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Review 『食客』『解剖学教室』『再会の村、チョンソルリへようこそ』『蝶』

Text by カツヲうどん
2008/1/27


『食客』

2008年執筆原稿

 幼い頃より、名門食堂で腕を磨きあったソンチャン(キム・ガンウ)とポンジュ(イム・ウォニ)。だが、卑劣なポンジュはソンチャンの才能を妬み、罠にはめて韓国料理界から追放してしまう。それから5年。日本で発見されたある朝鮮王朝の包丁を巡り、大規模な料理大会が開かれることになった。そこで再び出会うソンチャンとポンジュ。二人の因縁の戦いを通して、日韓併合の秘話が明らかになってゆく。


 マンガの映画化は、どこでも非常に難しい。もともとマンガの世界は「平面に描かれた絵」であって、現実には存在しないからだ。そして、長い話を二時間程度にまとめることも物理的に不可能だ。そこでクリエイター側は幾つかの選択を迫られる。ひとつは原作イメージを重視して、映画的なバランスを犠牲にする方法。もうひとつは、すべて割り切って、全く別なものにアレンジしてしまう方法。今回の『食客』は、どうやら前者の戦術をとったようだ。

 ホ・ヨンマンの長い原作は二時間程度に収まる内容ではないうえ、料理に対するウンチクが売りになっていて、登場人物の行動を追うことが主眼になる映画ではかなりの部分を捨てなければ成り立たない。この映画は、料理ウンチクものの手法のほかに、美しいイメージに彩られた人間ドラマ、そして衝撃的な歴史ドラマを随所に挿入することで、バラエティーに富んだ内容になっている。しかし、それらの創意工夫、監督らスタッフの血の滲むような努力が、「映画」としての魅力に繋がったか?というと残念ながらそうではなかったし、原作に忠実なファンにしても中途半端に見えたのではないかと思う。

 この映画には大きな核がいくつかある。だが、大河ドラマとしての魅力、人間ドラマとしての魅力、料理ウンチクものとしての魅力、全てを網羅しようとしたばかりに、結局は帯に短し襷に長し、半端で盛り上がらない。シナリオと編集にもかなり苦労したのだろう。原作の最大公約数としてはよく練られていたかもしれないが、やはり結局は中途半端。「なんだか面白くないなぁ…」という結果に残念ながら終始してしまった。

 ただし、チョン・ユンス監督の演出はきわめて真面目であり、映像にもこだわっている。幾つかのエピソードは、とても感動的でよく出来ているし、今後のチョン・ユンス監督にも期待していいだろうセンスも感じさせる。しかし、『食客』という題材を担当するには、あまりにも真面目すぎた。遊び心がどうしても欠け、肝心の「食」の描写に魅力がない。冒頭出てくる素朴な食事の風景だけは瑞々しく美味しそうにみえるが、そこだけ。料理大会の描写は、スピーディーであっても美味しそうにみえないし、韓国料理の魅力といったものも出ていない。大会で凝りに凝った贅沢な料理が出てくれば出てくるほど、食べたいと思わなくなってくる。

 キャスティングも脆弱だ。それゆえ、突出した料理人の持つオーラはまったく感じられず、料理ごっこの域を出ていない。ただし、そういった印象とは別に、演じた俳優たちは悪くない。キム・ガンウ演じるソンチャンは暗すぎるし、おとなしすぎるが、キム・ガンウ自身は好感が持てるし、悪役ポンジュにイム・ウォニを起用したのも悪くない。イム・ウォニも、従来の大げさな三枚目演技は抑制していて、腹黒く陰険なポンジュのキャラクターを好演している。ただ、控えめ過ぎの印象も強い。

 この映画では、日本と韓国を巡る過去の因縁が大きな役割を果たす。それはよくある韓国的パターンであり、韓国人にとって都合のよい「良心的な日本人」が重要な役割を果たすから、人によっては不愉快だろう。しかし、映画が終盤に近づき、主人公ソンチャンの人生と日韓の因縁が大きく交差して絡み合ったとき、この都合のよい「良心的な日本人」は、韓国人自身による自己批判の代弁者として大きな役割を果たすことになる。

 この『食客』は製作中止が噂されていたこともあった。だが、それを乗り越えて完成・公開にこぎつけたスタッフたちの努力は、作品の出来栄えとは別に評価すべきだろう。チョン・ユンス監督には、原作付きではないオリジナル企画を今後期待したい。


『解剖学教室』

2007年執筆原稿

 医大に入学した6人の一年生を待ち受けていた遺体解剖の授業。6人に割り当てられたのは胸にバラの刺青が入った若い女性の遺体だった。やがて怪現象が起こり始め、一人一人殺されていく。この事件の謎を追い、ソナァ(ハン・ジミン)らは地方の赤線街に辿りつくが、そこには闇に抹殺された医者と娼婦の悲しい物語があった。

