Review 『台風太陽〜君がいた夏〜』『南極日誌』 『私は私を破壊する権利がある』
Text by カツヲうどん
2005/9/18
『台風太陽〜君がいた夏〜』 ★★★★
監督のチョン・ジェウンは、前作『子猫をお願い』とは180度、描く対象を変えて、本作では若い男性たちを主人公にすえたが、その輝きは全く失われておらず、女性監督の感性で描きあげた男の子たちの姿は新鮮で、今までの韓国映画にはなかった、鮮やかな青春群像に仕上がっている。
まず、オープニングのアニメーションが抜群にいい。この出だしだけでも、チョン・ジェウン監督の映像センスの良さが光っているし、全編を通して移動撮影と編集のコンビネーションは素晴らしい脈動感を生み出しており、構図における縦横の組合せと対立にこだわったグラフィック・デザイン感覚と合わせて、かなり独特な映像に仕上がっている。特に、映画の終わり、インライン・スケートから遠ざかった主人公ソヨと、地下鉄の保管庫に放置されたスケート・シューズの鼓動がシンクロするシーンは、まさにチョン・ジェウン監督ならでは、といった、大胆なシーンであり、映画の複合したテーマをよく象徴していて、大変感動的だった。
この映画で取り上げられたインライン・スケートというスポーツは、まだまだ世間で認知されているとは言い難いマイナーなものだ。かつてのサーフィンやスケートボードのように、日本でも韓国でも「不良の遊び」といったイメージが、まだ強いのかもしれない。劇中、インライン・スケートに取り組むモギたちも、どちらかといえば、反社会的、アナーキーな生き方をしているし、それゆえ一般社会との軋轢も引き起こすが、彼らは、彼らなりに求道的で、生真面目であり、インライン・スケートというものに、自身の生き方や、社会的メッセージを込めているようにも見え、チョン・ジェウン監督は決して否定的には描いていない。「堅気」でもなく、「犯罪者」でもなく、「ドロップアウト」と片付けるには、エネルギーに満ち、強い意思を持った彼らの姿は、今までの韓国映画では、あえて無視されていた社会階級のようでもあり、非常に斬新だ。
出演者たちは、皆ほぼ無名だが、人物設定に合った悪くないキャスティングであり、チョン・ジェウン監督としては「物語の為のキャラクター、物語の為の登場人物」といった作為的なにおいのする要素を、なるべく排したかったのだろう。
高校生ソヨ(チョン・ジョンミョン)のボーッとして、優柔不断なところは、パターンにはまりがちな他の韓国映画とは異なり、とても自然で共感できるキャラクターだし、兄貴的な存在となるモギ(キム・ガンウ)やグループ・リーダーのカッパ(イ・チョニ)との関係は、自由で自発的だ。それはよくある韓国映画やドラマに描かれる保護者・被保護者(「ヒョン/兄貴」だとか「ソンベ/先輩」だとかいう関係)とはだいぶ趣を異にしており、より時代を反映した人間関係になっている。反抗的な性格のチェン(オン・ジュワン)は、かつての怒れる若者像を、今に代弁したキャラクターにも思える。
彼らとは逆に、女性のキャラクターは驚くほど生彩がなく、『子猫をお願い』のファンにとってはがっかりすることかもしれないが、この作品で描かれたソヨたち「男の子」とは、実質的に性別の呪縛を超えたキャラクター、実は「女の子」でもあって、そうしたジェンダーフリーな描き方が逆に「彼らの世代」といったものを、きちんと浮かび上がらせているのではないだろうか。また、「それぞれの世代」というものを各キャラクターに変換することで、「新世代」に対立する「旧世代」も描いており、現代の韓国が昔のようにステレオ・タイプでは描けない時代に突入している様子がとてもよく出ている。事業に失敗して逃亡するソヨの両親や、公共勤務についている若者たち、チェンと喧嘩をする広告業界の連中などは、対立する「旧世代」の象徴だといえるだろう。
