Review 『愛 サラン』『用意周到ミス・シン』『銀河解放戦線』『狐怪談』
Text by カツヲうどん
2008/3/16
『愛 サラン』
2007年執筆原稿
釜山を舞台に、任侠青年イノ(チュ・ジンモ)が幼なじみミジュ(パク・シヨン)に捧げる無骨な純情と悲劇を描く。「釜山のロミオとジュリエット」。
クァク・キョンテクといえば今も昔も『友へ/チング』。この手のジャンル以外も何本か撮ってはいるけれど、『友へ/チング』の影響が大きすぎて「ヤクザと釜山」というイメージがどうしても先に立つ監督だ。そこに「時代遅れのキムチ臭」を感じてうんざりしている人もいるだろうが、ここまで一つのパターンを貫き通す姿は「ネタがないからしかたなく」というよりも、この監督の偉大な個性と考えるべき時期にそろそろ来ているのかもしれない。『愛 サラン』は、まさにそんな作品だ。
お話は基本的に『友へ/チング』の類似形。しかし、職人監督として中堅以上の域に入ったクァク・キョンテク組に迷いはない。『友へ/チング』より、物語をシンプルに凝縮させて「クサイけどわかりやすく、大雑把だけど美味しい」純粋な娯楽作に仕上げた。クァク・キョンテク組は『タイフーン TYPHOON』だとか『チャンピオン』だとか大作のキャリアよりも、『愛 サラン』や『トンケの蒼い空』のようなドメステックで小さな映画の方がその良さが際立つ。クァク・キョンテク作品といえば、その映像美が特徴だが、それもやはりミニマムな人間像を捉えた『愛 サラン』のような企画のほうが、その良さが映える。
この『愛 サラン』でも、他のクァク・キョンテク作品同様、出てくる女性は魅力がなく浅はかだ。でも、これもここまでくると上手い下手の問題ではなくて「作家クァク・キョンテク」のこだわりと考えるべきではないか。『愛 サラン』では、ヒロインのミジュが、魅力がない奇妙なキャラクターだったゆえ、イノの純愛と朴訥さがより感動的に強調される結果になった。つまり、なさけないヒロインだったからイノの純愛ぶりが引き立ったのではないか?
『愛 サラン』最大の見所はチェ・イノ演じたチュ・ジンモだ。今までの彼とは見間違うくらい、繊細で含みのある演技を見せる。「大化けした」「一皮剥けた」とはまさにこのことで、『愛 サラン』はチュ・ジンモにとっても外せないキャリアに必ずなるだろう。彼はシナリオにほれ込んだらしいが、過度な熱演というよりもクァク・キョンテク監督の意図や指示をじっくり飲み込んで臨んでいたようにみえた。もしかしたら、クァク・キョンテク監督にとっても新しい映画的パートナーを得た瞬間だったのかもしれない。
クァク・キョンテク監督作品はある意味ワンパターン。世界が狭い。器用なようで不器用な監督であり、職人的に見えても作家主義的だったりする。だから彼特有の韓国臭さが嫌いな人は抵抗を感じるだろうけど、日本の「寅さん」や「トラック野郎」のように評論筋からよくいわれなくても、韓国で作品が愛されているのは、それなりの大きな理由がある。「クサい、クサい」で避けてばかりいては、きちんとした評価が難しい監督だ。少し毛色は違うけど、アメリカのJ・カーペンターのように最後まで自らの志向を突き通せば、伝説にまで昇華できる可能性は十分ある監督だ。
『用意周到ミス・シン』
2007年執筆原稿
結婚する平均年齢が年々上がり、離婚率も増加。出産率はどんどん低下し、男女比もいびつといわれる現代の韓国。でも、結婚を考える時、血縁や学歴、収入やルックスにこだわる点では人一倍ですから、若い友人たちを見ていても結婚することが増々難しくなって来ているように思えます。でも、若くて綺麗でかわいい女性たちからすれば、今は一種の売り手市場。今まで威張っていたことになっていた野郎たちは、大学や職場、友人の紹介でパートナーを見つけることが出来ないと内心大慌て。その点、日本は突き抜けてしまったというか、男も女も結婚とは年齢が必ずしも重要ではない、という開き直った状況になりつつあるように思え、それが幸福であるか否かは人それぞれでしょう。彼氏・彼女に対して売り手の立場であることが、必ずしも幸福をつかめるかどうかはわからない。そんな視点で現代韓国の恋愛ゲームを描いたのが『用意周到ミス・シン』です。