 「韓国のホラー映画」といえば、日本でもそれなりに知名度があって、アン・ビョンギ監督の『ボイス』やキム・ジウン監督の『箪笥』のようにヒットした作品もあります。でもほとんどが劣化したゴム版でペコペコ紙に押したような「デッド・コピー」といわれても仕方ないものばかり。演出やシナリオもオリジナリティに著しく欠け、担当した新人監督の多くが「仕方ないから撮りました」といっているような作品が多いように思います。しかし、ここ二年ばかり「安かろう、悪かろう、でもリスクは少なかろう」といった風潮を改めようとするかのような、これまでの韓国ホラー映画とはちょっと違った作品が時々出てくるようになりました。

 『解剖学教室』も今までの韓国式ホラー映画とは一味も二味も違う作品になっています。この作品の特徴はアメリカやヨーロッパのホラー映画によく見られる「ヴィジュアル性」にこだわりを感じさせる演出にあり、それだけではなくて、きちんとしたドラマも成立しているという、たいへん見所のある作品になっています。演じる俳優たちは非常に地味なので、観ていて最初は「大丈夫か?」と不安になりますが、映画が進展するにつれて、その華のなさが逆にリアルな人間像へと転化してゆくようになっています。

 ドラマでは新人医大生たちが初めて遭遇する不安や心の揺らぎ、その変化といったものが時にはユーモラスに真面目に描かれていて、彼らが怪現象に翻弄されて情緒不安定になってゆく様子は、この手の韓国映画としては非常に優れたものになっています。幼稚なコケおどし演出や無駄な流血描写を避ける努力がなされていて、怪現象や異空間の描き方もオリジナリティは全くないものの、それなりの様式美を作ることにこだわっており、低予算ながら個性的です。事件の裏側にある因果のドラマも、悲しく胸を打つものになっていて、そこからは韓国社会の隠された闇をひしひしと匂わせ、映画の奥行きを深くすることに貢献しました。

 監督ソン・テウンの演出姿勢は、純粋な映画への緻密なこだわりが感じられる上、ホラー映画を撮ることにもそれなりに楽しみを見出しながら映画を撮っていた印象を受けました。

 劇中、笑わせ役だったギョンミン(ムン・ウォンジュ)が精神錯乱に陥るシーンを見事な擬似ワンテイクのカメラ・ワークで演出していますが、このシーンは本作を象徴する一番優れた緊迫感溢れるシーンだったといえます。主演のハン・ジミンを筆頭に、地味で将来性が欠ける印象の俳優ばかりですが、ドラマが進むにつれて段々と個性を発揮してゆくようになっていて、それぞれの役割を担っていたことが明らかになっていきます。

 因果の源になった、聴覚障害者の娼婦と医者の悲劇的な交流は、短くシンプルでありながら、ずしりと胸に響き、感動を呼びますが、そのヒューマンな部分を最後の最後で全て破壊してしまう演出にも、監督の知性を感じさせ唸らされました。

 この『解剖学教室』はよくある「馬鹿ホラー」ではなくて、アメリカン・スプラッターの遺伝子を立派に引き継いだ、きちんとした方向性を感じさせる立派な作品であると共に、監督ソン・テウンの新しい才能を如実に感じさせる作品です。彼はポン・ジュノ監督の同期生であり、『ほえる犬は噛まない』においてシナリオ作りに参加していますが、この『解剖学教室』に漂う映画的個性は『ほえる犬は噛まない』の映画的個性に極めて近いものがあって、おそらくはソン・テウン監督の参加が重要であったことを伺わせるところも注目して欲しいと思います。


『再会の村、チョンソルリへようこそ』

http://www.showbox.co.kr/movie/mannam2007/
2007年執筆原稿

 ソウルで一旗挙げようと、田舎から上京してきたヨンタン(イム・チャンジョン)はソウル駅前でなけなしのお金を奪われてしまう。駆け込んだ警察署で浅はかな悪知恵を働かせたのが仇となり、「三清教育隊」送りとなるが、江原道の山奥で輸送トラックから転げ落ち、村の人々にソウルから転任してきた教師だと勘違いされたことから、そこで暮らすことになる。だが、三十八度線に対峙するその村には、命を賭けてまで守らなければならない大きな秘密があった。

 この『再会の村、チョンソルリへようこそ』は、一昔前の韓国を舞台に展開するコメディなので、「三清教育隊」のことや、当時の南北関係を知らないとイマイチ、そのネタがわかりかねるドメステックな内容。『トンマッコルへようこそ』のパロディ的な企画でもあるのですが、朝鮮半島における三十八度線というものがどういうものなのか、その見えない部分をちょっとだけ提示した作品といえるかもしれません。

