Review 『キムチを売る女』『不機嫌な男たち』 『許されざるもの』『映画館の恋』
Text by カツヲうどん
2007/1/21
『キムチを売る女』
原題:芒種
【芒種】…芒のある穀物を蒔く季節の意。(中略)太陽暦で6月6日頃に当たる(『広辞苑』第5版より)
中国東北部の辺境で暮らす朝鮮族スニ(リュ・ヨニ)は、32歳のシングルマザー。同じ長屋には若い娼婦たちが暮らしていて、夜になると賑やかに仕事に出てゆく毎日。街は活気がなく、幾つか工場があるだけ。仕事の口は限られています。スニは生活のためキムチを作って売っていますが、当局の露天商摘発が厳しく、警察から邪魔をされてばかり。
ある日、工場勤めの男キムは、スニからキムチを買ったことがきっかけで、彼女が同族であることを知り、惹かれてゆく様になりますが、いつもつきまとうキムの妻は、スニと夫が接近することを許そうとしません。スニは純朴でまじめなキムを、つっけんどんながらも、だんだんと受け入れるようになりますが、二人が男女の関係になったとき、スニはキムの妻の密告により、売春容疑で警察に逮捕されてしまいます。
警察官に厳しく尋問されるスニ。「民族は! おまえは何民族だ!」 しかし、スニがそれに答えることはありません。釈放されたスニを待っていたのは、独り遊びをしていた息子の死。運命の不条理な仕打ちに、スニの心の中で湧き上がる突然の殺意。彼女は結婚式場への納品を依頼されていたキムチの中に大量の猫いらずを混ぜ込みます。華やかな結婚会場は一転して、阿鼻叫喚の場へと変わり、次々と人々が救急車で運び出されるのでした。全ての希望を失ったスニは、放心して街をさ迷います。しかし、スニがいくら嘆き悲しもうとも、芒種の乾いた風景が、無常に広がり続けるだけです。
皆さん、中国朝鮮族といえばどういう印象を抱くでしょうか? 韓国がバブル景気で浮かれていた10数年前から、出稼ぎに来る朝鮮族が増え始め、今では韓国のところどころに定着した感があります。ソウルの永登浦区あたりなんかは、彼らのお店がたくさん出来ていて、まるで中国東北部的リトル・チャイナ状態。韓国の入管でも日常茶飯事に朝鮮族の団体が出入りしていますし、私も飛行機の中で北京在中の朝鮮族夫婦と隣り合わせになったことがあって、色々と興味深い話を聞けた思い出があります。日本にも留学や、なんやかんやで、昔から結構暮らしている人々もいるのですが、あまり世間の関心を引くことはなく、日本人にとっての中国朝鮮族というものは関心外の存在だと思います。それは韓国人にとっても同じようなもので、職場は一緒でも個人的交流はあまりありませんし、たくさんある朝鮮族のお店も、基本的には彼らの同胞が利用する場所です。
朝鮮族の人々は韓国において自らの帰属性が中国人であることを強調しますし、韓国人もまた、彼らは中国人であって韓国人ではない、と断言します。また、朝鮮族は鴨緑江を自由に行き来できますが、北朝鮮の人々は出来ません。彼ら朝鮮族が中国の東北部(吉林省や延吉省)を中心に大勢住んでいる理由は、おそらくは歴史を遡れば高麗時代以前にまで辿ることができるのではないでしょうか。ですから、今は中国の少数民族としての立場ではあるものの、一種独立した文化圏の人々と考えるべきかとも、思うのです。
さて、彼らの存在が一般化した感のある今の韓国では、映画においても彼らの別民族としての存在を描く作品が最近幾つか登場していますが、初の「朝鮮族映画」ともいうべき作品が、この『キムチを売る女』ではないのでしょうか。撮影はすべて中国で行い、ポストプロダクションは韓国側が担当するという形態をとっています。この『キムチを売る女』で興味深いことのひとつは、中国のとある一地方の日常をリアルに描いていることです。舞台となった地方は、これといった産業がなく、人口も過疎、娯楽も限られ、公務員がのさばっています。仕事も工場勤めくらいしかなく、コネも学歴もない若い女性は、スニのように露天商で日銭を稼ぐか、春をひさぐかでもしないと生きてゆくことは難しい社会であり、中国共産党の幹部が観たら眉をひそめそうです。
この映画が、現代中国における朝鮮族の立場というものを、辛らつに描いているかどうかは、観た人の判断に任せたいと思いますが、韓国になぜ、こんなにも多くの朝鮮族が出稼ぎにやって来るのかが、『キムチを売る女』を観ると、どことなくわかってしまう描写になっているのです。
もう一つ注意してほしいのは、使われている言語。中国ですから、中国語を使っているのは当たり前ですが、同じ民族同士では朝鮮語を使い、一般的には中国語を話すという図式になっていて、朝鮮語会話の中でも、固有名詞については中国語が使われていたり、その時の状況で中国語と朝鮮語を使い分けていたりといった、中国本土における少数民族の立場も浮かび上がってきます。ヒロインのスニは、朝鮮族であることを積極的に表明しませんが、この裏には一種の差別問題が隠れていることは明白でしょう。
