先日公開された『エンジェル・スノー』(2001)に続いて、再び韓国から夫婦の純愛を描いた強力催涙爆弾が日本に上陸した。それが本作『ラスト・プレゼント』である。
韓国映画というと一般には大ヒットした『シュリ』(1999)や『JSA』(2000)といった南北分断などの政治的悲劇を背景にした娯楽アクションドラマ、あるいは『友へ/チング』(2001)なども加えると、男のドラマの印象が強いかもしれないが、その一方で韓国の人たちは結構ロマンチシズムやメロドラマが大好きである。本作は、まさにそのような韓国映画のもうひとつの側面の好例といえる。
本作はイ・ジョンジェ演じる売れないコメディアン、ヨンギと、イ・ヨンエ演じるその妻で、不治の病に倒れながらもそれを隠して夫を支えようとするしっかり者のジョンヨンの夫婦愛というテーマを縦軸として展開される。しかしそれだけではなく、妻が不治の病に冒されていることを知ったヨンギの、妻へのプレゼントとして展開される妻の初恋の相手探しのエピソードを通して、幼い学校時代へのノスタルジーが横軸として物語を支え、それが物語の最後に妻の夫への大きな「ラスト・プレゼント」の中身が明らかになる伏線として用意される。実はこの明らかになるなり方や、ノスタルジックな少年・少女時代の回想というパターンが、韓国で大ヒットした日本映画『Love Letter』(1995/岩井俊二監督)を髣髴とさせる。本作に限らず最近の韓国映画では、ノスタルジックな回想が重要なキーとなっているケース、例えば『友へ/チング』、『リメンバー・ミー』(2000)などが散見され、やはり大きなヒット要因なのであろうと思われる。
さらに、狂言回しとして登場する、クォン・ヘヒョとイ・ムヒョン演じる、妻の初恋の人探しを手伝うユーモラスでお人よしの詐欺師コンビがいいスパイスを利かして物語に変奏を与えている。
これらの点で、本作に先行してやはり大型催涙性作品として韓国で話題になった『手紙』(1997/劇場未公開)等が、とにかく「悲しいだろう」の押しの一手でぐいぐい責めてきており、私たち日本人の感覚からするとやや辟易させられる側面も無きにしも非ずだったのに対し、本作ではプロットに格段の進歩が見られ、日本人にも十分楽しめる作品となっている。
それになんといっても(私たち男性の立場からすれば)、気は強いが、情が深くて、不治の病に冒されながらも陰から夫を支えようとする、けなげな妻を演じるイ・ヨンエが無条件に良い。『JSA』で美しく理知的な女性軍人を演じ、さらに『春の日は過ぎ行く』(2001)で離婚経験があり、年若い男性のアタックに戸惑いながらも揺れ動き、最後は彼を深く傷つけた上にその愛を逃してしまう女性を演じたイ・ヨンエのファンになった方には、本作はもう必見であろう。イ・ヨンエの新たな魅力の発見は請け合いである。
ところで、この映画の基本的なすれ違いのパターンである、お互いに相手のことを思いやりながらも、うまくコミュニケーションがとれずにそれぞれの思いが素直に伝わらない、あるいは敢えて素直に思いを伝えようとしない、というパターンは結構韓国の人たちの間のコミュニケーションのずれの普遍的なパターンのような気がする。
相手を思いやって、思いを婉曲に、時に思いとは裏腹なことを口にするというパターンは日本人のお家芸のように思われるが、韓国人でも気遣いや自身の恥じらいから思ってもみないこと、思いと裏腹なことを言ったり態度に示すことも多いように思う。しかし、日本人の場合、土居健郎著『「甘え」の構造』(弘文堂,1971年)に指摘されるような相手に対する「甘え」、つまり相手が自分の真意を理解してくれるはずという期待や暗黙の了解・理解の存在を前提してなされるのに対し、韓国では、最終的な相互理解という点では共通かもしれないが、日本のような前提なしに、相互に異なる感情や態度・主張をぶつけ合った結果として和解に至るというプロセスがコミュニケーション文化として存在しているように思う(注)。そのあたりは、本作に先行して日本で公開された『エンジェル・スノー』を見ても伺える。
(注)渡邉真弓著『韓国のおばちゃんはえらい』(晶文社,1999年)でも、韓国での感情をぶつけ合った結果和解に至るという経験が、日本で得られなかったものであると指摘している。
それに対し、日本のコミュニケーション文化は「甘え」が前提とされているためか、メロドラマにおいては、韓国のように愛情コミュニケーション自体におけるずれやぶつかり合いが問題になるよりも(なるとすれば例えば森田芳光監督の『家族ゲーム』(1983)のようにむしろ夫婦・愛情関係自体の崩壊という文脈で問題になるのでは?)、例えば菊田一夫原作『君の名は』(1953)の古典的パターンに見られるように恋人たちを引き裂く時間などの物理・社会的ずれや、あるいはコミュニケーション自体がそもそも取れないことに起因する誤解の方がメロドラマの基本パターンになるのではないだろうか?(だからこそ『八月のクリスマス』(1998)には、私は日本的メロドラマ文脈での解釈可能性を強く感じるのである)
そういった日韓コミュニケーションのパターンの違いなどを考えながら本作を見るのもまた、一興であろう。
<筆者プロフィール>
短期大学教員(社会学)。1960年東京生まれ。韓国映画との関わりは、近隣のアジア社会への関心から1980年代中頃より、アジア映画を見始めたのがきっかけで、この当時、中野武蔵野ホールや今はなきシネ・ヴィヴァンでやっていた当時の「ニュー・ウェーブ」ペ・チャンホ、イ・チャンホ作品あたりから付き合っていた。最近では、DVDという文明の利器を活用して、日本での劇場未公開のアジア映画を漁っている。 |