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Review 『まぶしい一日』『デイジー』
『爆烈野球団!』『トイレ、どこですか?』

Text by カツヲうどん
2006/5/28


『まぶしい一日』

シネマコリア2006にて2006年8月全国公開!

 韓国の若手監督と、韓国で暮らす日本人俳優たちが、日韓関係をテーマにして一緒に作り上げたオムニバスが、この『まぶしい一日』です。三人の監督のうち二人は、既になんらかの形で商業デビュー済みですが、どの作品も良い意味で擦れていなくて、今までになく瑞々しい作品に仕上がりました。

 日本においても、韓国においても、互いの国の俳優志望者や監督志望者、映像業界関係者が、何らかの形で留学や長期滞在しているという事実は、かなり前からありました。ただ、そういった経験が、会社組織を基盤にした時には何の役にも立たない事は、日本も韓国も同じようなもの。最近の韓国における日本文化開放政策や、日本で韓国の映画やドラマが商売になる実例が出たことから、だいぶ流れは変わりつつあり、日韓生活経験者の業界人たちがコラボレーションをとれる機会は増えたように見えますが、作品を作る目的はあくまでもビジネスであって、最大公約数の観客を呼び集めなければならない厳しい条件がある現実は、なんら変わりありません。そこには「友好」だとか「橋渡し」だとか、個人の甘い理想がつけいる隙はほとんどなく、日韓両方のマーケットでヒットする合作を作るには、まだまだ試行錯誤と失敗が必要でしょう。この『まぶしい一日』も、日韓の間にある大きな峠を完全に越えたとは言えません。しかし、『ロスト・メモリーズ』や『力道山』、『青燕 あおつばめ』(*)が、峠の2合目から3合目までに達した作品だったとすれば、『まぶしい一日』は、それから半合目くらいは先に進めたように見えました。よくあるトンチンカンで気張った目的意識や暑苦しい義務感といったものが良い意味で希薄であり、世代が確実に更新していることを実感させ、それゆえ描かれた登場人物たちに共感できる部分が沢山あったのです。少なくとも「日常感覚での日韓関係」というものが、他のどの作品よりも、きちんと出ていたのではないでしょうか。

(*) 1920・30年代、日本で女流飛行士として活躍した朴敬元<パク・キョンウォン>の生涯を描いた作品。


エピソード1 『宝島』

 死の床についた祖父の願いをかなえるために、初めて済州島を訪れた二人の若い日本人女性が遭遇する意外な真実とは?
 二人の少女のロードムービーとして始まるこの作品は、当初平凡な展開を見せますが、劇中起こる、ある出来事によって、物語は大変説得力のあるものに変化していきます。そして、劇中提示される、あるテーマに思い入れのある方には、一番、胸に染みるエピソードです。この作品で特筆すべきは、登場人物の描き方に、従来の日韓的ワンパターンな人物像から一歩踏み出した、今の自然な人間像を描こう、という姿勢が感じられることです。劇中登場する韓国人男性キャラの多くは、日本人女性に難癖をつけたり詐欺をはたらいたりと、反射的に日本人に対して敵対感を表す攻撃的な人物ですが、そこには韓国側の自己批判というよりも、美化しないリアルな韓国人像を描こうとする監督のこだわりを感じます。ヒロインである二人の日本人女性にしても、無意味に韓国に憧れていたり、関心を持っていたりといった、これまでの韓国映画にしばしば見受けられたステレオタイプ的な日本人女性でないのは、在韓日本人の意見が反映されているのでしょう。


エピソード2 『母をたずねて三千里』

 主人公ジョンファンは、荒れた日々を送る不良高校生。街角で詐欺を繰り返す彼には、自分と父親を捨てた母親に会うべく、日本に渡るという秘められた目的があった…。
 人の心が一番リアルに描けていたと感じた作品です。また、この作品における日本の心象というものも、日本に行ったことがない、ごく一般的な韓国人にとってのリアルな日本像を感じさせ、日韓関係というものが、一番生々しく出ていたように思います。注目すべきことは、主人公ジョンファンにとって、日本という国は母親が住んでいるということを除いて基本的には何の関心もない場所である、ということです。映画の最後、韓国映画には珍しく渋谷の街が出てきます。早朝の渋谷で何のあてもなくさ迷うジョンファンの姿は、日本と韓国の「近くて遠い国」という表現を、ずしりと象徴しているかのようでした。韓国作品でありがちな、新宿ロケを行わなかった点も、製作者側の新しい視線が感じられた一編でした。


