HOME団体概要support シネマコリア!メルマガ登録サイトマッププライバシー・ポリシーお問合せ



サイト内検索 >> powered by Google

■日本で観る
-上映&放映情報
-日本公開作リスト
-DVDリリース予定
-日本発売DVDリスト
■韓国で観る
-上映情報
-週末興行成績
-韓国で映画鑑賞
■その他
-リンク集
-レビュー&リポート
■データベース
-映画の紹介
-監督などの紹介
-俳優の紹介
-興行成績
-大鐘賞
-青龍賞
-その他の映画賞


Review 『踊るJSA 帰還迷令発動中!?』
『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』
『シルミド/SILMIDO』

Text by カツヲうどん
2006/3/25


『踊るJSA 帰還迷令発動中!?』 ★★★

原題『東海の水と白頭山』

 話のネタは、とても日本では作れそうにない内容だが、映画自体は予想外に楽しめる好編に仕上がっている。

 監督のアン・ジヌは、安易なドタバタ演出や脚本が嫌いなようで、順序立てて登場人物を紹介し物語を進めていく手法は真面目そのもの、ラストのオチはオーソドックス過ぎて今時珍しいくらいだ。監督の前作『オーバー・ザ・レインボー』は、韓国映画というより、最近の日本映画を連想させる作品だったが、この『踊るJSA 帰還迷令発動中!?』も同様だ。韓国の観客には乗りが悪く感じられるだろうが、日本人にとっては逆に違和感は少ないと思う。ただ、スピード感を求められる部分(主人公二人が追われたり、チンピラと闘ったりするシーンなど)の演出が、あまりにも冴えないのは、テクニックというよりも監督自身の個性に起因するように思える。監督のアン・ジヌは、アクション演出が苦手なのかもしれず、そんな性格的な部分が、逆に映画の秩序だった語り口に反映しているのかもしれない。

 物語は、東海(=日本海)で哨戒の任務についていた北朝鮮艦の艦長と部下が、ひょんな事から韓国の東海市海岸に漂流してしまい、四苦八苦で北朝鮮に戻ろうとする話である。原題の『東海(トンヘ)の水と白頭(ペクトゥ)山』は、そのまま主人公である凸凹コンビの名前になっている。艦長チェ・ペクトゥ演じたチョン・ジュノと、ぐーたら兵長リム・トンヘ演じたコン・ヒョンジンの配役は、二人が最近映画に出過ぎという事もあって、一見マンネリ・キャスティングのようにも思えたが、実際は、お互いの個性がキャラクターにうまく合致しており、見事、監督の計算がはまったといえる。特に、のど自慢会場での、二人のトンチンカンぶりは面白い。コン・ヒョンジンの叩き上げの演技力と、チョン・ジュノの不器用な固さが見事に融合しており、見所だ。この「トンヘとペクトゥ」という凸凹コンビは、企画と演出が冴えれば、続編を作って育ててゆけば、結構いけるのではないだろうか。

 映画は単なるお笑いの羅列に終わらず、南北問題もさりげなく描いているところも評価出来る。ちなみにラストだが、あれでよかったと思う。なぜなら、トンヘとペクトゥが目的を果たせたのなら、二人には笑えない運命が待っているだろうからだ。この『踊るJSA 帰還迷令発動中!?』は、韓国式のハチャメチャさやパンチには程遠いところにある地味な映画だが、観て損のない作品である。


『オールド・ボーイ』 ★★★★

 全編が狂気と異常、妄想と現実の混濁に彩られた、特異な様式美に溢れた作品である。物語は、原作にかなり忠実だが、観念的なところも同じなので、単純にスリラーやミステリーを求めて観に行くと、首を傾げて劇場から出てきてしまう事にも、なりかねない内容だ。原作は、ハードボイルドである事にこだわった作品だったが、映画の方は特異な要素(監禁部屋、監禁の動機など)を描くことに力を注いだような内容になっている。だから、映画の場合、ハードボイルドではなく、『ロード・オブ・ザ・リング』のような、ダークファンタジーと表現するほうが似合っているように思える。他の映画でいえば、デイヴィッド・フィンチャー描くところの『ファイト・クラブ』、『ゲーム』を彷彿とさせる作品だが、私が改めて思い描いたのは、原作との類似性よりも、やっぱり「負」の部分を描いた場合の手塚治虫のマンガである。

