Review 『偉大なる系譜』『残酷な出勤』 『ROAD』『浮気な家族』
Text by カツヲうどん
2007/2/4
『偉大なる系譜』
この映画は、ヤクザの世界に身を投じた幼馴染み三人組の友情と悲劇を描いたはず、だったのですが、韓国ヤクザ映画の定番という基準から観ると明らかに失敗したかのような内容。しかし、肝心なのは韓国映画界の寝業師チャン・ジン監督の作品であるという事実。つまり、単純な起承転結だとかエピソードのバランス配分だとかいった観点からはダメに見えても、それもまた計算の内。その奇態さは「ヤクザ、幼馴染、田舎」というキーワードに対するパロディであり、今の韓国映画企画に対する挑戦でもありと、この『偉大なる系譜』は、やはりチャン・ジンらしい実験精神に溢れた映画なのでした。
主役のトン・チソン演じたチョン・ジェヨンはチャン・ジン演出と呼吸がピッタンコ。伸びやかで巧みな演技をみせます。舞台でも共同戦線を張るこの二人ですが、近年の韓国映画では稀に見る名コンビ。反面、もう一人の主役だったはずのキム・ジュジュン役のチョン・ジュノは、はっきりいって異物。そもそも何のための出演かも判然としない役回りですが、チャン・ジン的天の邪鬼(あまのじゃく)な視点に立って解析を試みると、実は深い意味があるように思えます。まず、彼、ジュジュンは「ヤクザらしくないヤクザ」。コネも金もなく、のし上がるために裏社会に入ったような人物ですが、自分がヤクザであることにコンプレックスを持っており、あくまでも「俺はヤクザじゃないよ、会社員だよ」と事あるごとに強調します。そしていつの間にか、ヤクザとしてもビジネスマンとしても行き場を失ってしまうのです。これは、チソンが「自分はヤクザである」とはっきり自覚して生きていることと非常に対照的であって、肩書きだとか属性だとか見かけにこだわって道を踏み外す現代人の姿そのものです。
そして、その中途半端なヤクザ像を場違いなチョン・ジュノが演じていたことも、チャン・ジン流の韓国映画メイン・ストリームに対する痛烈な皮肉でもあったのではなかろうか、と感じました。なぜなら、ジュジュンのキャラクターとは、チョン・ジュノが『大変な結婚』と『マイ・ボス マイ・ヒーロー』のヒット以降、ずっと演じることを義務付けられてしまったようなキャラクターのセルフ・パロディ以外のなにものでもないからです。これらはチャン・ジン組の「一見、通る企画でお金を集めるけど、実は自分の映画を作ってしまう」という巧妙なレジスタンスだったのかもしれません。
この映画のもう一つの見所は、ひねくれたシュールな映像感覚。主な舞台となる刑務所は韓国空軍の基地がそばにあるため、年中、上空を戦闘機が超音速で通過し、爆撃訓練を行っているという凄い場所。それが映画後半のトンデモない出来事の伏線になっているのですが、「ヤクザ、刑務所、戦闘機」という奇妙な舞台装置は、不思議な空間を生み出しました。また、ロングショットで捉えた刑務所大脱走シーンは、人間のせこい逞しさをとても強調していて、近年の韓国映画屈指の名シーンになっています。
『偉大なる系譜』は、非一般的な作品に仕上がっていますが、チャン・ジン組ファンにとっては必見のコアな映画といえそうです。
『残酷な出勤』
韓国若手怪優のホープ、キム・スロが主演を張った『残酷な出勤』は、一見よくあるコメディのような印象を受けるでしょうが、実は全く違います。お金の価値が軽くなり、一生懸命働く意味も希薄になり、ネットを使った情報操作の拝金主義がまかり通る現代。主人公のトンチョル(キム・スロ)は投資に失敗し、莫大な借金を背負ってしまいます。貸し元は裏金ですから、取立ては苛酷。支払いが滞ることは生命の危機さえ招きかねません。トンチョルは家族と自分を守るために、友人マノ(イ・ソンギュン)と「良心的な誘拐」を企てます。しかし、トンチョルたちに悪意はなくとも誘拐は誘拐。倫理を履き違えたトンチョルたちに天罰のような事件が降りかかってきます。