この映画は『子猫をお願い』のように、社会的格差から来る問題を明確には描いてはいない。物語も、大きな起承転結より、群像個々のドラマの集合体であることを重視した構造になっており、登場人物の多さ、不明瞭さも含め、話自体は散漫だ。しかし、そういった混沌さにこそ、結果論であっても、チョン・ジェウン監督が無意識に望んでいたかのような「今」という事象が見えてくる気もする。ヒロインのハンジュ(チョ・イジン)はいつもビデオ・カメラを廻し続け、家では映像編集ばかりやっている、何を考えているのか、さっぱりわからない女の子だが、彼女こそ、監督自身が投影されたキャラクターにも見える。そう解釈すると「テーマに対峙する監督の姿」という図式が、映画の中でキャラクターとして具体的に提示されていることになる。
残念ながら『台風太陽〜君がいた夏〜』の韓国における劇場興行は、全くの失敗だった。しかし、それは映画の内容が突飛なものであったということではなく、韓国の市場が持つ固有の問題に起因する要素が大きかったと思う。保守的な観客(それが若い男女であっても)からすれば、登場人物たちの生き方はだらしなく打算的に見えるだろうし、インライン・スケートを前面に出したことは堅実な映画ファンを遠ざけたのかもしれない。キャスティングされた俳優たちが無名であったことも世間の関心を引けなかった大きな原因だろう。しかし、海外の人々、特に日本の人々が、監督のチョン・ジェウンに対して更に関心を持ち、協力の手を差しのべるきっかけになってほしい作品であると共に、ほとばしるような瑞々しさが魅力的な、2005年度の韓国映画において、最も記憶に留めるべき一本であることは、間違いない。
彼女の次回作はいつ、観ることが出来るのだろうか?
『南極日誌』 ★★
この『南極日誌』は、韓国映画の中でも特異な作品として、記録に留められそうな作品だ。一応ミステリー作品として紹介されているが、はっきりいって、ホラー映画であり、精神世界を描いたニューエイジ系の物語、日本映画でいえば『幻の湖』(監督:橋本忍)に例えられそうな、ここ数年の韓国映画の中で『HEAVEN ヘブン』『アー・ユー・レディ?』に並ぶ、カルトな珍作の一本といえるだろう。
また、舞台こそ南極の奥地という設定だが、この映画で描かれる殺伐とした氷原の風景は、韓国映画でよく見かける風景イメージが重なる部分がたくさんあって、そこには韓国人の心に共通する、独特の美意識、原風景といったものが込められているようにも受け取れた。難産の末、やっと公開できた理由は色々あるのだろうけども、映画を観ていただければ大変な労作であることだけは、きっと伝わって来ると思う。
この作品を観る前、私は南極に関するノンフィクションを二冊読んだ。『面白南極料理人』(西村淳著)と『不肖・宮嶋南極観測隊ニ同行ス』(宮嶋茂樹&勝谷誠彦)である。この本は姉妹関係になっており、表向きはかなり笑える内容なのだが、南極という場所が、想像を越える極限の場所である、ということがかなり克明に描かれており、そこは、死と生、狂気と正気が混沌と混じりあった、美しくも恐ろしい場所だということ。がよくわかるルポになっている。
『南極日誌』で描かれたテーマも、極限の場所から生まれ出た狂気が大きなテーマになっており、そこには輪廻転生といった、韓国ホラーお得意のネタも込められていたりするわけだが、上記二冊で描かれたどぎついユーモアも、この映画で描こうとした恐怖も、実はまったく同じものなのではないだろうか?