 前作『復讐者に憐れみを』同様、この『オールド・ボーイ』もまた、冷酷なまでの唯物論的姿勢が貫かれているといえるだろう。理由もわからぬまま、拉致され監禁部屋に15年(原作は10年)も放り込まれ、不可解な人生ゲームに参加させられた元サラリーマン、オ・デスの姿は、我々の現実でも「実は」と思わされる部分でもあり、なんとも嫌な気分にさせられる。

 主人公デスを演じたチェ・ミンシクは、複雑かつエネルギッシュ、そして時にはガラス細工のような熱演を見せてくれる。まさに本作は彼のために用意された一人舞台、彼の独壇場といってもいい。特に、金槌一本片手に、独り殴り込みをかけるシーンは、映画人と演劇人の幸福な融合といってもいいだろう。廊下における乱闘の長廻しは、他の出演者たちの演技、撮影スタッフの努力も含め、長く語り草になりそうだ。ただし、チェ・ミンシクに、そろそろ名脇役への復帰を望むファンは、私だけではないだろう。

 青年事業家ウジン演じるユ・ジテは、迫力はまだまだだが、個性的な顔立ちが冷酷な悪役にピッタリで、今回は彼の新境地になりそうだ。紅一点のミド役を演じたカン・ヘジョンは、『バタフライ』の時とは打って変わって、繊細で、触ると壊れそうな優しさを持つヒロインを演じている。また、原作のイメージに一番近かったのも、彼女だったのではないだろうか。アイドルではない若手女優として、今後も活躍してほしい。

 監督のパク・チャヌクは、現在の韓国映画界において、ポン・ジュノと並び、ディテールにこだわる監督として評価されている。本作『オールド・ボーイ』は、彼の今まで映画の中で、一番凝っている作品だろう。その映像美はあくまでも暗く、陰湿だが、彼の要望に答えた撮影チーム(撮影:チョン・ジョンフン&照明:パク・ヒョヌォン)、美術チーム(プロダクションデザイン:リュ・ソンヒ)、特殊映像チーム(VFX監督:イ・ジョンス)らの努力も讃えたいと思う。

 原作が日本のマンガであっても、韓国の才能と感性が生み出した純然たるオリジナル作品であり、日本の関係者が観たら羨むであろう、映画的贅沢に満ちた一本である。



『親切なクムジャさん』 ★★★(再掲)

 「イ・ヨンエはトイレに行かない」

 これは韓国における女優イ・ヨンエを巡るイメージの一つだ。だから、劇中、彼女がトイレで用を足しているシーンを観た時、私は、それがパク・チャヌク監督の確信犯的ないたずらのように思えて、微笑んでしまった。パク・チャヌク作品は、幾ひねりもされた皮肉なユーモアが随所に散りばめられていて、時には哲学や宗教を交えた考察も加わってくるから、一見すると難解であったり、笑えなかったりもするが、基本的には喜劇であると思う。この『親切なクムジャさん』もまた、パク・チャヌク監督の茶目っ気たっぷりの人間喜劇であると共に、「女優イ・ヨンエ」をテーマにした巧妙なパロディでもある。

 一見、『親切なクムジャさん』はイ・ヨンエのイメージを壊す作品と思われがちだが、実際は、「イ・ヨンエはイ・ヨンエである」という事が大前提になっていて、日本の美空ひばりが、お姫さまを演じようと、魚売りを演じようと「美空ひばりは美空ひばりである」のと同じように、この映画でも「イ・ヨンエはイ・ヨンエ」であって「イ・クムジャ」ではない。もし、他の女優がクムジャを演じていたのなら、それは全く別の存在になっただろう。女優イ・ヨンエとイ・クムジャという架空のキャラクターが、分離しながらも同居しているという二重性が、この映画の大きな狙いの一つだったのではないだろうか。

 また、この映画でも、キリスト教義や社会道徳を逆説的に描くことで、そういった物事の形骸化を皮肉っているが、全編にキリスト教的なものが散りばめられていて、現実社会におけるキリスト教義の相容れない部分が、ほのかに浮かび上がってくるようでもあった。ヒロイン、イ・クムジャは隣人愛に満ちた女性だが、反面、冷酷で実際は何を考えているか、よくわからない不気味な人物でもあって、彼女が情を見せれば見せるほど、その存在の不可解さは増してゆく。彼女は情のためなら平気で人を殺すし、いくらでも他人に迷惑をかけるが、彼女はいたって朗らかで明るく、何の迷いもない。また、自分の境遇に陶酔しているようにも見える。