私は当初、全く期待していなかったのですが、いざ観てみると大変面白い映画でした。たかがテレビ・ドラマの延長的映画じゃないか、といった否定的な意見もあるでしょうが、それぞれのキャラクターと配役がはまっていて、現代韓国事情をラブコメの体裁ながらもなかなか的確に捉えていたと思いました。
シン・ミス(ハン・イェスル)はパッと見はなかなかの美人。広告代理店で責任ある地位を任され、将来有望な恋人を三股かける、いい御身分。でも、彼女の男性パートナーに対する理想は男たちの現実とかなりズレています。でも、ミスには自分の事しか考えが及びませんから、いつもジコチュウでノーテンキ。そんなおり、近所に越してきた子持ちチョンガー、トンミン(イ・ジョンヒョク)とトラブルを起こし、敵対関係に陥ります。でも彼が広告会社の新プロジェクト責任者だったことから、ミスと男たちとの関係は二転三転していきます。
この作品は、ヒロインのミス演じるハン・イェスルの三枚目ぶりがまずは見所。テレビ・ドラマで人気を博し、今回が映画デビューになりましたが、シン・ミスの役柄にピッタリの個性派です。テレビでの彼女は演技の点で必ずしも評判が芳しくありませんが、はまっています。彼女にベタぼれのはずだった、お金持ちボンボン、ジュンソ演じたクォン・オジュンも、司法浪人ユンチョル演じたキム・イングォンも、個性と演技力では定評のある俳優たちですが、なんといっても一番光っていたのがトンミン役のイ・ジョンヒョク。一見、ヌボーと立っているだけのようですが、そのニヒリストぶりはハン・イェスルと対照的で、自己中女王シン・ミスの勘違いぶりを際立たせました。
基本的にはよくあるラブコメであり、決して映画的な価値がある作品とはいえませんが、韓国の世相がよく出ている上、出演者たちの意外な好演。そして監督パク・ヨンジプのバランスがとれた演出に劇場で観ても全く損がない作品になっています。
『銀河解放戦線』
https://blog.naver.com/2007milkyway
2007年執筆原稿
韓国において何がメジャーかインディーズか、その区別は分かりにくい。日本も同じようなものかもしれないが、ホーム・ビデオで作品を撮って「映画監督」と記された名刺を持てば「映画監督である」という、いい加減さ、自由さは、韓国の方が日本以上にあると思う。しかし、スタジオ・システムが瓦解し、個人機材で優れた映画が作れるようになったいま、プロかアマかの境は「投資を募って作れるかどうか」ということだけなのかもしれない。この『銀河解放戦線』も韓国によくある若手インディーズの一つに過ぎず、扱っているネタは相変わらず内輪ネタの狭くせこい世界だ。しかし、次世代クリエイターらしい感性が随所に顔を出していて、ユン・ソンホ監督とスタッフたちが持っている感覚が、今後、韓国メジャーの中で、どう活かせるか、ちょっと気になる作品でもあった。
インディーズ映画監督ヨンジェ(イム・ジギュ)は新作の企画に日本のアイドル女優起用を企てている。だけど私生活の悩みやらなんやらで失語症となり、製作会社の思惑もヨンジェが考えている方向とは違う方を向いている。釜山国際映画祭で日本の映画関係者と会い自分の企画への協力を持ちかけるが、日本人たちはヨンジェたちからすれば見当違いのズレた韓国にしか興味がない。ヨンジェと仲間たちは現実の厳しさを改めて痛感させられるのだった。
この『銀河解放戦線』には架空の日本映画が挿入され、主人公は日本のアイドル女優の起用を真剣に考えているなど、日本映画との強い繋がりを感じさせる内容だ。物語はインディーズ系クリエイターたちの内輪話のようではあるけれど、軽妙で現実と虚構の境があいまいで、明るくサイケな映像に、ここ数年韓国で上映され続けている日本の作家系作品へのオマージュも感じられた。
