Review 『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』『俺も行く』 『アパートメント』『五つの視線』
Text by カツヲうどん
2006/10/29
『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』
リュ・スンワン監督はアクション映画の監督しては高く評価されていますが、未だ香港映画の亜流、娯楽映画専門といった印象を持たれがちです。これはかつて、監督自身が、マスコミのインタビューの中で香港映画への愛や影響を語っていることに起因しているのではないかと思うのですが、私の評価はちょっと違います。彼の映画は一見、商業作品のようですが、毎回色々な映像スタイルに挑戦しながらも、作家としての筋道が一本通っていて、韓国の映画作家としてもっと評価すべき一人だと考えています。リュ・スンワン作品の端々には、いつも彼がたどったであろう人生の軌跡が感じられ、その映画的原点を『ダイ・バッド 〜死ぬか、もしくは悪(ワル)になるか〜』や『たちまわLee』に見るならば、今回の『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』はリュ・スンワンが、作家としての原点に立ち返ったともいうべき、極めて私的な映画だったのではないでしょうか。
<物語>
時は現代、舞台は架空の地方都市オンソン。主人公の刑事チョン・テス(チョン・ドゥホン)は幼馴染みワンジェ(アン・ギルガン)の死を知らされ、久々に故郷に戻ってきます。ワンジェは表向き、飲み屋の喧嘩で殺されたことにはなっているものの、関係者が集う葬儀場は何やら不穏な空気。そこでかつての親友の一人であり、今では地元気鋭の若手事業家として活躍しているチャン・ピロ(イ・ボムス)と和やかに再会しますが、一見平和に見える田舎町が、実は何者かに牛耳られていて、明らかにおかしな雰囲気になっていることに気がつくのでした。
ワンジェの死に不審を抱く、やはり幼馴染みのユ・ソックァン(リュ・スンワン)とテスはタッグを組み、事件を調べ始めますが、とたんに街の人間たちが牙を向いて二人に襲い掛かって来ます。やがて、街の再開発の利権を巡る陰謀と、ピロがその黒幕であることが明らかになってゆきます。次々と消されてゆくテスの協力者たち。ピロの権力は絶大で、警察も無力です。絶対孤立無縁の中、意を決して悪の一味に決死の殴り込みをかけるテスとソックァン。しかし、二人の前には、用心棒軍団、そしてピロの親衛隊がたちはだかります。
この映画、物語は非常に単純、韓国版マカロニ・ウェスタン。ただ、そこがリュ・スンワンの私的作品といえるゆえんなのです。確かにこの『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』は、彼の今までの作品同様、色々な映画のコラージュであり、街全体が主人公二人に牙を向いて襲い掛かってくる様子は、ジョージ・A・ロメロのゾンビシリーズなども、連想させます。でも、物語の根底に彼の人生の軌跡が見えてしまうのは私だけでしょうか? キム・ギドク監督が、自分の人生を作品に大きく投影しているのと同じように、リュ・スンワン監督もまた、一見安易なアクションと見せつつも、自らの人生を自らの映画的経験で再構築しようとしているように見えて仕方ありません。
舞台となる街は彼の故郷のイメージが、そこで繰り広げられる人間模様はプライベートな思い出が、そのバックボーンにあるように思いました。そしてこれらの印象は、私が観た全てのリュ・スンワン作品にいえる共通事項でもあるのです。もうひとつ、極私的ともいえるのがキャスティング。主演にリュ監督の「相棒」とも呼べる武術監督のチョン・ドゥホンをすえ、相方をリュ監督自らが演じています。このキャスティング自体、興行的にいえば賭け以外の何物でもないはずなのですが、映画的パートナーとの自作自演を実行することで、『血も涙もなく』以降の、自分の映画的人生というものを、この『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』に代弁させて表現している、というのは考えすぎでしょうか? リュ監督本人が聞いたら一笑にふされるかもしれませんが、なにか一つの節目をこの映画に託したかのようです。