監督のチャン・リュル(Zhang Lu 張律)は中国朝鮮族の出身。彼の少数民族としての視点が、中国における被支配民族層の立場や問題というものを気づかせる理由になっているのだと思います。でも、それは日本における在日韓国・朝鮮人をテーマにしたものとは似て非なるものであり、一緒くたにすべきことではないでしょう。そこには、朝鮮社会の視点といったものや、大陸文化と島国文化の差異が見えてくるように、私には感じられました。
映画は低予算作品ですが、テーマ性にくわえて映像美にも注目です。ロケにおける光線の良さにくわえて、構図の取り方が非常にうまく、独特の映像美を持っているといえるでしょう。ただし、長廻しを中心としたワンカットを、じっくりと積み重ねてゆくスタイルになっているので、観ているうちに眩暈と眠気が同時に襲いかかってくることも確か。油断して眠ってしまうと、重要な瞬間を見損なってしまうので、要注意です。109分の短い作品ですが、そういう点では、淡々としていながらも観る側に緊張と集中を強いる、ちょっとしんどい映画であったことも付け加えておきたいと思います。
『不機嫌な男たち』 (再掲)
この映画は観てビックリ! あまりにもホン・サンスの映画とウリ二つなので、最初は彼の新作かと錯覚してしまった。しかし、クレジットは、何度読んでも「脚本&監督 ミン・ビョングク」。果たして、調べてみると、ホン・サンスの助監督経験者だ。しかし、それでも、このそっくりぶりは尋常ではない。「ホン・サンスの助監督経験者」といえば、『嫉妬は我が力』を撮った、女流監督のパク・チャノクがいる。しかし彼女の場合は、女性の視点で師匠ホン・サンスの映画を作り直そうとしたかのようであり、似てはいてもそっくりではなかった。
しかし、この『不機嫌な男たち』という映画も、よくよく考えてみると、単なるそっくりさんだったのではないのかもしれない。印象的な音楽と、時折インサートされる鮮烈なイメージ・ショットが非常に効果的だし、男女の性愛描写も、師匠より執拗でうまい。もしかしたら、監督のミン・ビョングクという人物は、確信犯的に、ホン・サンスの作品群と、そっくりな映画を作ったのではなかろうか? そうだとすれば、この『不機嫌な男たち』は革新的なパロディ映画ということになる。
物語はあってないようなものだ。作家のムノ(チョン・チャン)と、足の不自由なジョンギュ(キム・ユソク)の、ユルユルな友情を通じて、おのおのの、情けなく、エッチな男女関係を、ホン・サンス的視点で描いてゆく。登場する人物は、皆仕事は持っているが、具体的には描かれないし、女性との過去も、はっきり示される訳ではない。だらだらと流れてゆく物語は退屈ではあるけれど、そこからは確かに、人間たちの持つ、哀しいユーモアが伝わって来るし、ユルユルな感覚は、済州島の断崖でマリファナを吸ってラリった、ムノとジョンギュの回想という構成へと繋がってゆき、映画で起きたことは全て、誰かの脳内イメージに過ぎない、といった夢オチのようでもある。映画の冒頭と終わりに流される青空と雲のイメージもまた、脳内トリップの始まりと終わりの象徴のようだ。
出演者は『カンウォンドの恋』に出ていたキム・ユソクと、『春の日のクマは好きですか?』に出演していたユン・ジヘに辛うじて心当たりがある程度で、ほぼ無名といっていいが、皆、ポヨヨンとした独特の演出に十分応えている。
この『不機嫌な男たち』は、ホン・サンス作品のファンであれば、楽しめる映画だし、お勧めできる。逆に、そうでない人には、ホン・サンスの『秘花 〜スジョンの愛〜』までの作品群を観てから鑑賞してほしい。そうした方が、ミン・ビョングク監督の企てがより伝わってくるだろう。なお、この作品は作家系映画には珍しくサントラが(韓国で)発売されている。これがなかなかの名盤なので、映画音楽に興味のある方は聴いてみてほしい。そんなところが、本家本元とちょっと違うところなのかもしれない。
『許されざるもの』 (再掲)
この作品について我々日本人が語ることは無理なのかもしれませんし、また、韓国人にとっても、嫌なことかもしれません。なぜならこの『許されざるもの』は戦後から今まで、韓国人男性が背負い続ける呪い(つまり、韓国人女性にとっても深刻なテーマでもある、ということです)とも言える「軍隊生活」を執拗に描いた作品だからです。この映画がもし、メジャークラスの娯楽映画として作られていたならば存在を無視できたのでしょうが、ビデオ撮影の低予算作品であったために底知れないリアリズムを持ち合わせてしまい、この作品を観た韓国の男性の多くはゆるい笑いと悲しい気持ちに襲われたのではないでしょうか?