 唯一、ペク先生への陰険な憎しみと、引き離された娘に対しての情愛ぶりに激しさを見せるが、その感情の高ぶりはまるで病気の発作のようでもあり、決して共感しうるものでもない。ここら辺は、あくまでも第三者との相対関係を何事にも気にかける日本人と、まずは個人の生活を優先する韓国人の、考え方、生活習慣の相違なのかもしれないが、それよりも、研磨され、体系づけられた宗教や道徳思想といったものに条件付けされた人間の行動の怖さ、教義にのっとっていれば、多少の過激行為は天に許されるだろうという恐ろしさがよく出ているようでもあって、他人が作った道徳律に対するペシミズムがよく現れていると思う。

 極悪人ペク先生(チェ・ミンシク)の末路も、象徴的だ。「親切なクムジャ」は、ペクの処分を被害者たちに協議させた上で、彼ら自身に復讐を遂げさせる。しかも、処刑に立ち会うのは、現職の刑事。正義を民主的に実行しようとした結果、反道徳的な秘密処刑が一般人の手で行われてしまうという皮肉。なんという二重三重にひねられた螺旋状のユーモアだろうか。ラストも一応ハッピーエンドに見えるが、そこには善悪を決しない東洋的思想が込められているようで、クムジャと娘の、因果応報に呪われた終わりなき戦いを暗示させる。

 さて、パク・チャヌク監督は、他の映画をよく観ていることでも有名だが、日本のマンガをよく読んでいることでも知られている。今回も、日本のマンガに対する、ちょっとしたオマージュかな、と連想させる部分があった。それは、クムジャが復讐用に手製のピストルを使うところだ。ロングコートを着て、バカでかいピストルを振り回すさまは、リドリー・スコットの『ブレードランナー』も思い起こさせたが、それよりも私は、二十数年前に描かれた日本のマンガ『長男の時代』(画:川崎のぼる/作:小池一夫)における、自作の拳銃を使った復讐のエピソードを連想する。なにゆえ、ムショ仲間に依頼して、信頼性に欠ける不細工なピストルを使うのか、ということについては、現実的には疑問も感じるが、このピストルこそ、映画を代表する象徴の一つでもあり、たいへんインパクトのある小道具になっている。この不格好な、いかにも使いにくいピストルで、韓国を代表するスター俳優たちが惜しげもなく惨殺されてゆく様子は、パク・チャヌク組の同窓会のようで、凄惨というよりも、文化祭で上映される8ミリ作品のようなお遊び感覚一杯だ。

 『親切なクムジャさん』は、韓国版『マルコビッチの穴』ともいうべき作品でもあって、決して一般的映画ではないが、パク・チャヌクとイ・ヨンエに関心がある方にとって、まずは必見といっておこう。


『シルミド/SILMIDO』 ★★★★★

 この映画を一言で語ることは難しい。単純に表現すれば「男の映画」、端的に表現しようとすれば「韓国映画そのもの」という言い方が相応しいように思える。だが、「では韓国映画とはどういう定義のものなのか」と問われれば、正直なところ返答に窮してしまう。しかし、「韓国で作られた映画=韓国映画」という事以外に、この映画には「韓国映画そのもの」としかいいようのないモノが満ちあふれている。それはメロドラマであったり、時事性であったりといった、表面的な事柄だけでは言い表せないこと、もっと根源的かつ微細なモノなのだ。そこにはハリウッド・スタイルや、その他外国映画の様式とは全く異なる、純粋な血脈が、はっきりと感じられるのである。そう、この『シルミド/SILMIDO』は、純然たる遺伝子を持ち合わせた、正統派の韓国映画なのだ。だから、今風の感覚と照らし合わせれば、はっきり言って古くさいし、泥臭い。『シュリ』以降、韓国映画に関心を持ち、韓国のテレビ・ドラマに憧れる層にとっては、逆に違和感を感じるのではないだろうか。だが、その部分こそ、この映画の最大の魅力であり、観る者をひきつける力の源であるともいえるのだ。

