Review 『光州5・18』『私たちの幸せな時間』 『優雅な世界』『妻の愛人に会う』
Text by カツヲうどん
2007/10/7
『光州5・18』
原題:華麗なる休暇
2007年執筆原稿
1980年5月、軍政下の韓国。全羅南道・光州市で起こった市民虐殺事件を庶民の視点から、アクション&メロをふんだんに交えつつ描いた娯楽アクション。
「光州事件」とは、かつて日本でもよく知られた出来事でした。なぜなら、この事件が起こった時、真っ先に取材に訪れた外国メディアのひとつが、日本のメディアだったからです。しかし、時は経ち、韓国へのイメージも全く変わり、この「光州事件」について日本で言及されることはほとんどなくなりました。
この光州事件について詳細なことが語られるようになったのは、韓国でも、ほんの10年程度前からのことです。今だ明らかに出来ない事実も多いと聞きますが、今後、そういった事柄がより明らかになった時には、おそらく今以上に韓国の人々は、この事件に対する関心というものを失っていることだろうと思います。ですから、本作のような作品が、今現在のタイミングで出てきたことは、事件の記憶を風化させまいとする、目に見えない何かの意志だったのかもしれません。今回、監督と脚本を手がけたキム・ジフンは「光州事件」の体験者ではありません。事件当時、彼は9歳、出身は大邱(テグ)とのことですから、全く新しい感性と視点で「光州事件」を捉えた映画といえるでしょう。
「光州事件」の詳細が、映画というメディアで描かれたことは意外に少なくて、筆者の記憶に強く残っているのは、やはり伝説の映画集団「チャンサンコンメ」が製作した『五月−夢の国』と、チャン・ソヌ監督の『つぼみ』ですが、両作品には、事件に対する関係者たちの恨みが強く渦巻いていて、その内容の重さに圧倒されたものです。しかし『光州5・18』は、これらの旧作品とは全く異なります。その視点はぐっと引いて醒めている上、事実への情念といったものは正直、まったく感じられない作品でした。その分、映画は重いテーマを訴えつつも、徹して娯楽作に仕上がっており、見方によっては抵抗を感じる部分もたくさんあると思います。
また、登場人物たちがきちんと描かれていないので、高校生のジヌ以外、誰が演じても同じような薄っぺらな人物群像であり、映画をさらに軽くしています。タクシー運転手のミヌ(キム・サンギョン)と弟のジヌ(イ・ジュンギ)、看護婦のシネ(イ・ヨウォン)はごく普通の人たちであり、ノンポリであることが強調して描かれていますが、単にノーテンキで主体性が全く欠如した人たちにしか見えず、現実味を持って描かれていません。ですから、ヘラヘラして、ただの間抜けにしか見えなかったミヌが突如、英雄的な行動を取り始めると、あまりに突飛で苦笑してしまいますし、シネはおろおろ、めそめそ、泣いてばかりで、なんの取り柄もありません。そして重鎮アン・ソンギ演じるフンスは、ただボケッと立っているだけ。「大根役者」のアン・ソンギを観たのは初めてであり、そちらの方が衝撃的でした。このフンスという人物は、体制側の事情も理解出来、運動する市民の立場も理解出来るという、非常に重要な役割を背負っていたはずなのに、最後の見せ場で篭城した市民軍の指揮をする程度でお茶を濁すだけ。他にも、当時の光州における風俗を描くという点でも、疑問を感じた人はいたと思います。
映像は全体的に凝っていて、リアリティであるとか、緊迫感の点では優れているのですが、肝心の人々の描き方が何につけても極端です。主人公3人は普通にしゃべり、服装は今風のコーディネートなのに、他の人たちは当時のファッションの格好悪さや、訛りのひどさ、といった面が、お笑いの方向に誇張されて描かれていて、それは「偏見を持って描かれた」と指摘されても仕方ないものです。前半部のお笑いシーンは、しつこく長いので、本編から浮いているし、平和な時分の情景はステレオ・タイプの描き方なので、なんだか間抜けです。