この映画には、どこかで観たような俳優たちが数人出ている。有名ではないが、子供向けヒーローとして記憶に残っている、売れない俳優演じたパク・ヒョックォンは闊達な演技をみせてくれて魅力がある。おそらくは彼にとってこの役柄は現実と虚構がないまぜになったものなのかもしれない。
この映画で一番面白かったのは、主人公たちが釜山国際映画祭に出向き、日本人の映画・芸能関係者と会い、協力を相談するシーンである。ここ数年、釜山に限らず、日本の業界関係者がグループでうろうろしている姿を、韓国ではよく観かけるようになったが、この映画では、韓国の若きクリエイターたちが日本に期待するものと、韓国に何かを期待してやって来た日本の業界関係者との埋まりがたい差異がリアルに出ていて、見所になっている。この映画で描かれた日本人たちの言動は、日本人と韓国人がお互いに恒常的に抱えている誤解をコミカルにシビアに描いていたと思う。反対に、韓国人が大挙して日本に来ている今、それは日本人にとっての現実でもあるだろう。
この作品もまた感性を楽しむタイプの映画であって、格別お勧めはしないが、機会があれば観る価値はある作品だ。
『狐怪談』
2003年執筆原稿
毎回共通のキーワード「女子高校」をテーマに、それなりに個性的な作品を生み出してきた「女高怪談」シリーズだが、今回の『狐怪談』は混乱を極めた訳の分からない映画となった。物語のあらすじは、ホラー小説の古典『猿の手』(W.W.ジェイコブズ)を連想させる。
「狐階段」は個人の願望を純粋に叶えるが、引換に他者に犠牲を要求する。そして結果的に本人に災いとなって降りかかって来るのだ。デブでグズな美術科のヘジュ(チョアン)が「狐階段」の願いかけに成功した事を知った舞踏科のジンソン(ソン・ジヒョ)は、自らも「狐階段」に願いを掛ける。が、願望が叶った時、全ての恐怖は始まって行く。
こう書くと面白そうな映画に思えるかもしれない。だが、願望が叶ったとたん映画『狐怪談』はぐちゃぐちゃの怒濤の展開へとなだれこんでしまう。物語はあって無きに等しく、映画の中盤から他のホラー映画からの流用シーンのオンパレードと化し、唐突な結末は多くの観客を茫然とさせてしまう。
「女高怪談」シリーズは、かつてイ・ミヨンやキム・ミンソンらのスターを輩出したが、今回の作品はそういう点でもかなり難しい気がする。一応主人公らしき立場のジンソンを演じたソン・ジヒョは日本人好みのルックスだと思うが、なんだかパッとしないし、ソヒ役のパク・ハンビョルは、なんとなくチョン・ジヒョンに似ている程度の印象しかない。最も強烈な役を演じたのはヘジュを演じたチョアンだろうが、演技に癖がかなりあり上手くない。
監督のユン・ジェヨンは、恐怖シーンを演出するにあたり、古今東西のホラー映画をだいぶ研究したのだろう。だが、その代わりに彼女の撮りたかったものは、何一つ出来なかったのではないだろうか。唯一、炎が燃え盛る地下室でヘジュが見せる表情が悲しみと美しさに彩られて、抜群であったことくらいが救いだろうか。結局、この作品もまた雇用される側の若手監督と、雇用する側のプロデューサーの意図が全く噛み合わなかったのだろう。
タイトルに象徴される「狐階段」だが、実質物語からは蚊帳の外。一体それがどういうものなのか解明されないまま映画は終わる。そこに何かの存在を感じたかった観客は私だけではないだろう。この「女高怪談」シリーズ、今後も製作するのであれば「女子高校」の枠をもう少し越えるか、拡大解釈して話を展開しないと苦しいのではないだろうか。例えば、女子高校に赴任した男性教師の奇怪な経験といったようなアレンジである。どうしても舞台や登場人物に広がりが無いため面白い話作りに限界が来ているようだ。
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