アクションも非常に個性的です。ミュージック・プロモーション的な演出を大幅にとりいれ、全州市内で撮影されたストリート・ギャングとの闘いはまるでミュージカル。最後の殴り込みでは、他ではちょっと観た事がないような、包丁だけを使っての絢爛たるチャンバラが繰り広げられます。ここらへんを『ウォーリアーズ』のマネだとか、『キル・ビル』のパクリだとか指摘することは簡単ですが、毎回毎回、何か新しいことを取り入れようと努力している監督の姿勢と工夫、そして映画への愛が感じられ、私にとって感動的でした。
この『相棒 −シティ・オブ・バイオレンス−』という作品、リュ・スンワン作品の中ではベストではないし、私が一番好きな作品でもありません。でも、リュ・スンワンがリュ・スンワンたる理由というものが濃密に出ている作品ではないのでしょうか? ですからこの映画は、娯楽アクションとは考えないで、一つのアートフィルム、純然たる作家作品の一本として観て欲しいと思います。
『俺も行く』
この作品(2004年韓国封切り)、2年くらい前の韓国映画のトレンドをなぞっているような企画で、今となっては誰の関心を呼ぶのか甚だ疑問の内容だが、映画の出来そのものは悪くなく、作り手の姿勢は極めて真面目で好感が持てる作品になっている。
あえて注目するべき点を挙げるとすれば、映画ビジネスの後発組であるロッテシネマの配給第1弾作品である、ということだろうか? ロッテ財閥が映画ビジネスで今後成功するか手を引いてしまうかは、今はまだわからないが、老舗のシネマ・サービスや大企業系列のCJエンターテインメントを相手に、どこまで健闘できるか、ちょっと気になる部分である。
物語は、よくあるヤクザ・コメディだが、他の作品と少し違うのは、作家にしても暴力団にしても、人としての生活がちゃんとあり、帰属する社会の一員であるという部分を、丁寧に描いている点だろう。この映画に登場するマンチョル組は、きちんとした企業ヤクザの形態を取っておりリアリティを感じさせるし、売れない作家の家庭が幼子を抱えて共働きで苦労する様子は、かなりシビアである。
劇中、自伝小説をイメージした場面の挿入にしても、上手に現実の時間枠と区別された演出がなされているので混乱は少ない。また、ヤクザのマンチョル(ソン・チャンミン)と、作家のドンファ(チョン・ジュノ)が、よく似た面影のキャスティングであるというのも演出上のミソである。
監督のチョン・ヨヌォンは今回が本格デビュー。日本留学組(日本映画学校卒、『ウッチャンナンチャンのウリナリ !!』の製作にもかかわっていた)の一人だが、ヤクザの描き方や、人々の暮らしを細かく描こうとする姿勢など、日本で暮らした経験がかなり影響している。他の韓国ヤクザ・コメディは、こういう面では全くダメだから、次回作にぜひつなげてほしい。
出演者たちも、ちょっとユニークな配役で、作家のドンファ演じたチョン・ジュノは別としても、他の俳優たちはちょっとしたお懐かしや大会のようだ。チョン・ジュノの演技はワンパターンで見るべき部分は何もないが、ソン・チャンミンは微妙な演技で組長マンチョルを人間味深いキャラクターにしている。マンチョルを裏切る、若頭役のカン・ソンピルもなかなか強烈だ。日本の俳優、伊藤淳史によく似ているのがご愛敬だが、眼光鋭いルックスは印象的で、これからの活躍をちょっと期待したい。
映画の善し悪しとは、時の運に左右される部分が大きい。この『俺も行く』も、新興会社の手による作品だったこともあってか、現在の韓国のニーズに全くそぐわない作品となってはいるものの、決して観て損はない作品だ。
『アパートメント』
本作を監督したアン・ビョンギといえば、作品の完成度・面白さは別として、それまでゴミ屑同然の扱いを受けていた韓国製ホラー映画を「商売になるジャンル」に転身させるきっかけを作った人物。そういう意味では、やはり手がけた作品の良し悪しは別としても、韓国映画史をこれから語る上で外してはならない存在かもしれません。オリジナリティは全く無いながらも、あざとく力強い演出は、これまた作品の良し悪しは別として、実はかなり個性的なものです。ただ、日本製ホラー映画のスタイルが国際的に流行ってしまい、一種のスタンダードになってしまうと、似たりよったりの韓国ホラー映画がタケノコ状態。若きホラー王、アン・ビョンギの威光は確実に薄くなってしまった感は否めません。彼もホラー専門の名札を付けられることに危機感を抱いたのか「ホラー映画はもう撮りません」といったコメントをしていたようですが、それを覆してまで彼にホラー映画のメガホンを取らせたのは、カンプルが描いた原作のネット・コミック『アパート』がよほど魅力的だったのでしょう。