 監督のカン・ウソクの正面ガブリ寄りの演出ぶりは猛々しい。その威風堂々たる猛進ぶりは、今の韓国における映画監督たちが「どこまでこれに追従しえるのか?」と思わず考えてしまうくらいの迫力だ。そこには、安易なメロやラブストーリーを拒絶した体育会系の厳しさがある。しかし、冷酷無比、ニヒリズムではなく、困難に立ち向かう人間への讃歌が熱く流れているのだ。それは、まるで100度以上で煮えたぎる、熱いラーメンのようだ。人によっては、火傷や消化不良を起こしかねないだろう。観る側に、それなりに心の準備を要求する、熱く燃えた作品なのである。映画はMTV風、CF風の表現は一切使わず、あくまでも基本的な技法の積重ねで描かれて行く。アクションも、VFXも、必要以上に地味であり、そこからも、カン・ウソク組の狙いが、ハリウッド式アクションとは別の部分にあることは明白だろう。

 物語は、1968年に実際に起こった、北朝鮮軍による青瓦台(大統領府)襲撃事件から幕を開ける。この事件は、日本ではあまり具体的に紹介されることが少ない出来事だけに、朝鮮半島の現代史に多少なりとも関心がある方なら、一挙に映画に引き込まれるだろう。最初はバラバラだったアウトローたちが、厳しい訓練を経て、目的に向かって結束してゆく様子は実に感動的だ。だから、彼らが生きる目標を奪われ、反乱、自決へと突き進まざるを得ない様子は、あまりにも悲しい。

 脚本と編集は、膨大な熱量を上映尺内に収める事にかなり苦労したようで、話のバランスが良くないし、各キャラクターの描写も決して十分とはいえない。劇的な物語に、多様な個性の登場人物を多数登場させ、力ある俳優たちを配した部分は、かえって映画にとってマイナスだったようにも思える。しかし、それでも、この映画が醸し出す人間ドラマは魅力的であり、映画は観るべき価値のある完成度に達しているのだ。

 『シルミド/SILMIDO』では、極めて豪華な配役がなされている。だが、贅沢なキャスティングによる群像劇は、俳優各人に部品に徹する役柄を強く求めたためか、一部ファンにとっては、かなり不満を感じるであろう構成になっている。特にソル・ギョングやチョン・ジェヨンのファンの方にとっては、そうであると思う。彼らの役は、部隊反乱後の真の主役ともいうべき役割であったが、その後半部分は、かなり短く決して映画の中心ではないからだ。これは、製作側としても、うまく御し難かった部分なのだろう。なぜなら、この主演クラスの二人を、もっと話の中心に据えるとなれば、前後二部構成となり、映画は確実に長くなる。これは興行においては大きなマイナスであり、その事をあれこれいうよりも、彼らのシーンが多数残されているのなら、ディレクターズ版での復活を期待したい。

 イム・ウォニは予想内の役回りを見せてくれる。その三枚目は、最もカン・ウソク作品らしい役回りだが、三枚目ゆえ悲しい結末を迎えてしまうし、カン・ソンジンも笑わせ役ではない。配役陣の中で最高に輝いたのは、間違いなくチェ准尉を演じたアン・ソンギだ。彼は、激動の時代を生き抜いて来た深い悲しみ、職業軍人としての生真面目さ、そして父親のような優しさを秘めながら、隊長として絶えず孤独でいなければならない辛さを、あまりにも見事に演じており、素晴らしい。チェ准尉の右腕であり、一種の緊張関係にもあるチョ教官を演じたホ・ジュノも、光っている。彼は一見マシーンのようであり、無表情だが、それゆえ、この映画のラストシーンは強く胸を打つ。その姿は、まるで子供を奪われる母親の姿のようだ。

 時代性を考慮したドラマは、韓国の年配層には、映画の演出スタイルとあいまって受け入れやすいだろうし、若い男性にとっては、軍隊の人間関係を正面から描いているゆえ、堪えられないだろう。女性客にとっては、男たちの熱い絆に、十分以上の魅力を感じるだろう。韓国の劇場で観ていた時、興味深かったのは、そういった男女の社会的経験における温度差が、観客の反応にはっきり出ていた点である。男性は概して、笑うべきところでも、現実的過ぎて笑えない部分があったのに対して、女性は、笑うべきシーンでは率直に笑っていたのである。これは、兵役義務がある韓国における男女の相違をよく表しているようで、映画とは別な意味で面白い。

 この『シルミド/SILMIDO』は、韓国特有の時事性がテーマゆえ、外国人にとっては難しい要素もあるものの、その熱い人間ドラマは、多くの人の心をとらえるだろう。韓国に関心のない方にとっても、かつてのアメリカ映画や日本映画が好きな方なら、きっと気に入ってもらえる魅力を持った作品である。


Copyright © 1998- Cinema Korea, All rights reserved.