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Review 『レストレス〜中天〜』『1番街の奇蹟』『無道理』『スキャンダル』

Text by カツヲうどん
2007/4/30


『レストレス〜中天〜』

原題:中天
2007年執筆原稿

 2006年最後を飾る韓国映画の超大作。それが『レストレス〜中天〜』。かつてアクション映画で名演出を見せたキム・ソンスはプロデューサーにまわり、彼の代表作『MUSA−武士−』で助監督を務めた弟子筋のチョ・ドンオが今回監督を務めました。音楽監督は鷺巣詩郎、衣装はワダエミと、日本人のトップ・クリエイターも参加し、中国人スタッフを中心にしたアートワークに、撮影場所も中国と、公開前は話題の作品。配給と製作を担当したCJエンターテインメントは宣伝にも大きなお金を投入し、年末の目玉として公開したはずでした。

 さて、題名にある「中天」とは何を指すのでしょうか? まるで居酒屋か串焼き屋の看板名みたいですが、映画を観た限りでは、どうやら俗にいうアストラル界のことを示しているようです。つまり純然たる霊界ではなくて、霊魂が更なる高みに上る修行を行う、かなり俗っぽい世界。映画のラストでは、現世でお亡くなりになって、この世界に来た人たちが、更にお亡くなりになられて、もっと高みに昇天するようなイメージがあることから、きっとあの世とこの世の中間に位置する世界なのでしょう。そのせいか、この「中天」はエゴと野望が満ちていて、とても修行を積む魂が集うような立派な所には見えません。

 現世で、主人公のイグァク(チョン・ウソン)は、昔の仮面ライダーに出てくるようなゴムマスクベコベコな怪人たちと戦いますが、村人たちから毒を盛られて生きながら「中天」に紛れ込んでしまいます。その擬似天国で、かつての上司や後輩、恋人だった連中が記憶を失って生活していたことから、このよくわからないお話しは、よりわからないまま進んでゆくことになります。基本的には武侠ものなのでしょうけど、その実体は十年前くらいに韓国でSFと称していたジャンルを技術面だけリニューアルしたような内容。確かにVFX映像だけは完成度が高く気合の入ったものですが、その他はぜーんぶヘロヘロ、十年前にタイムスリップしたかのようです。

 「映画を観ている」というよりも、時代遅れのゲーム・ムービーの垂れ流しを延々と観させられているようなもので、たちまち心は映画から離れてしまいます。これでは鷺巣詩郎やワダエミがいくら真面目な仕事をしていても、全然労力が報われません。別に韓国のクリエイターだって、よいでしょうに。デジタルワークだけはシャープで美しく、アクションとドラマ演出は水準以下、シナリオに至っては子供がどこかのネット・コミュニティで得意になって書き散らしたような無残な出来栄え。このひどいアンバランスぶりは監督のチョ・ドンオが「もともとはデジタル系の出身で映画に愛がないのでは?」と思わせるものでした。

 大作の割に本当のスターといえるのは、チョン・ウソンくらい。でも彼は大きな目玉をぎょろぎょろさせて、お口をあんぐり、始終あ然としているだけで、ちっとも格好よくありません。キム・テヒも怖い顔で観客を睨みつけているだけ。彼女が映画の主演を張るには、まだまだ無理であったことがよくわかります。敵ボスのホ・ジュノも、いつも墨汁の池に漬かって命令を下す極楽オヤジな悪役ぶりで、『シルミド/SILMIDO』でみせた好演が嘘のよう。

 とまあ、突っ込みをかければ久々にきりのないトホホな大作だったわけなのですが、こういう映画になってしまったことの責任やら、製作費回収の問題やらについては、「marketing, marketing, marketing」と魔法の呪文を唱えることが好きな大会社のエリートたちに任せることにして、別の疑問を投げかけたいと思います。それは、

「どうして、キム・ソンス自身が監督しなかったのか?」

ということ。この手の企画が韓国ではトホホになることは宿命なので、別に声を荒げて騒ぐつもりはありませんが、キム・ソンス自身が監督していれば、もっと許せる作品になっていたはず。年々映画監督の地位が低下し厳しい状況になっている韓国映画界で、監督からプロデューサーに転じるという処世術は確かに間違いではないでしょうけど、まさか、つまらない責任は全て新人監督にある、ということで終わりとか? 肝いりの大作がショボい出来、興行もしょぼいというのはよくあることですが、今の時代ここまでショボいというのは、ある意味、珍事。韓国映画の引き出しの無さという弱点が、久しぶりに全開で露呈されてしまった作品でした。

