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『シークレット・サンシャイン』 イ・チャンドン監督記者会見

Reported by 鄭美恵(Dalnara)
2008/6/18


 夫の故郷、慶尚南道の密陽(ミリャン)にやって来たシネ(チョン・ドヨン)親子はおせっかいな独身のジョンチャン(ソン・ガンホ)と出会う。ピアノ教室を開いて新生活の基盤を築こうとするシネを何かと気遣うジョンチャン。そんな中、思いもよらない事件が起こる。

 このほど公開された『シークレット・サンシャイン』のイ・チャンドン監督が4月に来日し記者会見を行った。記者との質疑応答をお伝えする。

2008年4月12日
通訳:根本理恵

── 日本は宗教とは無縁の社会です。映画を通して生きることの意味をどのようにとらえればよいでしょうか。

 私は日本人は宗教的な人間だと思います。宗教が日常生活に入り込んでいるからです。神社や祭壇で足を止めてお祈りしている人を見かけて、宗教が大きなもの、特別なものという意識ではなくまた、宗教は大層なものと受け止めているのではなく、精神や文化の一部と受け止めていることに意味があると思います。シネは宗教の中に明確な答えを求めようとしていますが、ジョンチャンは教会に行かないとさびしい気がする、と無意味な答えをしていて宗教に求めるものはそんな風にふたつあると思います。宗教を見た場合ふたつとも大事だと思います。

── 韓国国内であった、映画が宗教を批判しているという反響についてはどう思われますか?

 宗教批判ともとれますがある意味宗教の重要さ必要性も説いています。宗教を批判していると言う人もいますが、クリスチャンでも映画を好意的に観てくれて、キリスト教をより深く理解させてくれたという牧師もいましたし、映画について本を書いた牧師もいて賛否両方の見方がありました。

── 少女が髪を切ってくれたシーンについて、それがシネの赦しだったのかどうかおしえてください。

 赦しかどうかはわからないです。赦しを意味していたと言えるかも知れないし、鏡を通して少女の顔を見ているシネの表情からは憐れみが、同族相憐れむ憐憫も伝わってきます。こういう状況も神が作ったのではないかと思ってシネは心の中では抵抗していたと思います。赦しは「許しました」とすんなり言えるものでなく、本当の赦しでなくても心の中で哀れみや痛みを感じただけで赦しにもなるのです。観客はシネと少女の間に流れていた微妙な感情をただ感じるだけでいいと思います。

── 原作『虫の物語』が映画になるまでについてお聞かせください。

 原作を知ったのは映画を作ることになるとは思いもよらなかった時、1980年代半ばのことです。その後しばらく忘れていましたが『オアシス』を撮った後、その作品が急に私に語りかけてきたのです。おそらく、以前読んだ時に私の心の中に入り込んでいて、その後種のように芽を出していったのではないかと思います。構想し始めたころに文化観光部長官になったのでしばらくブランクがありました。構想を再開したのは2004年末ころ、実際にシナリオを書き始めたのは2005年後半くらいから2006年春まででした。実際に書いていた期間は1ヶ月くらいです。私はいつも頭の中で自ら物語が湧き上がるのを待つのです。

── どんな人たちに観てもらいたい映画でしょうか。

 最近の映画の中には観る人、観客を限定してしまっている映画があるように思います。作家で観る映画、芸術映画、映画祭で見られる映画などです。理解できる人だけが理解するものになってきていて、枠が小さくなってその枠で分かり合える人だけの内輪の映画になってしまっています。全体的に見ると、映画は両極化していると思います。ごく一部の限られた人たちだけが理解できる映画と、娯楽映画として消費される映画との二極化が起こっています。私は、どんな形であれ映画は観客と向き合う、意思の接近、意思の疎通をはかるものだと思っています。観た時にたとえ違和感を感じたとしても、それが心の交流のスタートなのです。だから多少違和感を感じたとしても、映画館に足を運んですべての人に観て欲しいと思っています。

