Review 『裸足のギボン』『殴打誘発者達』『愛してるから大丈夫』『間で』
Text by カツヲうどん
2006/12/17
『裸足のギボン』
2006年執筆原稿
「知能障害者の主人公が家族に支えられながらマラソン大会に挑む、感動の実話を映画化」した話題作っていえば、チョ・スンウが主演して大ヒットした『マラソン』を思い浮かべますが、この『裸足のギボン』も同じような実話から生まれた企画です。今回が初監督のクォン・スギョンも記者会見では開き直ったのか「『マラソン』と比較してくれることはかえって光栄です」なーんてコメントをしていたようですが、それは仕方ないでしょう。なにせ『マラソン』は本当の大ヒット、映画の完成度も高かった訳なんですから。
そんなわけで、『裸足のギボン』は生まれながらにして『マラソン』と比較されてしまう運命にあるのですが、パクリうんぬんいうこと自体、意味がまったくないと思います。描かれた背景も違えば、映画の内容も全く違う、それは『マジンガーZ』と『テコンV』を比較するようなもの。まず、『マラソン』が確固たる都会的な家族の人間関係を描いたものならば、『裸足のギボン』は、『ぼくらの落第先生(原題:先生、キム・ボンドゥ)』のヒット以来、やたらと増えてしまった故郷を描いた映画でもあるからです。そして『裸足のギボン』が、障害者とコミュニティの関係を描いていることに対して、『マラソン』は障害者と家族の対決を描いているところが、両者の決定的な違いといえるでしょう。
<物語>
舞台は南海に面した半農半漁の小さな村「ダレンイ」。そこで老いた母親(キム・スミ)と二人で暮らすキボン(シン・ヒョンジュン)は40過ぎのいいオッサンでしたが、知能が8歳程度しかありませんでした。でも底抜けに明るくて真面目で働き者。『レインマン』以来のお約束通り、どうでもいいことに関しては飛びぬけた記憶力を持っています。村のみんなはキボンをいじめたりせず(注:子どもを除いて)、仲間として受け入れていました。写真屋の看板娘ジョンウォン(キム・ヒョジン)も妙に彼に肩入れしています。
ある日、地元でマラソン大会が開かれました。出場者にとって不幸なことに、キボンがいつも通う道筋がコースに入っていて、親切なキボンは先頭の選手が道端に落とした、どうでもいい紙切れを相手に届けようと一緒に走ります。しかし、キボンの走りは素人目にもとてもではありませんが、速く走ることが出来るようには見えません。でも、幼い頃から家と自宅を裸足で往復していたことが功を奏したのか、日ごろの無欲さが報われたのか、はたまた謎の特殊能力なのか、どういうわけか優勝して楯までもらってしまうのでした(でも、大会の審査委員たちは何をやっていたのでしょう?)。
その事を知った村のペク・イジャン先生(イム・ハリョン)は、もう一度「俺の人生、漢(おとこ)として一旗揚げよう」とキボンをマラソン選手に育てるべく、無理やり鍛錬を始めます。キボンが倒れて身体に欠陥が発見されてドクターストップがかかっても、誰もペク先生の野望を止められません。やがて、村の人々との間に冷たいスキマ風が、びゅーびゅーと音をたてて吹き始めるのでした(当然といえば当然です)。また、昼間から酔っ払っているペク先生の一人息子ヨチャン(タク・チェフン)も、そのことが面白くありません。父親にほったらかしにされるわ、気のあるジョンウォンにキボンのことで肘鉄を食らうわで、俺の人生面白くない度に拍車がかかります。焼酎の量も増えるばかり。
でも、キボンをめぐる他人同士の諍いに、キボンの母は運命を天に任せた超越ぶり(でも、息子のことを気にかけて心配してはいますよ、誤解しないように)。やがて、というか、仕方ないというか、村の人々はペク先生とキボンに理解を示すようになり、遂にキボンはソウル・漢江沿いで開かれる都市ハーフ・マラソン大会に出場することになるのでした。
この作品、テイストはライト・コメディ。ですからペク先生とひとり息子の対立だとか、キボンを巡る複雑な問題だとか、ややこしいことは基本的にスルー、観てみないふり。ゆえに、それを白眼視する人もいるでしょうが、日本で『サザエさん』に、誰も社会問題を持ち込んだりしないのと同じように、サクッと割り切って観たほうが楽しめます。ジョンウォンがキボンに不自然な肩入れしている様子も、彼女のやさしさってことで、とりあえずO.K.。