出演の俳優たちは、ソン・ガンホを筆頭に、本来だったらかなり強力なキャスティングがなされているが、製作があらゆる意味で苛酷だったためか、全員疲れ切った様子で、エネルギーがまったく感じられない。こんなに影の薄いソン・ガンホや、ユ・ジテは初めて見たし、2004年の『ファミリー』で、素晴らしい存在感と演技を見せた期待の星パク・ヒスンも、冴えないまま。紅一点のカン・ヘジョンも、本当にホントの特別出演、これだったら、出ないほうがよかったのに、という感じだ。
この映画で予想外の失敗だったことは、南極(といっても撮影はニュージーランド)という場所は変化が乏しい風景ゆえ、魅力的な画を作れなかったことだろう。思い出してみれば、日本の『復活の日』も『南極物語』も、とにかく単調にならないよう、始終、気を配って画作りをしていたような記憶がある。また、徒歩による未到達点征服というドラマも、「移動→キャンプ→移動→キャンプ、ときどき緊急待避」の繰り返しだから、あまり見せ場もつくれないし、南極の奥地だからアザラシもペンギンもいないわけで、劇的な起伏をつけることが難しい。ハワード・ホークスやジョン・カーペンターの『遊星よりの物体X』や『遊星からの物体X』が、密室ドラマに徹していたことは、ちゃんとした理由があったということなのだろう。
監督のイム・ピルソンは、短編映画からこの大作に抜擢された(シンデレラ・ボーイになるかもしれない)人物だが、本作はかなり荷が重かっただろう。しかし、決してセンスが悪いわけではなく、大作を最後までまとめあげたことは認めるべきだろうし、実際、この企画が一時間程度の中編であれば、かなり出来の良いファンタジー&ホラーともいうべき好編が出来ていたのではないかと思ったりした。ネタが長編向けではなかったのではなかろうか。
なお、音楽を担当した川井憲二と日本のスタッフは、優れた仕事をしており、作品をかなり救っている。意味のあるコラボレーションとは、こういう仕事のことをいうのだろう。ジャンルもの(SFやファンタジー)の分野では、韓国はまだまだであることを、図らずも証明した映画になってしまったが、そのチャレンジ精神だけは高く評価したいし、見習うべきところでもある。
『私は私を破壊する権利がある』 ★
この『私は私を破壊する権利がある』は退屈な映画だ。製作年度が2003年になっていることからも、しばらくお蔵入りしていたものが、最近の方針によって陽の目を見たのだろう。「前衛的」な作風は、今の韓国でも既に「古い前衛的」さだろうし、日本人からすれば、1970年代辺りにATGで製作された類いの作品に大変似ており、鑑賞中、子供時代に戻ったような錯覚に陥ったくらいだ。
だが、この映画は何か観る者を引きつける不思議な力も持っている。映画は、廃墟で行われた前衛パフォーマンスの上演から幕を上げる。部屋の真ん中には、首をくくられたような白い布が吊り上がり、中から血まみれの前衛芸術家マラ(チュ・サンミ)が悶えながら現れる。彼女の姿は、以後この物語に登場する人々の願望を、そしてパフォーマンスに見入る観客たちは、作家S(チョン・ポソク)と映画を観てゆくことになる我々観客を象徴しているかのようだ。やがて場面は変わり、映像作家サンヒョン(チャン・ヒョンソン)と、情緒不安定な女、セヨン(ス・ア)、タクシードライバー、ドンシク(キム・ヨンミン)の複雑な愛憎劇が始まってゆく。
出演者が地味だが、実力者が揃っており、それなりに魅力はある。キム・ギドク作品の常連キム・ヨンミンのオーラは強引な磁力を持っているし、出番は少ないが、チュ・サンミは力強い。チャン・ヒョンソンにしても、ス・アにしても、メジャーとは程遠いからこそ、役柄に大きな力を与えていて、職業人俳優たちのアンサンブルの魅力を堪能する映画にもなっている。
物語は観念的で、構成も複雑、大変分かりづらいが、この映画はストーリーの善し悪しを説く類いの映画ではないだろう。今さらながらの古い映画ではあるが、奇妙な力強さにも満ちている。
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