 新人キム・ジョンジン監督の演出はかなり手堅く、全体的にカチッと出来ていて隙がありませんが、オーソドックスな韓国式コメディかつ田舎者コメディなので、その濃い部分が生理的に嫌な人にはちょっと抵抗があると思います。また、俳優たちの都合のためか、夜間シーンと狭い山奥や家の中でドタバタやっているシーンが多いので、「内輪うけ」の印象もあります。

 三十八度線を巡る悲劇、そして守るべき秘密、最後のオチなど、一連の核となるエピソードは、今までの北朝鮮ネタを観ていた人にはきちんと理解できるものですが、今の韓国的流行ばかり追いかけている人には『トンマッコルへようこそ』同様、なんだかわかりかねる内容かもしれません。

 主演のイム・チャンジョンは相変わらず日本では無視された韓国のスターですが、イヤミがなくて親しみが持てます。そろそろコメディばかりではなくて、真面目な役柄も観たいところ。彼は十代の頃、共産ゲリラの悲劇を描いたチョン・ジヨン監督の『南部軍 愛と幻想のパルチザン』に出演していますが、そこら辺と今回はキャラが被るので、両方観ると楽しいと思います。

 友情出演でリュ・スンボムが災難に見舞われる教師ジャングン役で出ていますが、実はこの映画のもう一つの柱であり、ファンは必見でしょう。でも、その描き方がしつこい上、助かった彼が軍に取調べを受けた際、荷物の中からカール・マルクスの本が出てきたばっかりにスパイ容疑をかけられる様子は、個人的に笑えませんでした。そして、北朝鮮側の描写はゆるく滑稽であり、一部の日本人にはカチンと来るかもしれません。

 この『再会の村、チョンソルリへようこそ』は全体的には出来がよく、監督の次回作を期待していいと思いますが、現在の韓国における北朝鮮への、お笑いと親しみのイメージがかなり投影されているので、それを不真面目ととるか時流ととるかで、日本ではだいぶ解釈が変わってくる作品なのではないでしょうか。


『蝶』

2003年執筆原稿

 私は、この映画を観ている最中、ある昔の作品を思い出した。フランクリン・J・シャフナー監督作『パピヨン』だ。タイトルが同じ意味なのは、果たして偶然なのかどうかは分からないが、「自由や尊厳を奪われた絶望的な状況の中でいかに生き残るか」というテーマを描いているところが、とてもよく似ている。だが、この『蝶』は、韓国版『パピヨン』になるためには非情さと叙情のバランスがかなり足りない。

 また、この『蝶』は古典的なメロ・ドラマである一方、韓国現代史の暗部「三清教育隊」を告発した、かなり硬派なテーマ性も持ち合わせている。これは普通の日本人には全くピンと来ないテーマだが、当時の事をよく知っている世代の韓国人男性に尋ねたところ、「三清教育隊」は、ある一定の世代には身近な事実であり、映画同様、検挙されて教育隊キャンプに送られたまま、今だ行方不明の人々が少なからずいる、との事であった。

 当時の韓国における国家弾圧の大事件といえば「光州暴動/虐殺」が有名だが、全国的に施行されたという点で「三清教育隊」という国家の暴力装置が、ほんの20数年前まで、韓国で機能していた事を記憶に留めておくことは決して無駄ではないと思う。そういう点では、映画の出来不出来とは別に、韓国の社会に関心のある方々は一見の価値がある。だが、その反面、そうでない方々には「なに、これ?」になってしまうだろう。

 映画はキム・ヒョンソン監督のデビュー作との事だが、演出は手堅く職人的だ。1980年代の韓国映画のテイストを忠実に再現したかのような感じだが、演出の背景に流れるセンスには現代的なものを感じる。

 主人公ミンジェを演じたキム・ミンジョンは、ここ2〜3年の出演作の中では、今回は良い演技をしている方だろう。ぎくしゃくして大味なところは相変わらずだが、テレビ・ドラマで見せる繊細な部分が今回はある。キム・ジョンウン演じるヒロイン、ヘミは明らかに失敗だ。ジョンウンが可哀相な役を演じると、本当に悲惨、みじめなだけで、何の得もない。やはり彼女は三枚目が良く似合うし、その方が魅力的な女優なのだ。悲劇的な末路を遂げる悪役のファン大尉を演じたイ・ジョンウォンも、職業軍人特有の頑なさが良く出ている。

 極めて内省的かつ古典的な韓国式メロ・ドラマであるため、今の時代にはそぐわない作品になってしまったようだが、最近の日本における韓国映画への関心から洩れがちなテーマを扱っている点では、古くからの韓国映画ファンならば観るべき部分も見出せる作品だろうと思う。


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