この作品の見所は、やはりキボン演じたシン・ヒョンジュン。あまりにも変なキャラですが、全然失笑をうけなかったことは特筆すべきことです。テレビ・ドラマ『輪舞曲 −ロンド−』の撮影で、日本と韓国を往復しながらの体力勝負仕事だったようですが、なかなかの好演ぶりに、彼の俳優としての株がまた上がったような気がしました。この『裸足のギボン』は、シン・ヒョンジュンにカッコいいイメージを期待して観に行くと、ちょっとダメ方向な作品ですが、子どもからお年寄りまで楽しめる作品としては、テレビで家族一緒に観るのにピッタリだと思います。
『殴打誘発者達』
この作品、その奇妙な題名に一体なんだ?と思った人は多かったはず。シノプシスを読んでも、どういう映画かさっぱりわからなかったでしょう。その謎具合にさらに拍車をかけたのはキャスティング。イ・ムンシクとかオ・ダルスだとかは、なんとなく想像がつくのですが、ハン・ソッキュが出ています。しかも長髪(笑)。よくある韓国のホラー&ブラック・コメディかな、と予想して観たのですが、映画は一口で表現し難い奇妙なものでした。あえていえば、極限状態における人間模様を描いたドラマなのですが、ジャンル分けの難しい独特の異色作といえるでしょう。撮影もシンプルながら、大胆な空撮を使ったり、全編ドキュメンタリータッチの手持ちカメラが中心だったりと、奇抜な映像になっていて映画をさらに個性的にしています。
<物語>
田舎道を行く一台の白いベンツ。乗っているのは声楽科の教授ヨンソン(イ・ビョンジュン)と彼の若い教え子インジョン(チャ・エリョン)。実はこのヨンソン、自分の立場を利用して、次々と若い女性を毒牙にかけているハレンチ教授。そこに一台の白バイがやってきます。乗っているのは、普段はいかにもやる気無さそうな交通警察官ムンジェ(ハン・ソッキュ)。彼は信号無視を理由にベンツを停め、違反キップを切ろうとしますが、ヨンソンに覚えはありません。しかし、ムンジュは携帯電話のカメラで撮った違反の瞬間を突きつけます。実は彼、自分で交通信号を切り替えて、検挙件数率を稼いでいる小悪党だったのです。
ヨンソンは腹の虫が収まらず、ムンジェを罵倒して走り去ります。誰もいない河原でさっそく本性を現し、インジョンに襲いかかるヨンソンでしたが、インジョンは激しく抵抗して、携帯電話で彼をしこたま殴りつけ逃げてしまいます。独り取り残され、ベンツの中でふてくされるヨンソンの前に、汚い身なりの不気味な男オグン(オ・ダルス)が姿を現します。
一方、逃げる途中のインジョンは、とんでもない現場に遭遇してしまいます。暴走族風情の若い二人組ホンベ(チョン・ギョンホ)とウォルリョン(シン・ヒョンタク)が、拉致してきたらしい高校生ヒョンジェ(キム・シフ)をリンチにかけ、穴に投げ込んでいるのです。インジョンは、スクーターで通りかかった気のよさそうな男ポンヨン(イ・ムンシク)に助けてもらいますが、着いた先はさっきの河原。しかも、例の二人組と、バットを持った変な男、血だらけのヨンソンが一緒にいます。
実はオグンにポンヨン、ホンベにウォルリョンの四人は、河原で焼肉パーティーを企画、待ち合わせをしていたのです。男たちに自殺志願者と思われたヨンソンは、自分が襲われると勘違いし大立ち回り、痛い目に遭ったのでした。怯えるヨンソンとインジョンを尻目に、四人は肉を焼き始め、安酒をラッパ飲みします。「まあ、あんたたちも一緒にやれや」と笑顔で焼肉を薦めるリーダー格のポンヨンでしたが、とっても不気味。裸になると背中には大きな刀傷が・・・ やがて、袋詰めにされたヒョンジェが覚醒したことから、世にもおかしなバイオレンスの世界が幕開くのでした。
互い関わりのない人々が、袖振り合ってしまったことから善意が誤解を呼んで、収拾のつかない暴力へと発展してゆく。アメリカ映画なんかだと南部の田舎を舞台にしたテーマでよくある話ではありますが、ひと気のない山中で都会と田舎の人間が対立する図式は奇妙ながらも説得力のあるものです。監督のウォン・シニョン(『鬘 かつら』で監督デビュー)は、実体験からこの映画のヒントを得たとのことですが、確かにうなずける内容。
映画はちょっとだけコメディ仕立てになっていますが、田舎の四人組が何を考えているか全くわからず、不気味にヘラヘラしていたと思ったら、何気ないきっかけで豹変する様子はとても恐ろしいものです。それに対して都会で暮らすヨンソンとインジョンは、人と距離を置いて関わらない、争わない生活が身に染みついてしまっているために、うまく対処が出来ず、誤解が暴力へと繋がってしまうわけです。ここら辺には、人間が持つ性善と性悪のはっきりしない怖さがよく出ていて、一種のサスペンスにもなっています。