でも、こうしたこの映画の「ダメであろう」部分がなぜ演出されたかを視点を変えて観てみるならば、決して否定的な要素とばかりはいえないのかもしれません。なぜなら、この作品はあくまでも娯楽作であり、一般の人々に受け入れられてはじめて意味を持つ映画であって、逆に386世代的視点というものを、『光州5・18』において製作者側は最も廃したかったのでは?と思うからです。ですから、この映画はリアリズム重視で現代史を見つめようとするものではなく、一種の時代劇として割り切って製作され、その手法は、後世にこの事件を記憶させる手段としてあえて選ばれた、と解釈したいと思います。
実際、幾つかのシーンは極めて優れていて、印象に強く残ります。この映画では、最初に市民に対して水平射撃を行い、虐殺行為を始めた韓国軍が、一般にいわれているように、精神向上剤を服用して任務に赴くような場面はありませんが、看護婦シネが一人の兵隊に執拗に追われるシーンでは、兵隊たちが通常の状態でなかったことがよく表現されていて衝撃的ですし、兵隊が一般人の頭を、警棒でこれまた執拗に叩き割り続ける様子も、当時の異様な空気が出ていて、とても恐ろしく感じました。また、軍の輸送機が低空飛行で郊外の田園を飛び越えてゆくシーンがありますが、これは、その後起きる凄惨な出来事を強く暗示していて、ずしりと心に圧しかかってくる名場面でしょう。
本作の俳優陣でもっとも高く評価すべき存在感を見せたのが、ジヌ演じたイ・ジュンギです。決して卓抜した演技力という訳ではありませんが、彼が演じた高校生はいわば、韓国社会を変えて行く386世代そのものを象徴していて、ジヌのキャラクターというものも、それを暗喩したかのような性格であり、他の登場人物たちと全く異なっています。ジヌの力強さは、今に繋がる韓国の未来そのものであり、イ・ジュンギのキャリアでは最良の一つだったといえるでしょう。
この『光州5・18』は、否定的な意見が日本でも多く出る作品かもしれません。しかし、時代が変われば描き方も変わるし、観る側の受け取り方、製作する側の表現も大きく変化する訳ですから、まったく新しい手法で光州事件を描いた、現代韓国映画らしい試みだったと、好意的に受け止めておきたいと思います。
『私たちの幸せな時間』
2006年執筆原稿
この映画を観る前、一番関心があったのは、監督ソン・ヘソンの演出に対して、主演のイ・ナヨンとカン・ドンウォンがどう答えてゆけるか?ということ。特にイ・ナヨンの場合、女優として岐路に立つ時期に入っていたと思うので、どれだけ別な面を見せることが出来うるのか、という点で関心があったのです。でも、映画が始まって30分もすると私の期待は全く裏切られたことがはっきりとわかり、映画が終わると腹が立って劇場を後にしたのでした。この映画はとりあえず、感動的なドラマにはなっています。むせび泣く観客は何人もいましたし、基本的には良心的な映画でしょう。でも反面、おしつけがましいヒューマニズムを感じて、いやーな気持ちになった人もいたのではなかったのでしょうか。
ソン・ヘソンの演出には観るべきものがあって、ユジョン(イ・ナヨン)と死刑囚ユンス(カン・ドンウォン)の出会いと、そのささくれだった心模様の描き方は緊張感溢れた素晴らしいものでした。また、二人を引き合わすきっかけとなる修道女モニカ役ユン・ヨジョンが好演していて、ちょい役ながら光っています。でもイ・ナヨンが内面的な深い演技を披露することは結局出来なかったし、カン・ドンウォンも、彼の危うい個性を十二分に活かしたとは、とてもいえないものでした。
しかし、私がこの作品に乗れなかった一番の原因は、俳優の演技の問題ではなくて、映画から立ち昇る、うさんくさい説法臭を猛烈に感じたからです。死刑囚ユンスの哀れな人生と罪の真実が明らかにされていく過程は、同情を押し売りする如く、しつこ過ぎるし、刑務所生活は不自然な人情味が溢れすぎ。ユジョンの家庭が金持ちで熱心なクリスチャン家庭である、という設定も、現実と宗教の狭間を浮き彫りにするほど深く描かれている訳でもなくて、よくある想定内のパターン、目新しいものは何もありません。そして、それらを通して、「原罪」「性善説」などの押しつけが、ひしひしと私には感じられて仕方なかったのです。原作は未読なので、映画の宗教的イメージは小説を尊重したことから来たものなのかどうかはわかりませんが、嘘臭い人間ドラマの乱れ打ちは観ていて気分の良いものではありませんでした。