まず、この映画版『アパートメント』を観て思ったのは「ごく普通の映画」であった、ということ。アン・ビョンギ特有のあざとさが全く無くなり、ワンカット、ワンカットを静かに積み上げてゆく感じであって、ホラー映画というよりも、都会の集合住宅で暮らす人々の疎外感を強調したような作品になっています。そのためか、映画にはアン・ビョンギ独特のエネルギーが全く感じられず、逆に拍子抜け。彼の作品の付加価値というものが、実は大げさな脅し演出に負うところが大きかったことが、この『アパートメント』を観るとはっきりわかります。
人の描き方は相変わらず浅はか。謎解きと最後のオチも充実感がありません。「正体見たり、一番怖いのが人間です、はいおしまい」という謎解き構造は、ゲームベースのホラー映画『サイレントヒル』でも同じでしたが、今の流行なのでしょうか。『サイレントヒル』は高度なビジュアル化で成功していた作品(全く怖くなくて、話もとんちんかんだったにかかわらず)だった訳ですが、まだ韓国映画界にこういう面を期待するには時期尚早なのでしょう。
寂しいヒロイン、セジン演じたコ・ソヨンは、お久ぶりの登場。妙に生彩がないことが気になりましたが、なぜでしょう。前作『二重スパイ』や本作のような「?」な映画ではなくて、彼女にはもっとモダンでスタイリッシュな現代劇に出て欲しいですね。そうすれば、新たなカリスマになることも夢ではないはず。彼女を疑う刑事ヤン・ソンシク演じたカン・ソンジンもパターンに沿った配役といったところで、どうでもいい感じ。それに歳をとったのか、昔のような乱暴な魅力がありません。その他出演者も、みんな印象が薄く、映画が終わってみると、誰が誰やら記憶に残りません。これはシナリオにおける登場人物の造形がペラペラであることに加えて、アン・ビョンギの無理やり演出の失速感も大きく影響していたように思いました。
韓国のホラー映画というものはジャンルが新しいためか、シナリオや監督など、どうしても新人に偏りがち。これはこれで投資回収のリスクを減らす上で仕方ない妥協点なのでしょうけど、そろそろ性根をすえた人間ドラマや映像を基軸にホラー映画を作らないと、元の木阿弥になってしまう時期が近づいているのかもしれませんよ。
ちなみに原作は多角的な視線で事件を追う構成になっていて、現代韓国での生活が、どれだけ冷淡で人間関係が希薄なものになって来ているかが、切実に出ている作品になっています。『アパートメント』の原作は本としても出版されているので、興味を持たれた方は読んでみてください。Part2もネットで掲載中です。
『五つの視線』
シネマコリア2006では『もし、あなたなら2 五つの視線』という題名で上映
この作品は、国家人権委員会製作による「人権」を巡る映画の第2弾ですが、いつも疑問に感じるのは、韓国という国は、わざわざこういう映画を作ってアピールしなければいけないほど人権に対して無神経なんでしょうか? はたまた国家人権委員会を運営してゆく上で、政治的アピール活動が必要ということなのでしょうか? そこら辺の事情は私にはわからないことですが、そんなことよりもこうした作品群が、一般作品として企画・製作できないことの方に問題があるようにも思います。どうせPRするのなら、映画よりもテレビ・ドラマの方がはるかに効果があると思うのですが、できない都合というものがあるのでしょう、きっと。
さて、本シリーズも(アニメ版も含めて)3本目となると、人権に対するテーマを律して製作するのもネタ切れといった感じが否めません。ゆえに、表向きのテーマを守りつつ作られた、各監督たちによる実験作集と考えたほうが外国人にはわかりやすいでしょう。
1.『皆が理解してあげなくちゃ』
