといえるのはヘギョン役のキム・ジョンウンだ。テレビ・スターとしてお茶の間ではお馴染みであっても、主演映画は全く振るわず、コメディ女優としての偏見が彼女を苦しめていたが、今回は築き上げたものを全て壊わすかのような、本来の彼女に立ち返った演技を見せてくれる。そこに笑いは一切なし。全て真剣勝負のある意味いやな女性を力強く演じている。しかし「いやな女性」ヘギョンもまた人生に悩み苦しむ一女性に過ぎない。そしてその姿はこの映画の象徴のようでもあった。

 特に、彼女をめぐる、あるシーンは日本人として非常に印象的だった。ヘギョンはある朝、家庭の事情で練習時間に遅れてしまう。チームでは遅刻は即、退出と決まっている。そしてそれはヘギョンが監督代行だった時、仲間の選手に厳しく下していたルールでもある。だが、彼女自身が家庭の事情で遅刻した時、新監督スンピル(オム・テウン)に「出て行け!」と怒鳴られる。ヘギョンとしては正当な理由があるから退出を躊躇していると、今度は「韓国語がわからないのか!」と罵倒され、追い出される。この言葉の裏には、ヘギョンが日本でハンドボールの監督を務め、極めてうまくいっていた、という事情があり、ほんの短いシーンではあるものの、ここには『私たちの生涯最高の瞬間』という韓国映画を象徴するものがあったと思う。

 映画の最後で描かれるオリンピック決勝戦は、事前にPCで撮影シミュレーションを行った上で本番にのぞんだといわれているが、拍子抜けするほど盛り上がらず迫力もなく、またそういう演出もなされていないように見えた。これが監督イム・スルレの計算なのか否かは推測するしかないが、それもまたこの作品の大いなる個性であり、長所だろう。『ロッキー』のように、盛り上げておいて最後は号泣の大団円、といったスタイルの方が、商業映画としては正しいのだろうが、そういう決着をつけずに最後まで等身大の視点を貫いたことは、いつもハリウッド・スタイルに準じざるを得ない韓国映画の中で大きな意味があったと思う。この『私たちの生涯最高の瞬間』は、2008年に公開された韓国映画の中でも最も観る価値がある秀作だ。


『M(エム)』

2008年執筆原稿

 新作を書き悩む若い作家ミヌ(カン・ドンウォン)、彼をいたわる婚約者ウネ(コン・ヒョジン)、ミヌを追っかける少女ミミ(イ・ヨニ)、彼女をつけ狙う謎の男。ミヌの現実、ミミの現実、そして二人の幻想とおぼろげな記憶。それらが交差して混ざり合う時、そこにあるものは果たして現実なのか夢なのか?

 「映画は詩だ。」

 これはかつてイ・ミョンセ監督が何かのインタビューで語った言葉だ。もし「詩」というものが「言葉を一定の法則で散文的に並べ、独特のリズムにのってイメージを紡ぎだすもの」と定義できるならば、このイ・ミョンセの言葉に「なるほど」とうなずけなくもない。でも、それは自分の脳内イメージを映像で描きあげることに対して、どんな苦労も厭わないイ・ミョンセだからいえることでもあって、映画そのもの、というよりもイ・ミョンセ作品の定義に近いのかもしれない。

 「映画は詩」。この『M(エム)』はまさにその通りの作品だ。きらびやかな映像の断片と時間軸を超えた物語(いや物語といっていいのだろうか?)の混合体が観る側を圧倒する。しかもこの映画が尋常でないのは、感覚一辺倒に見えても緻密な演技指導がこめられていることがはっきりわかることだろう。イ・ミョンセの名を国際的に知らしめた『NOWHERE 情け容赦無し』は刑事アクションの名を騙りながらも、実は戦前ドイツ映画の表現主義再現を試みようとしたかに見える野心的な実験作であったが、『デュエリスト』は寓話性に捉われすぎ、映像は美しくても凡庸な印象の作品だった。だが、今回の『M(エム)』は、『NOWHERE 情け容赦無し』のそれに戻りつつも、イ・ミョンセもう一つの持ち味である「ユーモア」とエイゼンシュテインの系譜を蘇らせようとするかのような試みが上手く融合した、愛すべき作品に仕上がった。これといった物語はなくて、映画も高密度であっても小粒だ。だが、それもまたこの映画を楽しいものにしている。

 そして、興味深いことには内宇宙的イメージが、アニメーション監督イ・ソンガン(『マリといた夏』)描く世界観と非常に似通ってみえることだ。イ・ミョンセとイ・ソンガン。この『M(エム)』を観ていると二人の監督は共時性の架け橋に結ばれた双子のようにさえ思えてくる。コ・イムピョの編集も冴えていて、デジタル編集でなければ成し得ない錯綜するカットの連続を観る側に叩きつけてくる。そしてワンカット、ワンカットの緻密さ、濃厚さは、ますます観る側を混乱、困惑させていく。