エピソード3 『空港男女』

 旅行雑誌で働くライターの石田は、空港に向かう途中、タクシーのトラブルで日本に帰る飛行機に乗り損ねてしまう。ひょんなことから、書店で働くゴニと知り合い、空港で一夜を過ごすことになるが、二人とも自分の国の言葉しか話せない。身振り手振りで何とか意思を伝えようとする二人だったが…。
 一番のオススメです。なぜなら、コミュニケーションの本質が自然な形で描かれていたからです。目新しい内容ではないものの、日本人と韓国人の関係をこういうテーマで捉えた作品は、この映画が初めてだったのではないでしょうか? ありそうでなかった作品であり、実は多くの人が望んでいた日本と韓国を巡る物語だったように感じました。主人公二人は相手の国の言葉がまったく出来ず、かといって都合よく英語もできずですが、よくあるバイリンガルな第三者がしゃしゃりでてきて仲介したり、といったことは一切ありません。二人はボディランゲージや、アイコンタクトでなんとか意思疎通を図ろうとしますが、意思が通じているようで全く通じていなかったり、逆に言葉を越えて意志が通じていたりと、そこら辺の加減がとても面白く描かれています。日本語、韓国語がある程度わかる方には、この一編だけは字幕なしで観て欲しいと思います。そうすれば、この作品の面白さがいっそう伝わってくるのでしょう。


 『まぶしい一日』は、ミニシアター向けの小さな映画だったため、韓国内では特別大きな話題にはなりませんでした。しかし、日本と韓国を巡る描けそうで描けなかった部分が、こういう形であっても発露したことは注目すべきことです。5年前、いや3年前でも、こういった作品を製作して公開することは不可能だったでしょう。ビッグバジェットの商業作品において、このような自然な感覚の日韓合作が出現するには、あと何年かかるのでしょうか?


『デイジー』

 香港の著名なプロデューサー、ビル・コンのもと、クァク・ジェヨン監督のシナリオ、『インファナル・アフェア』三部作のアンドリュー・ラウ監督の演出、主演にチョン・ウソン、チョン・ジヒョン、イ・ソンジェを迎え、オランダのアムステルダムを舞台に製作された超メジャーと呼ぶのに相応しい映画が、この『デイジー』です。しかし、「超メジャー」ゆえ、逆にマニアック過ぎて韓国内では一般的な作品とはちょっと言い難く、あくまでも中国語圏や日本など外国のマーケットを最初から考慮した映画であったことは明白で、韓国映画独特の情感や、香港映画の無常なハードボイルド感覚の融和を期待するとがっかりさせられます。この作品は、あくまでもスターを観るだけのものであって、映画作品として考えるなら、無国籍な中身の全く無いものといってもいいでしょう。

 この作品を観ていて強く疑問に思ったのは「なぜ、クァク・ジェヨンがメガホンを取らなかったのか?」という一言に尽きます。シナリオはまさにクァク・ジェヨンの世界観そのもので、ヒロインがチョン・ジヒョンだったことも考えると、この企画はクァク・ジェヨンが撮らなければいけない企画だったはずですし、話のおかしなところや納得のいかないところも、彼が監督することで、すべてすんなりと了解できたはずなのです。ですから、彼が監督しないと決まった時点で、結果はどうなるか、簡単に想像できたと思うのですけれど。個性に合わない企画を監督したアンドリュー・ラウにとっても、これは不幸なことだったはず。香港映画の売れっ子として君臨するラウ監督ですが、彼の職人技をもってしても、あまりに韓国的なクァク・ジェヨンのシナリオは、感性を擦り合わせようがなかったのでしょう。『インファナル・アフェア』シリーズで見せた乾いた情感の素晴らしさと深い人間像は、『デイジー』と真っ向から対立し、融和しようのないものであったことは、はっきりわかると思います。また、監督と俳優たちのコミュニケーションの問題や、ヨーロッパ・ロケという条件も、この『デイジー』という映画を無味乾燥なルーティンワークにしてしまったようでした。オランダでは、ほとんどの人が英語を話すことが出来、アムステルダムという街も映画ロケに比較的寛大なようですが、この映画からはヨーロッパ的な風物というものが、あまり感じられません。せめて、背後に流れる言語が英語ではなく、他の言語であれば、もっと魅力的だったと思うのですが。改めて言葉の持つ魔術的意味合いを認識させられます。