ダウン症少女の日常スケッチを通して、障害者の孤独、一般人との共存といった問題を描いてゆきますが、この作品で監督のパク・キョンヒが訴えたかったことは、本来のテーマとはまた別の「働きながら子供を育てる女性の姿」だったのではないでしょうか? ですから、本来のテーマと監督自身の思い入れがずれたかな、と感じた作品でした。
2.『男だったらわかるだろ?』
今回、個人的に最も注目の一本でしたが、実験に傾き過ぎて、韓国人以外はこの作品の問題提起というものが、ちょっとよくわからないのでは?と思った作品です。「男らしさとはなにか」ということを、嫌味で不愉快な主人公に延々と語らせることで、個人の生き方に干渉する保守的な事柄への問題を訴えているのですが、日本人からすれば「なんで今頃そんなことを訥々と」といった感がありあり。この作品、正味21分の中身を2カットで撮影しているところが見所で、俳優の仕切りと、ライティングに注目です。高い天井がとれないので、被写体そのもの(天井の電球とか冷蔵庫の光とか)に照明の機能を持たせて撮影されているのですが、それがスタンリー・キューブリックの作風を連想させ、リュ・スンワン監督の映画小僧ぶりがよく出ていた作品でした。
3.『リュックサックを背負った少年』
日本では北朝鮮寄りにどんどん進んでゆく韓国の風潮を危険視する論調を近ごろよく見受けますが、「北朝鮮寄り」という動きも、個人の実生活においてはまた別の問題であり、北朝鮮の人々に対する韓国の人々の本音が見え隠れするような悲しい作品です。主人公の少女と少年は、命からがら北から脱出して韓国で暮らしていますが、一昔とは違い韓国社会は冷たく、頼るもののない二人は本当に孤独です。韓国社会が豊かになればなるほど北の難民の存在は関わりたくない過去の亡霊のようでもあって、それに対してワルにもなれず、世間から隠れるように生きてしかゆけない二人の姿と、少年が北朝鮮での思い出の品をいつも持ち歩いていることは、観ていて非常に辛いものです。監督のチョン・ジウにとって、どこかプライベートで重なる部分があったのでしょうか?
4.『ありがたい人』
この作品、名を伏せていてもチャン・ジンのスタイルがはっきりとわかる位によく出ている作品です。警察に捕まった学生運動家と、それを取り調べる治安関係者のおかしな心の連帯を描くことで、ヒエラルキーの問題を浮かび上がらせてゆきますが、態度の悪い公職者一般への嫌味なおちゃらけが強く、日韓の制度の違いもあいまって、日本人にはわかりにくい内容です。でもチャン・ジンの世代にとり、この作品で描かれた人間模様は思い出深いテーマなのでしょう。
5.『鍾路(チョンノ)、冬』
真冬のソウル市で、行き倒れて死んだ中国・朝鮮族の男性の軌跡を辿って行くドキュメンタリーです。彼が警察や消防署に助けを求めても、行政側が何の手立ても打たなかった点は人ごとではありませんが、作品はあくまでも「在外同胞の人権」にテーマを絞って描いてはいても、ドキュメンタリー監督キム・ドンウォンが描きたかったことは、変貌している韓国社会への危惧だったのではないでしょうか。『リュックサックを背負った少年』同様、生活が豊かになればなるほど、他人に対して冷酷で無関心な社会になりつつある現代韓国への危機感といったものが感じられます。私は以前、韓国の知り合いに、日本における人間関係の冷淡さを語ったことがありました。しかし、彼はまじめな顔で「でも、韓国も十年後はそうなっているかもよ」。その時はすでに始まっているという事なのかも知れません。
今回は、『もし、あなたなら〜6つの視線』や『いろいろなお話』とはちょっと違って、テーマの掲示が巧みになったというか、いかようにでも解釈できる作品が集まったため、ちょっと焦点がぼけて、ドメステックな方向に走ったかな、とも感じました。しかし、日本におけるご都合主義の韓流情報からは読み取れないニュアンスといったものも沢山含まれていて、韓国に対して深く関心を持つ方にとっては、観て損はないでしょう。出来ることなら、独りで観るよりも韓国の友人たちと観た方が、より理解を深められるのではないかと思います(でも、大概こういう事柄には皆無関心なので、がっかりするかもしれませんけど)。
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