この『残酷な出勤』もまた擬態企画をしなければ自分の映画が撮れない、若いクリエイターの、とある抵抗の結果だったのかもしれません。一応コメディ仕立てにはなっていますが、監督のキム・テユンにはおそらくは観客を笑わせる気はなかったのではないでしょうか。裏金の描写は(裏金の親分役には、これまた怪優のキム・ビョンオク)、それなりにユーモラスに描かれていますし、狂言誘拐の常習犯である女子高校生テヒ(コ・ウナ)を物語にかませるなど、若者向け娯楽作としての、とりあえずのお膳立ては出来ています。ですから、映画の前半は「またこの手のつまらない犯罪コメディか・・・」と白けっぱなしだったのですが、後半部に突入し、トンチョルの娘を誘拐した人物の正体と動機が明らかになって意外なラストを迎えると、私はちょっと感動してしまいました。
確かに作品自体は安っぽくて、俳優たちにも魅力がないし、時間軸を行ったり来たりする構成も煩雑で無駄が目立ちます。話もありきたりで全く面白くはないのですが、最後に作品からは「社会がどう変わろうとも、家族は何物にも代えられない宝であり、人もまた善良である」という圧倒的なメッセージが伝わって、私はうなってしまったのです。最後に見せた誘拐犯と被害者の子供の対峙こそ、この『残酷な出勤』の真骨頂。韓国には家族の絆を描いた作品がたくさんありますが、それを誘拐に使ったという点で、ちょっと今の日本では考えにくい特異な内容といえるでしょう。
また、この映画は誰が犯人役なのか、おしゃべりオバサンがペラペラ喋ってもネタばれになりにくい巧みな仕掛けになっています。この手法が観る側に消化不良と唐突感を生んでしまっていることは否めませんが、うまく感動のラストへと繋がっていて、よくあるパターンでがっかりしないようになっています。
『残酷な出勤』は決して手放しで誉めることが出来る作品ではありませんが、ヒューマニズムを最後まで貫き通したという点で特筆すべき新人の作品といえそうです。
『ROAD』
原題:道
2006年執筆原稿
名匠ペ・チャンホ監督が『黒水仙』から約5年ぶりに送る極私的ともいえる作品が、この『ROAD』です。韓国での公開は2006年ですが、実際の製作年が2004年となっていることから推測するに、完成して海外の映画祭に出品した後、しばらくお蔵になっていたのでしょう。プリントは英語字幕が付いたボロボロのもので、いまさらながら韓国のお寒い映画興行事情を垣間見るかのようですが、メジャー・シネコン+ブロック・バスター・プログラムのファミレス定食が増えすぎた今のソウルでは、逆に『ROAD』のような作品をかけるしかない映画館、つまりそうやって劇場としての商品価値を生み出しつつも、運営する側の志を投影しようという場所が皮肉にも増え始めました。採算が取れるか否かは疑問ですが、クリエイターを志す若者たちのためにも、ベテラン監督たちの存在を新たに見直すためにも、いくつかの場所は生き残ってほしいものです。
さて、この『ROAD』は、韓国がまだまだ貧しく日々の生活すらままならなかった時代を舞台に、地方を旅する流れ鍛冶の人生を描いたロード・ムービーですが、1980年代に活躍したペ・チャンホ世代のテイストが映画にはたくさん詰まっていて、しみじみと人生の喜怒哀楽を歌い上げた、心に響く作品になっています。この映画がなぜ「極私的」なのかというと、ペ・チャンホ自らが主人公テソクを演じることで、彼が撮りたいと考えるイメージを、極力忠実に描こうという意思が作品から伝わって来るからです。企画自体も最初から「儲けよう」などと思っていないのでしょう。1980年代韓国映画を今に再現しようとした作品、と形容してよいかもしれません。ですから、話は辛気臭くて暗くて悲しいものですが、こういう作品を観るたびに、どこかのマスコミが謳いあげる「韓流」という言葉の虚偽性を強く感じてしまいます。
主演を兼ねたペ・チャンホ監督は、歳を重ねるにつれ昔から想像できないようなナイスミドルに大変身、まるで別人。彼は20年ほど前、イ・ミョンセ監督の『ギャグマン』に出演し、あまりの演技の上手さと、あまりにも際立ったキャラクターに驚いた記憶がありますが(日本で『ギャグマン』が上映された際、二人で来日して舞台挨拶をしたことは今では貴重な思い出です)、『ROAD』での彼は極めてシリアスに韓国の一時代を表現しています。