 映画というものは「出会いの芸術」です。大金を投じて、いかに優れたスター&スタッフを投入しても「出会いの場」として成功しなければ、よい作品にはなりません。この『デイジー』は、どう考えても、そういった場としてはうまくいかなかったようです。こういったメジャーな企画を実行するには、ドメステックな作品よりも、遥かに多くの人や会社のエゴが絡んで来てしまうことは仕方ないことです。それを乗り越えるのが、スタッフやキャストの連帯感であり職業人意識である訳なのですが、それをもってしても『デイジー』という作品は、合作という壁を越えられなかったようでした。

 今後も韓国映画界は積極的に外国との合作を進めてゆくでしょうし、進めざるえないでしょう。ですから『デイジー』が、少なくとも可能性ある未来への布石になってくれることを、一映画ファンとして祈るばかりです。


『爆烈野球団!』

原題『YMCA野球団』

 朝鮮半島が日本の占領下にある時代を背景に、日本の野球チームを相手に連戦連勝した韓国初の野球チーム「YMCA野球団」の活躍を描いたヒューマン・コメディ。韓国に初めて野球が紹介された年であり、保護条約である第二次日韓協約(乙巳保護条約)が結ばれた年、1905年が背景となっており、独立運動も描かれている。

 この作品は、歴史映画と解釈してみれば完成度が高い映画だ。演出も、美術も、撮影も、丁寧で、浮ついた所がなく、真面目な姿勢が貫かれ、かといって娯楽作品にも仕上がっているからだ。また、この時代を、庶民の視点からリアルにここまで作り上げた映像は、韓国映画で初めてなのではないか。以前であれば、大きいだけで安っぽいセットに、現実感の乏しい俳優たちが右往左往するだけの内容になっていただったろうが、VFXも巧みに取り入れ、日本の歴史時代劇に負けない臨場感をきちんと出している。

 映画における歴史観も冷静で客観的だ。もちろん、日帝時代が「陰鬱なものである」という視点は強調されているし、裏側に根強い「反日コンプレックス」を読み取る事も可能だろう。映画のオチも、愛国主義的、民族主義的そのものかもしれない。だが、今までの韓国のドラマとは違って、政治色を排し、避けることが出来なかった歴史の変わり目、事実として、1905年という年を描いている点は注目すべきである。肝心の日朝野球試合の展開も、朝鮮側が一方的に痛快に日本側をやっつけたりする事は絶対にない。主要な登場人物たちの立場も、インテリゆえ独立闘争に身を投じる者、近代化のために敢えて親日派となる者、世の中がどう変わろうと伝統的な暮らしを守り続けようとする者と、当時の人々の立場が三者三様であることが劇中はっきりと描かれている。それは、幕末から明治にかけての日本人の立場と何ら変わらないものだ。

 また、この作品で一番重要な事は、当時の一般庶民が中心に描かれている、ということである。厳密にいうと、上流階級に属する人々が中心ではあるけれど、少なくとも貴族階級や偉人ばかりが強調されて描かれがちだった韓国の歴史物の中では新鮮に映る。

 主役のイ・ホチャン役のソン・ガンホは、今回もじっくりと役作りに取り組み、制御の効いた演技を見せている。ヒロイン、ミン・ジョンニム役のキム・ヘスは、清楚な大人のお嬢さまを無難に演じ演技の幅広さを見せてくれている。日本留学経験のあるピッチャー、オ・デヒョン役のキム・ジュヒョクは、きちんとした日本語のセリフをこなしている。ジョンニムとデヒョンの二人は抗日運動に身を投じて行くが、それはあまり劇的ではない。キャッチャー役演じるファン・ジョンミンは地味ではあるが、一番感情移入しやすいキャラだろう。彼はいわば、時代の変わり目に人々の大多数を占めるであろう「灰色の大衆」を代表したキャラクターであり、そして映画の視点は彼に近い立場から語られているからである。