さらにこの映画の人間関係を面白くしたのは、高校生ヒョンジェの存在。とにかくいいようにいたぶられるだけだった彼が、突然、自分の強さに目覚めてしまい、戦闘マシーンと化してゆく姿は、暴力の根源を連想させて、笑うとともに色々考えさせられてしまう状況になっています。
出演者で一番有名なのが、悪徳警官ムンジェ演じたハン・ソッキュですが、彼がこういうインディーズ系の小作品に出たことは驚きであるとともに、ちょっと嬉しいことだといえるでしょう。彼の出番はあまり多くないのですが、衝撃的なラストは彼が大物スターだったから効果倍増といった感じで、監督の狙いに十分応えたのではないでしょうか。
この『殴打誘発者達』は、あまりにも異様で、今の韓国映画においては仇花的な作品とはいえますが、ウォン・シニョン監督という人物は、チャンスがうまく重なればパク・チャヌク級の変身をするのでは?という期待をさせてくれる作品です。
『愛してるから大丈夫』
時代の変化と共に失われてしまうよいものはたくさんあります。かつて注目されて活躍した中堅やベテラン監督たちが作る韓国映画もその一つ。市場の変化、世代の交代ゆえ、古き良きものが淘汰されてしまうことは自然の摂理かもしれませんが、実際目にしてしまうと心が痛むものです。『愛してるから大丈夫』も、現代では市場から淘汰されつつある正統派韓国映画の一本といえるでしょう。
話が全て読めてしまうベタな展開に、どこかで観たようなラスト、古臭い映像、無理を感じる若者の描写と、今の韓国では誰も観に来ないような内容。日本で公開されても「なんでいまさらこんな映画を」とか「韓流のワンパターンメロにはうんざり」といった、心無い攻撃を受けそうな作品ですが、この『愛してるから大丈夫』には確実にかつての韓国映画の心があったと思うのです。
<物語>
ミニョク(チ・ヒョヌ)は明るくお調子者の高校生。ちょっと軽薄ですが、仲間にも慕われ楽しい学園生活を送っています。学園祭で校内が盛り上がったある日、男子トイレで用を足していたミニョクは、やはり男子トイレで堂々と用を足していたちょっと奇妙な女の子ミヒョン(イム・ジョンウン)と衝撃的な出会いをします。何か運命的なものを感じるミニョクでしたが、それが確信に変わったのは友人たちの誕生会を兼ねた合コンをした時でした。お店の男子トイレで用を足すミニョクの前に、前回と同じ状況でミヒョンが姿を現します。最初はミニョクの気をひこうとする努力に、素っ気なく対応するミヒョンでしたが、お互いの絆は段々と強まってゆき、ある夜ミニョクはミヒョンにちょっと強引なキスをするのでした。しかし、ミヒョンは一切無言で外国に母親と共に引っ越してしまいます。その事実を知ったミニョクは深い絶望に囚われますが、ミヒョンには愛する彼にはいえない悲しい秘密があったのです。
それから数年後。大学に入学し、友人たちと充実した日々を送るミニョン。パラグライダーをやりながら、一見明るく過ごしている彼でしたが、高校時代に受けた失恋の傷を今も隠しながら生きてきました。しかし、彼の前にミヒョンがまたしても突然姿を現します。しかも、男子トイレの中で。冗談めかして久しぶりの再会を喜ぼうとするミヒョンでしたが、傷ついたミニョクは思わず、「おまえは誰だ!」ときつい言葉を吐いてしまいます。ミニョクの態度にショックを受けるミヒョンでしたが、自分がもう長く生きることができない事実を彼に打ち明けます。
ミヒョンの真実を知ったミニョクは、彼女に最高の思い出をプレゼントするため、二人きりでオーストラリアに旅立ちます。雄大な山河に見守られながら、パラグライダーで飛び立つ二人。それは、ミヒョクとミニョンにとって、あまりにも短い結婚生活、新婚旅行でもあったのです・・・
映画の最後は、なんともやるせなく、つらい想いを観るものに残します。でも、二人の強い絆と、ミニョンのミヒョクに対する深い愛が如実に伝わって来るラストでもあって、男女の関係というものは形式ではなく、魂の絆であるべきだ、というメッセージが心を揺さぶります。「某韓流スターがバンジー心中する映画と同じじゃないか」とか、「売れないコメディアンが献身的な奥さんを失う映画となんだか似ている」とか、意地の悪い突っ込みはいくらでも出来るでしょう。でも、男女の純愛というものがあるとすれば、それがコンゲーム(注:だましだまされ二転三転するストーリーのこと)や悲惨な泥沼話として描かないと良しとしない風潮というものにも疑問を感じます。どこかに恥ずかしいくらいのストレートに純情で、それが惜しげもなく披露される恋愛映画が、たまにあってもいいのではないかと思うのです。
元々、韓国映画の魅力とは、そうしたものだったのではありませんか?