 もし『M(エム)』が目くらましだけの作品だったら、よくある「綺麗だけどわけがわからない映画」で終わっていただろう。だが、この『M(エム)』は全編に散りばめられたコミカルが、カン・ドンウォンとイ・ヨニの魅力的な部分を開示することに成功していて、とても楽しいのだ。それにしても、カン・ドンウォンは不思議な俳優だ。演技が卓抜しているわけでもないし、誰にでも好かれるタイプでもない。でも彼には人を魅了する力がある。また、彼ほど広告塔が似合わない若手俳優も珍しいと思う。だが、その彼が一挙にイメージを変えてしまうのが映画の魔法であって、特にイ・ミョンセ監督はカン・ドンウォンの新たな可能性を引き出すことに長けているようだ。『M(エム)』はカン・ドンウォンの代表作にふさわしいし、イ・ヨニのキャリアにとっても重要なものになるだろう。

 『M(エム)』という作品は心理イメージと思考の複雑奇怪なタペストリーのような映画であり、退屈な人には退屈だが、はまる人にははまる、カルトの名に相応しい愉快な作品だ。


『セックス・イズ・ゼロ2』

2008年執筆原稿

 傑作『セックス イズ ゼロ』が帰ってきた。ややキャストが異なっているので、スピンオフかと思いきや完全な続編だ。前作のヒロインを演じたハ・ジウォンも、ちょっとだけゲスト出演しパート2との橋渡しをする。

 せっかくだから原題に使われている「色即是空」という言葉の意味を調べてみる。広辞苑の第五版によれば、「色(=しき)とは現実界の物質的存在。そこには固定的現実はなく、空(=くう)であること」と記されている。どうやら「好色は虚しい」という意味ではなくて、「色=この世に存在する個々の事象」は刻々と変化するものであって、固定されたものではないから「すなわち空=全体の一部分」ということらしい。それじゃあ、映画の題名は誤用?と思えなくもないが、そこら辺はシャレなのだろう。

 さて、今回は完全な続編だから前作の主要なキャラは皆、顔を揃えている。まだ学生やっているの?という点では笑えるが、5年間の歳月は俳優たちに大きな影響を与えたことは避けられなかった。総じてパワーがなくなり、前作の野蛮な力強さはすっかり消え失せ、いい意味での下品な楽しさは半減した。製作会社は同じ、主要なスタッフも同じだから前作の雰囲気を引き継ぐ努力は行われているものの、逆にそのことが映画を雑な印象にしたし、製作・シナリオを前作の監督ユン・ジェギュンが担当、監督は新人のユン・テユンが引き継いだことも結果的にはよくなかったように思えた。

 ユン・テユンの演出は前作の雰囲気をいかに再現するかという努力に満ち溢れたものだったが、彼が持っているだろう個性は観客には全く見えてこない。しかも、本編は136分と、コメディとして無駄に長いとしか思えず、後日談パロディを断片的にだらだらと並べて、申し訳程度にメロを加味した感じしかない。主演のイム・チャンジョンも最初はウンシクそのままのイメージなので懐かしい感動は蘇るが、すぐ失速する。

 本作一番の弱みは女優陣の虚弱さだろう。特にヒロイン、キョンア演じたソン・ジヒョは影が薄すぎる。しかも、彼女は汚れ役を避けていて、前作ハ・ジウォンのプロ根性を一層際立たせる結果になった。お色気担当のヨンチェ演じたイ・ファソンにしても脱げばいいわけではないだろう。前作で同じヨンチェのポジションにいたジウォン役のチン・ジェヨンにはまだ女優としての輝きがあった。キョンジュ演じるシニも、今回はやっつけ仕事という感じで彼女のよさは出ていない。今の彼女に慶尚道訛りをしゃべらせても、ちっともおかしくない。それは既に擦り切れたギャグだ。万年学生ソングク演じたチェ・ソングクだけは相変わらずで笑わせてくれるが、ただのオマケにしか過ぎず残念だ。唯一がんばって暴発していたのが、ユミ役のユ・チェヨンだろう。だが、並みいるスターたちのテンションの低さに、その努力は浮いている。

 前作『セックス イズ ゼロ』は下品でどぎついが、ウェルメイドという観点からみても非常によく出来た映画であったことは間違いない。だからその続編を作るということは、スタッフやキャストにとって、リスクが大きいことはわかる。でも、それだからこそ、もっと思い切ったスピンオフの方が、より心に残る企画になりえたのではないか? チェ・ソングクにしても、シニにしても、ユ・チェヨンにしても、そういう可能性を支えるポテンシャルは持っていたと思うのだが。そのスピンオフがシニ&チェ・ソングクの二人が主演した『救世主』みたいだって、いいではないか。


Copyright © 1998- Cinema Korea, All rights reserved.