 おそらくこの映画が企画された際、中国や日本のマーケットをターゲットに入れていたことは確実で、韓国内マーケットについてはネット世代の取り込みを露骨に狙っていたのでしょう。でも、「漫画、ゲーム、デジタルコンテンツ、それをならべりゃ、大ヒットだろう」というオッサンたちが陥りやすい罠に落ち込んで、映画以前の作品になってしまったようです。チョン・ウソンとキム・テヒ、ホ・ジュノのファンの方には、また別の楽しみが見出せるかもしれませんが…。


『1番街の奇蹟』

2007年執筆原稿

 今の日本は都市再開発が花盛り。一般庶民にお金が流れているようにはとても見えませんが、いたるところに大型ショッピング・センターや立派なマンションが立ち並び、古き良き風景というものも、どんどん消えていっています。それは今の韓国も全く同じ。昔からなんやかんやで再開発が盛んなお国柄ではありますが、ここ十年でソウル市内の光景はすっかり変わってしまいました。でも再開発で得をする人もいれば、大変な損をする人もいて、非合法な経済活動をする人たちの暗躍も相変わらず。

 『1番街の奇蹟』は、そういった都市再開発を巡る人間模様を描いた作品ですが、観ていて感じたのは、この手の作品もまた「故郷崩壊の危機」を描いた作品でもあり、なおかつ韓国お得意の「家族」というテーマを、今の視点で再生しようとする「運動」の一環でもあったのではないか、ということでした。田舎から人々が流失し故郷が喪失してしまう虚しさを訴えた作品は今までもたくさんありましたが、都市再開発もまた故郷の喪失なのではなかろうか、というメッセージが本作からは聞こえてきていたように思いました。なぜなら、開発目標にされるのはインフラが遅れた古い街角ばかり、そこに暮らす人々も貧しい人ばかり。そして開発後には地元の人々とは全く関係ない中流階級以上の人たちが入って来ることが前提になっているからです。その構図は田舎が寂れて風化してしまう様子と基本的には大きく変わらないものです。

 映画は立ち退き担当のヤクザ、ピルジェ(イム・チャンジョン)と住民たちの交流を描いた定番のお話ですが、長屋の一角に部外者が住み込み、やがて同化し、一種の家族として暮らしてゆくようになる様子は、映画『家族の誕生』をちょっと連想させる部分もあって、「家族」というものが「血族一派」ではなく、共に暮らすもの同士である、という風に、その意味が変わってきているかのような印象を抱かせるものでした。また『家族の誕生』と同じく、『1番街の奇蹟』も幾つかの家族を平行に描いていて、最後に共通のテーマへと落とし込む構造になっていますが、これもまた韓国映画における流行なのかもしれません。

 映画としてはコンサバな出来栄え。監督ユン・ジェギュン(『マイ・ボス マイ・ヒーロー』『セックス イズ ゼロ』『浪漫刺客』)の手腕は安定していて、映画のリズムは軽快ながら、情感を失わないところに才能を感じます。そして今回明らかになったのは、「ゲロ、ウンコ、その他」という汚物ネタがどうも一種の作家性から来るものである、ということです。今までウケでやっていたのかと思っていたのですが、今回のような作品でもそれらの記号が外せないところから考えると、この監督のこだわりなのでしょうね、きっと。


『無道理』

2006年執筆原稿

 「韓国特有」って表現をなるべく避けているのですが、その言葉を使わないことには、この映画を説明するのは、ちょっと難しいかもしれません。映画自体は端的にいって、出来の悪い低予算ブラック・コメディなのですが、単に「つまらない」という表現では割り切れない、何か「韓国特有」の作劇文脈らしきものが濃く感じられたからです。これは他には喩えようのない感覚であり、もしかしたら韓国人には当たり前過ぎて見えない物なのかもしれません。

 韓国映画においてのブラック・コメディというものは、ストレートかつ芸のないものが多くて、あまり笑うことが出来ないのですけど、その手のお笑いが好まれる土壌なのか、映画では一ジャンルとして確立されています。その作品群で共通する特徴といえるのが、ぐちゃぐちゃに混乱した内容。これは「韓国式SF」にも通じる特徴ですが、このまぜこぜ感覚の作劇というものが実は「技術が未熟」ということではなくて、「混乱したドラマツルギー」ともいうべき韓国独特のジャンルなのではないか?と最近よく考えるようになりました。ですから結果的には全く面白くなくても、細々とこの手の作品を作り続けることが、実は韓国映画の未来にとって、思わぬ宝になる可能性があるかも知れない、ということなのです。

