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Review 『オールド・ボーイ』
『TUBE/チューブ』 『春夏秋冬そして春』

鄭美恵(Dalnara)
2004/11/22受領


『オールド・ボーイ』 〜復讐のワルツが奏でるのは、善悪の彼岸

 妻子持ちの平凡な会社員オ・デス(チェ・ミンシク)は、ある日突然誘拐され、15年間監禁されることになる。なぜ監禁されたのか? 理由もわからないまま今度は突然解放される。自分を監禁した者への復讐を誓うデスは、偶然出会ったミド(カン・ヘジョン)と一緒に監禁した者を捜しはじめる。そこへ謎の男ウジン(ユ・ジテ)が現れ、5日間で監禁の理由を解き明かせ、と持ちかける。デスは監禁の理由を探し当てることが出来るのだろうか・・・ パク・チャヌク監督のカンヌ・グランプリ受賞作品。



「獣みたいな人間でも生きる権利はあるのではないか?」

 映画の前半で、この言葉が意図するのは監禁された怒りの吐露と、もしかしたら自分に監禁されるだけの理由があったのではないか、という思い出せない自分の罪に対して怯える気持ち。そして、復讐に燃える自分のモンスター(怪物)性を意識する潜在意識の意味がこめられているようだ。

 しかし映画の最後では同じ言葉の意味も異なってくる。獣・モンスターの意味が、怒りと復讐に我を忘れた怪物、という意味ではなく、人間の人類の倫理を逸脱してしまった、という意味になってくる。

 映画は復讐を描きながら愛に挑戦している。私たちの知っている愛は、決して人間の倫理を踏み外さないもの。モンスター性は社会の規範と心の深淵に押し込め、獣みたいな人間になってまで愛を貫こうとはしないはず。人間社会の制限の中で始まる愛が、倫理的で相対的なものだとしたら、ウジンが望んだのは実姉への愛で、原始的な意味で究極の愛、絶対的な愛だった。復讐のワルツはそこから始まった。

 監禁された理由を知らないデスははじめは復讐のモンスターだった。監禁した者の獲得と探求のための復讐の物語が始まる。一方ウジンの復讐の始まりは愛する者に対する後悔と喪失で始まった。対立する2人の復讐がどこで交差するのか。人道を踏み外したウジンは愛のモンスターとして復讐を始める。その復讐は、復讐のモンスターだったデスを同じ愛のモンスターに引き摺り下ろすことだった。ウジンはデスにも愛の挑戦をさせたかったのではないだろうか。

「砂粒であれ岩の塊であれ水に沈むのは同じだ」

 姉を愛そうが、娘を愛そうが、愛のモンスターであることに変わりはない。デスがウジンの復讐に気づいた時、愛することの畏れと滅びる愛を知った。社会では許されないウジンの愛、恐るべき愛、滅びるべき愛に自分も足を踏み入れたことを知り、もはやウジンを否定できなくなる。そう、砂はウジンで自分は岩なのだ。滅びる愛に身を投げたのはいっしょなのだ、とデスは思い至る。ウジンはさらにたたみかける。ウジンの復讐はまだ続いている。自分は知っていて、姉を姉として愛した。お前は知っていて愛せるか、と。

 人間の倫理を飛び越え、娘を愛して愛のモンスターになってしまったデスは、こうしてウジンの愛と立場を理解する側に追い込まれる。ウジンの復讐によって、肉親を愛する、愛してしまうという世界を知ることになり価値観が変わる。デスもウジンと同じ善悪の彼岸(倫理を超えたところ)の住人になってしまうのだ。その状況でウジンはデスに娘を愛し続けられるか、と問いかける。ここでデスは父親の顔に戻って身を挺して娘を守ろうとする。ウジンも愛する姉を守りたかった。愛する者を守れなかった後悔と喪失感が復讐の原動力だったウジンにとって、自己犠牲的なデスの行為は、自分に不可能だった強い愛情表現なだけに眩しかったに違いない。ウジンの弱みである。

 そして、「知っていて」愛することはできない、と最後に何もかも知らなかったことにしたいと望むデスは、「知っていて」愛した、と堂々と話すウジンがやはり眩しかったのだと思う。デスの、父親の弱さである。

 愛のモンスター、それぞれが秘めた弱さが悲しみとなって心に残る。この復讐に勝敗はなかった。善悪の彼岸、滅びる愛の世界と向き合うのは辛いがニュージーランドで撮影したという雪山に残る足跡のように、ひっそりと心に深く残る、そんな情趣の映画だ。

 最後に、デスが監禁された部屋の壁紙の模様は日本の麻の葉文様に似ている。丈夫で真っ直ぐ伸びる麻にあやかって、順調な成長を意味する文様でもあり、魔よけの意味もあるという。娘の成長、復讐が熟成する時間の進行なども暗示させるし、魔よけとなってデスたちの行く末を守ってくれそうな気もするし、秘められた意味を監督に聞いてみたい気がする。


公開時に来日したユ・ジテとチェ・ミンシク


『TUBE/チューブ』 〜21世紀の、またはお父さんのためのリスク・マネジメント

 ソウルの地下鉄がある日テロリストに乗っ取られる。犯人は国に家族を殺され復讐に燃える元工作員のカン・ギテク(パク・サンミン)。一方、恋人をギテクに殺されたチャン刑事(キム・ソックン)は、彼を慕うスリ、インギョン(ペ・ドゥナ)の連絡を受け、ギテクの乗っ取った地下鉄に乗り込んで犯人と対決しようとする。ギテクのしかけた爆弾で地下鉄は爆発してしまうのか・・・ 原子力発電所に向かって暴走を続ける地下鉄の中、テロリストと刑事の戦いが始まる。