私はこの映画を観ている最中、とあるドラマをしきりと思い出してしまい、この映画と比較せずにはいられませんでした。それは、アメリカのテレビ・ドラマ『OZ/オズ』です。このドラマは刑務所内部の生き地獄を描いた凄まじい内容ですが、これがまさに『私たちの幸せな時間』と対照的。『OZ/オズ』の劇中、刑務所付の宗教関係者がレギュラーとして登場しますが、彼らが信仰厚く理性的であればあるほど、刑務所勤めの中で心も体もボロボロになってゆく様子が描かれていて、宗教の在り様と現実というものを、大変な説得力を持って訴えて来ます。しかし、『私たちの幸せな時間』は、こうした現実とフィクションのブリッジというものが非常に弱体。それに、宗教というものは、第三者に押しつけるものではなく、選択の自由を残すからこそ、その教義は他者に説得力を持つと思うのですが・・・。
『私たちの幸せな時間』が、特定の宗教的メッセージを含んでいる映画であるか否かは、観る人によって大きく異なるでしょうし、私も強く主張する気はありませんが、もっとニュートラルな視点で、登場人物たちの立場、人生、考えを描いて欲しかったと感じました。もっとも、韓国内では「ある宗教を名指しでバカにしている映画であり、大変に不愉快だ」という意見もあったようなので、熱心な信者からすれば別な意味で不快な要素があったのでしょう。更に付け加えるならば「この映画は主演二人の魅力を堪能する映画であり、宗教云々いう映画じゃない」という別の意見もあって(笑)、本当は「お手軽映画」として何も考えないで観るべきなのかも知れません(原作の熱心なファンに映画が不評であることは、また別の問題でしょう)。
ソン・ヘソン監督は、今の韓国映画界において「俳優の演技を引き出す」という点では、かなり優れた監督であり、韓国では将来最も有望な監督の一人ですから、今回の作品は早々に忘れて、次回作に期待したいと思います。なお、韓国の雑誌で行われた監督と原作者の対談内で、ソン監督はこの映画について「人と人との意思疎通を描いたものである」と強調して語っていたことを付け加えておきます。
『優雅な世界』
2007年執筆原稿
カン・イング(ソン・ガンホ)は家庭持ちのヤクザ。時には、きったはったに巻き込まれるが、優雅な毎日を生きる良き父親。そろそろ借家住まいをやめて、一軒屋購入を考えていた矢先、誰かが彼の命を狙い始める。
題名の『優雅な世界』とは、一見自由気ままに生きる主人公イングの生活を表しているかのように思えますが、「ヤクザ」という職業もまた、プライベートでは普通の家庭持ちであり、家庭問題と共に、組織や上司・部下とのシガラミに悩まされ、時には仲間から狙われて、命の危険にさらされる立場であり、実は「優雅ではない」ということを逆説的に現した言葉なのかもしれません。イングの生活は、はたで見るよりも恵まれている訳ではなく、本質的には企業に従事するサラリーマンと大してかわりない様子が、だんだんと浮かび上がってきます。つまり、世間体だとか、警察沙汰、勤務時間やら福利厚生などの面を考えれば、ヤクザの世界よりサラリーマンの世界の方がよっぽど「優雅である」というメッセージも同時に汲み取れるでしょう。そこら辺は、ヤクザたちにどこか共感し、彼らに近い立場で世間を眺めているかのような、ハン・ジェリム監督以下、映画スタッフたちの気持ちが滲んでいるかのようでした。
ハン・ジェリムは前作『恋愛の目的』で、学校の教師が決して聖職ではないことをシニカルなタッチで描きましたが、今回はより一般向けのテイストになっていて、ヤクザ映画としても家族ドラマとしても、ごく普通に楽しめる仕上がりです。イングの家族であるとか、彼の周囲の人々はあまり掘り下げて描いていないので、主演のソン・ガンホ独壇場といったところで、イマニくらいエッジに欠けますが、とりあえず誰が観ても楽しめるでしょうし、面白い作品にはなっていたと思います。
私が一番心を打たれたのは、イングとヒョンス(オ・ダルス)の関係です。いわばヤクザの同期生なのですが、イングにとって頼れる仲間は実は彼だけ。しかしヒョンスも立場が立場だけに、それなりに距離を保ってはいますが、いざとなったらバックアップしてくれる彼の姿勢は、まさに大人の友情そのものであって、ちょっとドライなところが素敵でした。二人には行きつけの食堂がありますが、ここでイングとヒョンスが食事を取りながら語り合う姿、そして時には若い衆を連れて食事をしている姿は、韓国社会を支える世代のリアルな哀愁いっぱいで、日本の男性が見ても十分共感できると思います。この『優雅な世界』は、韓国や日本のおっさん必見の作品かもしれません。