映画自体は低予算ですが、ロケーションのうまさ、冬の情景を捉えた映像の素晴らしさ、ミニマムでもツボを押さえた美術効果が、へたなメジャー級韓国映画を凌駕していて、特に、冬の情景は見所です。同時期に封切られた『ノートに眠った願いごと』の撮影のヘタクソさに比較したら雲泥の差。「ちょっと見習えよな」といいたくなりました。結局、映画というものは、「ノウハウとテクニックではなく真実性の問題である」というペ・チャンホ監督の言葉をそのまま映像が体現したかのようです。私は韓国に興味がある日本人には「韓国を理解したいのなら冬に旅行すべきだ」と提言しているのですが、この『ROAD』を観れば、その意味がちょっとわかってもらえるかもしれません。
『ROAD』は、しがない小作品ですが、すこしづつこういった作品が増えて、たまにはスマッシュ・ヒットしてほしいものですね。
『浮気な家族』
この作品を観ている最中、そして観終わった後、つくづく思ったのは、主演のムン・ソリは、やはり努力型の俳優であり、これからもその印象がついて廻るのだろうな、という事であった。これはどういう事かというと、ムン・ソリは、明らかに天性のスターたるオーラに恵まれていないからだ。『浮気な家族』のホジョン役も、壮絶演技で観る人を驚愕させた『オアシス』のコンジュ役も、どうしても演技の良さとは別に、俳優個人の努力の跡が生々しく見えてしまう。これらの形跡を見えなくさせてしまう事が、俳優としての天分の才だと私は思うのだが、残念ながらムン・ソリはそれに少々欠けている。『ペパーミント・キャンディー』での役柄は、あまりにも印象が薄く、誰もはっきり覚えていない事は割とよく知られた事だけれども、地の彼女は、きっとこちらに近いのだろう。
だが、誤解をしないでいただきたい。これらのことは、ほんの些細な事であり、彼女の俳優としての価値を少しもおとしめる物ではないし、『浮気な家族』での演技も、彼女ならではの一見の価値ある素晴らしいものである事は間違いないと、はっきりと断言しよう。
映画は一見、艶かしいセックス・コメディのようだが、そのテイストは、ホン・サンスの作品群のように冷ややかであり、冷酷だ。笑える人より、困惑してしまう人の方が、遥かに多いだろう映画に仕上がっている。社会が豊かになってゆき、個人の些細な趣向の選択が自由になればなるほど、家族関係は希薄になってゆき、夫婦や親子の意味が流動的になってしまう。映画『浮気な家族』は、そんなフワフワな家族崩壊の悲劇を皮肉に冷たく描いている。
登場人物たちの社会的背景の描写は極めて希薄で、彼らが何をやっている人たちなのか、通り一遍の説明だけで、全く実感を持って描かれていない。出演者たちも、ムン・ソリ演じるホジョンを含め、それなりに個性的ではあるけれども、皆、弱々しい。特にホジョンの夫ヨンジャクを演じたファン・ジョンミンはあまりにも凡庸な役柄なので、観ていてしばしば彼の存在を見失いそうになる。彼の両親を巡るエピソードも、もっと広げる余地はいくらでもあると思うのだが、どちらかというと、添え物で終わる。唯一、不幸な郵便配達夫を演じたソン・ジルだけが強い印象を少し残すが、それは彼がショッキングなラストに大きく関わる役だからだろう。
だが、これらは、監督のイム・サンスが、家族関係というものが、純粋な個人の前には、いかに唯物的なものに過ぎないかを描くことに力を注いだ結果だからだろうと思う。一家を巡る結末も、タイトルを象徴するかのようだ。彼らは一旦、風に吹き飛ばされるように四散してしまうが、やがて各々の再生が、ぼんやりと始まり、物語は終わる。
『浮気な家族』は、とても娯楽作とは言い難い映画ではあるけれども、個性的な人間ドラマとして観る価値は十分あるし、特に今の日本人の心情にあてはまる内容だ。韓国の映画やテレビの濃い人間関係にうんざりした向きには、是非ともお勧めしたい作品である。
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