監督のクァク・チギュンは、今の韓国ではベテランといってもいい監督。かつて日本で注目されたぺ・チャンホ、イ・チャンホなどと同世代の監督です。それゆえか、コンスタントに映画を撮ることは難しいらしく、『愛してるから大丈夫』は、『プライベートレッスン 青い体験(原題:青春)』以来6年ぶりの新作ですが、やはりベテランにはベテランにしか伝えられない情緒というものがあることが、この作品を観るとはっきりわかります。それは手練手管の演出テクニックというよりも、クァク・チギュン監督の世代が抱え持つ、彼らの心の中で今も生きている韓国の原風景でもあったと思うのです。確かに若者の描写はかなり無理を感じましたし、映像も残念ながら一昔前の雑な感じで、映画の感動を削いではいます。でも、こうした王道の純情ドラマが失われつつある今でこそ改めて皆に観て欲しいと思った作品でした。
一見軽薄だけど、実は純情で一途なミニョク演じたチ・ヒョヌは、テレビ中心で活躍している若手タレント。映画は今回が初めてのようですが、演技的にはイマイチ。でも、初々しさはあったので、これはこれでよし。薄幸のヒロイン、ミヒョン演じたイム・ジョンウンも同じく新人ですが、ちょっと怖い顔立ちが器用に立ち回れないヒロイン像を引き立てていて、印象に残ります。逆に彼女が今風のアイドル然としたキャラだったら、映画のニュアンスもがらりと変わったのでは? そういう点では、とてもよかったと思いました。
撮影と照明がひどい出来だった事が一番残念でしたが、色々なマイナス面を差し引いても見る価値はあるといえるでしょう。日本ではかなり否定的な意見が飛び交いそうな映画ではありますけど、従来、韓国映画が持っているあつい情緒が理解できる方には、きっと深い感動を伝えてくれるに違いない作品です。
この作品は韓国における巫覡(かんなぎ)=「ムーダン」の姿を追ったドキュメンタリーですが、「人と職業の関係」を一種の宿命としてとらえた内容といえるでしょう。現代の韓国ではムーダンというものは、日本人が思う以上に身近なものであり、職業として認知されていますが、それは実は特殊な技能職人に近い存在であることが、この作品を観ていると伝わってきます。
「ムーダン」の定義や由来というものはここでは書きませんが、私が感じたのはやはり、韓国人がいうほどに、ムーダンというものは半島独自の特別なものではない、ということでした。そこには、世界各国で見ることができる霊媒儀式と色々な点で共通する事項があって、「ムーダン」というものも汎地球的な自然法則に従った「何か」によって司られた行為である、ということなのです。
この作品の優れていた点は、ムーダンが組織だって運営された、実は計算された仕事である、ということを描いて見せたことでしょう。儀式の中心となる巫女は、大変聡明な魅力ある人物。彼女は優れたプロデューサー、そしてディレクターとして、巫覡のスタッフをまとめ、そこに顧客を参加させることで、儀式が意味を持ち成立してゆく様子は、斬新なものすら感じさせました。そしてムーダンを生業とする巫覡たちのクレバーさが端々に見え隠れするところが、この『間で』の特徴的な部分でしょう。
韓国という場所は、日本人が思う以上に霊的な場所。日本人でも、韓国の山寺にわざわざ御札を取りに行くひとがいるそうですし、私自身も韓国で不思議な経験をしたことが何度かあります。ただ、ちょっと残念なことは、霊的な事象を正面から真面目に捉えようとすると、韓国では日本以上に馬鹿にする風潮があるようで、この映画においても、オカルテックなアプローチは意図的に避けているようにみえました。ただ、映像というものは正直なもので、霊視能力に悩む少年の姿を捉えたカットに何か尋常でないものを感じたのは私だけではないと思います。
ムーダンを描いたドキュメンタリーとしては『霊媒 生者と死者の和解』(パク・キボク監督、2003年に韓国で劇場公開された)が記憶に新しいところですが、この作品が韓国各地のムーダンを個性豊かに描いて見せた作品であったとすれば、『間で』は、もっと内面的なアプローチを試みた作品といえそうです。
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