なお、この作品は興行的にかなり期待をされ、大きく宣伝をうたれて公開されましたが、イマイチの客の入りでした。しかし、これは作品の問題というよりも、韓国の市場が似たような企画と顔ぶれでせわしく回り続けて飽和状態になってしまったことにあったと思います。それに韓国映画が停滞期に入ったのなら入ったで、ソン・ガンホのような立場なら再び演劇に立ち返る、ということがあってもいいし、あるべきなのですが、それが難しい構造になってしまっていることの方が、韓国芸能界の大きな問題なのかもしれません。
また、本作は音楽監督を日本の菅野よう子氏が担当していますが、全編に流れる音楽はどちらかというと彼女の持ち味を活かしたものとは思えず、もっと大胆にできればよかったのに、といった感じで、ちょっと残念でした。
『妻の愛人に会う』
2007年執筆原稿
妻を寝取られた男(パク・クァンジョン)が、不倫相手のタクシー運転手(チョン・ボソク)に復讐すべく、彼に長距離乗車を依頼する。しかし、男二人の珍道中は二人の間に奇妙な連帯感を芽生えさせ、彼らの妻たち(チョ・ウンジ&キム・ソンミ)との関係もまた変質させてゆく。
一般的にいって、韓国の独立系映画は非常につまらない作品が大半です。それは低予算だから、というよりも、映画に対する視点がやたら独りよがりだったり、幼稚だったりと、お金を出してみせる価値があるのか疑問に思うものだらけ。特に若手監督の作品はひどいものが多く、時には才覚の片鱗を輝かせる作品もありますが、一般公開が難しいのは当然でしょう。それはミニマムなものの方が実は面白かったりする日本映画と、韓国映画の大きな差のひとつともいえそうですが、この『妻の愛人に会う』は、そういった韓国インディーズの系譜からかなり離れた位置にあるともいえそうな、素晴らしいセンスに溢れる魅力的な作品です。
全編に漂うポップなセンスは、若手を遥かに凌駕する美的感覚にあふれたものであって、40代後半の監督の手によるものとはとても思えません。また、地味ながら優れたキャスティングが醸し出す人間模様とシニカルな世界観なども、やはり若手では演出するのが難しいベテランの味が全開で、とても新人とは思えませんでした。裏を返せば、日本やヨーロッパなどで高く評価される無国籍で個性的な作風であり、もし監督のキム・テシクが韓国を離れて活躍できるのなら、これからもっとも期待できるインディーズ系監督になりそうな資格十分の作品といえるでしょう。
この映画の見所は、まずその独特の映像です。カットのリズムも独特ですが、ワンカット、ワンカットの絵作りが非常に安定している上、個性的な映像美に彩られています。映画の美術はすべて現物合わせ、撮影監督も新人だったとのことですが、その揺らぎない安定感は特筆すべきものです。ドラマは基本的に男のお話なので、この作品で描かれた可愛くも情緒不安定な女性たちの姿に、共感できない人もいるでしょうが、男と女が持ちつ持たれつで影響しあっている感覚が、男性側の視点とはいえよく出ていて、不倫のメロドラマとはまったく異なるものです。また、江原道への長旅の過程で、印鑑屋を営む主人公が、妻を寝取ったタクシー運転手の愛すべき人柄に感化されてしまい、苦しむ様子は傑出した出来栄えになっています。俳優はみな、映画やテレビでおなじみの顔ぶれですが、演技がうまい上に、他の作品では見せない面を表現することに成功していて、これもまた映画の完成度に大きく貢献して好印象です。
物語は男二人の長旅後、しばらく不倫の後始末をめぐるお話が描かれてゆきますが、ここら辺がちょっと退屈であり、全体のリズムを壊していたことが残念でした。が、ここ数年の間に出現した韓国インディーズの中では飛び抜けた完成度と、監督の明るい将来を期待させる一見の価値ある作品として、お勧めの一本です。
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