 日本の青年将校野村ヒデオ演じる鈴木一真は、形式的だが明瞭なセリフをハキハキとこなす。案外、彼は時代劇に向いているのかもしれない。その父であり、日本の統監府官僚野村ヒデノリ役の伊武雅刀は、出番もセリフも少ないが、スキンヘッドにドングリ眼で不気味な存在感を漂わせ、周りを威圧する。これら日本人男性の描き方は、兵隊役を含め、「コノヤロー&バカヤロー型」や「暗い&得体が知れない」という従来のステレオ的な造形から決して離れ切れてはいないが、今までのテレビや映画の扱い方から考えると、格段に丁寧に、人間的に描かれていると言えるだろう。ただし、これら登場人物は、一見多彩でも、皆あまり深く掘り下げられて描かれてはいない。どの役柄も激動の時代を象徴する存在なのにもかかわらず、浅い描写で終わってしまっていることは残念でならない。その他のYMCA野球団メンバーも同様で、もっと深く描かれたシーンがあれば、だいぶ作品の印象も変わっただろうが、これはキム・ヒョンソク監督の作家性が許さなかったのかもしれない。

 この『爆烈野球団!』は、コメディというには、あまりにも真面目すぎるし、野球映画というには、あまりにも物足りない。が、多くのテーマを内包した作品であり、人間描写の浅さとコメディとしての物足りなさを考慮しても、日韓(朝)の近代史を描いた作品群の中では、記念碑的存在となる潜在力を秘めた、鑑賞する価値のある映画だといえるだろう。


『トイレ、どこですか?』

 韓国での題名は『トイレ、どこですか?』だが、中国語の題名は『人民公厠』といい、こちらの方が本作品のテーマを明確に表現している。一口でいえば「トイレ」の存在を通して、国や文化を越えた人や社会のコミュニケーションを描いた内容だ。ストーリーは一応あるものの、自由自在な映像構成は物語よりも人間そのものの魅力を描き出す事に重点を置いている。また、作品自体の個性も「ヒューマン・ファンタジー」と形容するのが似合う作品で、具体的なストーリー展開を好む客層には、ちょっと受け入れがたい映画かもしれない。

 韓国=香港合作ゆえ、釜山でのエピソードは結構長い時間を割り当てられているし、韓国の俳優たちも数多く出演しているが、「韓国である事」の重要性は、実際はかなり低い。それよりも、フルーツ・チャン監督は「トイレ→下水→海→世界」という繋がりの中での、隣人として韓国を描いているのではないかと思う。彼は、中国、韓国、香港、アメリカ、インドと、トイレが結ぶ人の縁ともいうべきものを、実に暖かい視線で描いていくのである。人間そのものにカメラを据えて、これだけ愉快で心地好い映画を撮れるフルーツ・チャンの才能は、本当に豊かであると思うし、「韓国との合作だからこうしなさい」的な隘路に陥らないように心がけた部分も高く評価出来る。

 主人公トントンを演じた阿部力は、日本語を一言も喋らないが、映画が終わってみると、彼の柔らかでやさしい物腰が実は日本的な個性だった事がよくわかる。香港のサム・リーは、出番は少ないが、存在感は抜群だ。ただ、デビュー当時の朴訥さは全くなくなり、はっきりプロの役者の顔になっている。彼らに比べると、韓国側の若手俳優たちは素朴過ぎて少し物足りない。この映画が作られた2002年当時では、チャン・ヒョクもチョ・インソンも、まだまだこれから、といった感じである。それよりも、彼ら若手を支える無名のキャストたち、それは中国人であったり、イタリア人であったり、インド人であったりと、年齢も国も様々だが、皆いい表情をしている事が印象的だ。

 この『トイレ、どこですか?』は韓国では注目を集めなかったし、評価も高くはない。おそらくは、日本の映画ファンの方が価値を見出せるに違いない。


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