 この『無道理』ですが、ネタはとても長編にすべきような内容ではなくて、短中編向け。そもそもこんな映画にお金を出す人がいて、よく製作がGOしたな、と変に感心したりもするのですが、「韓国特有」という言葉を使うことによって、外国人には見えてこない可能性が、この『無道理』の製作サイドにはみえた、と仮定すれば、決して不自然なことでもないわけです。物語の中心となるキャラクターは、田舎の爺さん三人組と冴えない放送作家、その他自殺志願の更に冴えない面々。それが江原道の過疎地で密室コメディを繰り広げるのですから、映画が始まって最初の十分間くらいで話の底は割れてしまいます。一発芸アイディアをシナリオ化したら、お話にならなくて「仕方ないので悪戦苦闘して無理やり長編映画に仕上げました」という感じ。

 低予算映画というのは、どうしても場面が限られてしまう上、トップスタークラスの起用が出来ないので、冗長な作品になりがちなのは共通する傾向ですが、『無道理』もその退屈パターンをまんまでいっています。韓国内における自殺志望者のコミューンを扱っていたり、横暴な局PDへの憎しみが一杯だったりと、現代韓国ならではの切り口もところどころでてはいますが、結局はよくある失敗作。でも、主演のソ・ヨンヒの韓国映画界での働き者ぶりも含めて、「韓国特有」の奇妙な安っぽさと安易さがヘンに印象に残る作品でした。


『スキャンダル』

2003年執筆原稿

 この作品は、韓国人の壮絶なセルフ・パロディといえるだろう。特筆すべきは、自らの歴史的文化的素材を使って、真っ正面から自己社会批判を行っていることだ。舞台となる李氏朝鮮時代が、韓国人にとって伝統と文化を象徴する誇りであると同時に、硬直と停滞の象徴でもあることを、それが今でも韓国の奥底に延々と巣喰い続ける封建時代の呪縛であることを、訥々と訴えているかのようだ。

 話自体は、男女の愛憎ゲームの果てを描いた悲劇だが、映画製作者側による知的なコメディと表現する方が相応しい。今の視点から観ると、滑稽極まりない男女間のしきたりと、それに矛盾する自由奔放な男女の駆け引きの様相は、大いに笑ってから考えるべきであり、そこですぐさま「韓国は儒教思想がどうたらこうたら」などと、したり顔で論じようものなら、「引っかかったな」とばかりに監督のイ・ジェヨンにほくそ笑まれそうだ。悪趣味ともいえる春画が流出するくだりは、そんな底意地悪いユーモアが噴出している。

 教養豊かで、腕の立つ自由人チョ・ウォンを演じるペ・ヨンジュンは、今回が映画デビューとの事だが、久しぶりに朝鮮時代の古風な二枚目ぶりがよく似合う俳優である。テレビ・ドラマ『冬のソナタ』とは、かなりイメージが異なるかもしれないが、こういった地味だが着実な役柄がよく合いそうな個性の持ち主である。最大の悪役ともいえるチョ氏夫人を演じたイ・ミスクは、金持ち中年女性のいやらしさ、老獪さ、妖艶さを、全身から滲み出させて好演だ。彼女が故郷を追われ、落ち延びて行く様は、惨めさと同時に、今後も生き延びて行くであろう、したたかさを感じさせる。悲劇のヒロイン、未亡人スクをチョン・ドヨンが力演しているが、今一つパッとせず、彼女のファンはガッカリするかもしれない。だが、湖上の結末は美しくも哀しい屈指の名シーンである。今回一番役得なのが、ソオクを演じたイ・ソヨンだ。あまりにも現代的なコケテッシュさは、最後のオチに毒々しく生きている。

 本作のもう一つの見所は、美術監督パク・サンフン率いるチームが手がけた美術である。特に小物のディティール描写が秀逸だ。これは『酔画仙』やテレビ・ドラマ『大長今』にも共通することだが、韓国において時代劇への取り組み方が変わってきているという証なのではないだろうか。残念なのは、撮影キム・ビョンイル&照明イム・ジェヨン率いる撮影チームの内容が、あまり良いとは言い難い事だ。特に各カットごとの出来不出来が大きく、ばらつきがかなり目立つ。現像側に問題があったのか、照明設計に問題があったのか、アリフレックス・カメラ特有の枯れた味わいが、のっぺりとした露出の飛んでしまったような仕上がりになっていて、美術の丁寧さを、ぶち壊わしてしまった。

 監督のイ・ジェヨンにとって、本作は『情事』、『純愛譜−じゅんあいふ−』に続く三本目であるけれど、それらと比べると、進歩どころか、進化しているといっていいくらい、かけ離れた完成度の高い作品となっている。全編に瘴気溢れる、そして今の韓国だからこそ生まれた、2003年度韓国映画の必見作といえるだろう。


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