 ソウルという人口1,300万人都市で、見知らぬ他人が地下鉄に乗り合わせテロに遭遇する。箱舟のような運命共同体にもなり得る地下鉄。それぞれの人生、家族、思いを乗せて走っていく身近な交通手段が事件の場となるという設定に加えて、橋やビルの崩落に言及するセリフがソウルが経験した事故を思い出させてリアリティを増す。また、公開直前の2003年2月に大邱で地下鉄放火事件が発生したために劇場公開が延期されたといういきさつがある。映画のテーマが実際の事件に似ていたためだ。その点で、映画は地下鉄の管理システム、リスク・マネジメントに注意を喚起したとも言える。

 映画の中で立場と保身、人命救助と危機管理がせめぎあうシーンは災害の続く地上で日本では他人事でなく身にしみる。単なるアクション映画としてではなく、リスク・マネジメントを描いた映画としても観てほしいと思う。社会人として一雇用者として、この状況で自分ならどう判断するか、どの方法がベストなのか、真のリスク・マネジメントとはどういうものなのかを考えさせられるからだ。

 保身に走るのか、人命を尊重するのか、いざという時に正しく判断できるのはどういう経験を持つ人か、どんな考え方の人なのか見えてくるものがある。

 そんなリスク・マネジメントの場でカッコよかったのは、もちろん主役のキム・ソックンとペ・ドゥナご両人だが、他にもカッコよかった人物がいる。脇役のスリ、クォン・オジュンが、映画『春の日のクマは好きですか』の上品なイメージとは雰囲気を変えて登場。彼も奮闘するのだ。

 ドラマ『ナイスガイ』で刑事役だったソン・ビョンホが、地下鉄統制室長として人命救助のために思いをめぐらす姿はつくづく頼もしい。ドラマ『オールイン』でユーモラスなおじさん役を演じたイム・ヒョンシクは捜査一班班長としてチャン刑事を見守る役どころ。その捜査一班班長が「ヤツは洪吉童(ホン・ギルトン)だから不死身だ!」と言うのには笑ってしまった。キム・ソックンのドラマ・デビュー作は「洪吉童」だったのだ。

 チャン刑事を慕うインギョン、この二人が邂逅するシーンは他のシーンと音楽のムードやスピード感が異なり、サスペンス・アクションという大きな枠の中でのラブストーリーを印象付けている。

 また、ストーリーの大きな流れの中での小道具の使い方、特に口に入れるものそれぞれに込められたエピソードが記憶に残る。チャン刑事のタバコ、インギョンの飴、スリ(クォン・オジュン)のガム、それぞれが小さな物語を持ち、ディテールにも凝った作品と言える。

 大ヒット作『シュリ』で脚色と助監督を務めたぺク・ウナクの初監督作品は、スピード感とディテールがバランスよく描かれ、登場人物の市民それぞれの顔が後になっても思い出せるような、何か感情移入してしまう映画だ。


『春夏秋冬そして春』 〜湖の上の掌編

 四季に重ねて年を重ねる僧の人生と東洋的思想が淡々と描かれている映画。色彩は湖の上の自然を穏やかに映し出して、『悪い男』の極彩色とは一転した趣。また、人間の心の痛みと悲しみを描き続けたキム・ギドク監督は、「・・・そして春」という終章に再生と回帰への思いを映しこんでいるようだ。

春−幼い僧(キム・ジョンホ)は春に生命を奪う業を知る。そんな僧を幼い頃から青年になるまで見守っているのは老僧(オ・ヨンス)。
夏−少年僧(ソ・ジェギョン)は恋に落ちる。
秋−青年僧(キム・ヨンミン)は殺生の衝動に駆られる。
冬−壮年僧(キム・ギドク)は心を空っぽにする。
そしてまた春が来る。湖の上に、この僧にいったいどんな春がめぐってくるのだろうか・・・

 壮年僧役で監督が出演しているのも映画の見どころのひとつである。出演を依頼しようとしていた俳優のスケジュールが合わず、監督が出演することになったとか。

 脚本なし、あらすじだけで製作を始めたこの映画は 一つの季節の撮影に約5日間かけ、全部で23日間撮影したという。実際は春夏秋冬春という季節の移り変わりを順番通りに撮影するため、約1年間撮影に時間をかけたそうだ。

 撮影中に日韓の文化の相似性に思い至り、京都にある弥勒菩薩半跏思惟像と似た韓国の仏像を映画の中に登場させている。また、寺の前の小さな門には奈良の寺にある四天王を描かせたという。

 撮影地は慶尚北道青松郡、周王山国立公園の山中にある注山池。この美しい国立公園に浮かぶ寺のセットを作るために、キム監督は政府や自然保護団体と約8ヶ月交渉を続け、撮影後はセットを撤去する約束で、水に浮かぶ木造の寺を建造したといういきさつがある。

 自分の年齢を人生のどのステージ、どの季節にあるか、映画と重ね合わせて来し方を振り返り、最後には心の平安の意味を考える。あるいは人生の苦難や心の痛みを乗り越えて得ることができる魂の再生(めぐる季節、春)と浄化(湖水)に思いをめぐらせ、感じ入ることができる作品だ。


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