映画は、ウッディ・アレンを連想させるコメディ仕立になっていて、PD兼監督のユン・ジョンビンは、劇中でも重要な役柄のダメ兵士ジフンを好演しています。そこにはテーマ伝道者としての強い意志が感じられました。
物語は、軍隊生活と除隊後を、カットバックさせる構成になっていて、両方のゆるい日常が描かれて行きます。私が説得力を感じたのは、「一見厳しくみえても、実際はたるんでいて、娑婆から観れば異常な世界」という軍隊生活の空気感です。主人公テジョンは軍隊では班長を勤め、それ相応の評価を受ける立場にありましたが、除隊後は、ただのダメなプータロー。逆に、彼の中学時代の同級生スンヨンは延世大在学中に入隊した韓国社会のエリートですが、生真面目な性格が軍隊という世界に順応できません。そこには軍隊社会で模範者であるものと、実社会で模範者であるものは同じではないこと、それを無理やり反り合わせてしまおうとする軍隊という存在、そして軍隊的なものが韓国における社会的規範システムとして一般社会に深く機能しているという事が暗示されて描かれているように思いました。多くの韓国人男性にとって、この映画の持つテーマは、かなり辛かったのではないでしょうか?
軍隊経験者に聞くと、大体「楽しかった」という人と「二度と嫌だ」という二つに別れるようですが、この映画を観たあとは、その「肯定、否定」は、そんな割り切った簡単なものではない、ということが良くわかります。また、飲み屋で軍隊時代の仲間が集まり「忠誠!」とやっている姿を見かけることがありますが、あれは、当人たちにとっては、実は精神のバランスを保つ方便なのかもしれません。そういった姿を好きではなかった私にとって、今までの自分の姿勢に、ちょっと反省を促させられた作品です。
『映画館の恋』 (再掲)
この『映画館の恋』は、ホン・サンス作品の中で、『秘花 〜スジョンの愛〜』と並び、もっとも軽くて、観やすい映画に仕上がっていると思う。この映画を観る前、韓国の知人がホン・サンスの映画について「どうせ、この映画も、男と女が知り合って、寝て、別れて、それで終わりでしょう。いつも同じ話でうんざりだ」と怒りを込めて語っていたけど、話の基本はその通り。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、この映画は、監督自身の意図なのか否かはわからないにしろ、よい意味で洗練されて楽しい作品に仕上がっている。
この『映画館の恋』の魅力はまず、軽快さだ。前作『女は男の未来だ』に比べると、ずっとリラックスして撮影したかのような印象を受ける。製作途中で投げ出してしまったかのようでもあるが、その中途半端ぶりが、今までになかったカジュアルな感覚を生み出しており、ロケーションの中心が南山タワーを背景に鍾路や仁寺洞といった、ありきたりの場所だったりするのも、よい意味でお手軽感を強めている。また、映像スタイルは今まで通りと見せかけながら実は形式美を目ざしたかのような端正なシーンの連続であることにも注目だ。いつもの「冷たい観察眼」に、一種の様式美が加わって、妙に、こじゃれた映画になっており、見飽きたソウルの古い街並みが、あるようでないような空間に見えてくるから、不思議だ。
物語は、入れ子のような二重構造になっているが、前半部が面白い。イ・ギウがホン・サンスの映画に出演すると聞いて、どういう風になるか、全く想像もつかなかったけど、いろいろな点で、彼が演じたサンウォンはハマリ役だった。それ故、物語の構造上、出番が少ないことが惜しまれる。また、キム・サンギョンも独特な個性がよくでている。彼は2004年のラブ・コメディ『私の男のロマンス』では、あまりにも割り切ったプロの仕事をしていて苦笑させてくれたが、やはり彼は一癖も二癖もある監督の元では複雑で捕らえどころのない、かといって彼以外の何者でもないという、不思議で冷酷な性格俳優としての良さを発揮する。唯一のヒロインを演じたオム・ジウォンも妙にかわいい。
従来のホン・サンスを高く評価する向きからすれば、中身の薄さに「手抜き」を感じるかもしれないが、本来だったら水と油の「娯楽性と作家性」が、どういう訳だか両立してしまった小気味よい快作といえるだろう。ホン・サンス作品を見たことのない方、ホン・サンスなんてどうでもいいや、という方にちょっとお勧めしたい。ただし保証はできません。だって、ホン・サンスの映画なんだから・・・
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