── チョン・ドヨン、ソン・ガンホ起用の理由についてお聞かせください。

 (役者を選ぶ時)演技力は問わないです。演技のスタイル、どういう演技を見せてくれるのか、などはまったく問いません。彼らに俳優として会うのではなく、人間として会い、人間としてどういう魅力があるのかを感じるようにしています。会った時に俳優その人に魅かれるかどうかというのが重要な点になってきます。人間としての彼らに会ったときに魅かれるものがあれば、それがきっと観客に伝わると思うからです。以前の出演作は全く考慮していません。チョン・ドヨンさんの場合やはり過去の出演作の演技はまったく考慮しないで、一個人として人間として彼女を見た時に「まさにシネだ」と思ったので起用しました。ソン・ガンホの役は、作品の舞台となる密陽(ミリャン)が慶尚南道にある町なので、その地方の方言を話す人が必要でした。慶尚道地方特有のカラーとニュアンスを出すためにどうしても慶尚道出身の俳優でなければなりませんでした。ソン・ガンホの演じたジョンチャンという人物は、もしかしたらシネより難しい役だったかもしれません。シネは前面に出て映画を引っ張っていく役ですが、ジョンチャンは常にシネの2、3歩後ろにいます。時にはフォーカスが合っていないシーンもあります。その上で、映画全体を通して見たら2人がきちんとバランスがとれていないといけなかったので、目に見えない存在感が求められました。すべての条件を満たす俳優はソン・ガンホさんしかいませんでした。チョン・ドヨンさんがまさにシネだと思ったのと同じように、ソン・ガンホさんもジョンチャンそのものだったと思います。

── チョン・ドヨンについてどう思われますか。

 人間として見た場合強い人に見えると思いますが、実は内面は弱くてもろくて傷つきやすい気がします。その点がシネと似ている、と本人に言ってみたら「そんなはずはない」と驚いていました。

── 演出方法についておしえてください。

 俳優に求めるのは演技をしないこと、でした。その人物を受け止めてその人物の心を感じてその人物の感情通りに動くことだけを求めました。俳優がキャラクターになりきってしまったなら、それ以上はどんなことも注文しません。なぜなら俳優がその人物になりきっていたら、その人物の感情どおりに動いて言葉を発しているわけですから、それについては評価できないと思うのです。でも私がこういうことを言うと俳優が本当につらくなって苦労してしまうので「今の演技は上手だった」、「下手だった」と言うこともありません。だから俳優にとっては説明してくれない、と受け取られているかもしれません。「こういう状況ではこういう感情だ」とは一切説明せずに、とにかく俳優自らが感じてくれることを願っています。こちらで意味を考えて説明すると、すべて外から与えられたものになってしまう気がします。説明することはタブーとさえ考えています。「今の人生にはこんな意味があって、私はこう行動する」と考えて生きている人がいないのと同じで、だからできるだけ説明はしません。説明することは演技の邪魔になるとすら考えています。話し合う時にも、演出に関してや役についての話はほとんどしません。水がなにかにしみ込んでいくように、俳優には自然に役になりきってほしいと思っています。だから、具体的に「ああしなさい。こうしなさい」という指示はせず、その人物になりきってもらうためには関係のない話をしたほうが効果的だと思っています。

── 平凡で俗っぽい男性、ジョンチャンは韓国によくいるタイプの男性と思いました。このキャラクター設定は映画のテーマに通じるのでしょうか。

 この映画を観た人たちにまず受け入れてほしいと思っているのは、私たちが生きているこの世に希望や救い、人生の意味があるとしたら、それは近くにある、ということです。今私たちが両足をつけて立っているこの地上にしか希望や救いや生きる意味はないと思ってほしいです。私たちが今いる場所は美しくもなく、素敵な場所でもなく、ちょっとみすぼらしく見えたり、つまらないちっぽけな場所に見えるかもしれません。しかし、自分が今ここにいるから、この場所にしか人生の価値や意味はないのだ、ということを伝えたかったので、ジョンチャンというキャラクターを作りました。ジョンチャンは本当にまわりにいそうな人物ですし、垢抜けていない、浅はかで世俗的な人間です。が、それはある意味で現実です。現実を人格化したらまさにジョンチャンのような人物になるのではないかと思います。韓国によくいるような人です。特に韓国の地方都市に行くとジョンチャンのような人はよくいます。


取材後記

 韓国のドラマ、映画には時に教会や聖堂が登場し、神との対話が生活や人生、そしてドラマや映画にも深みと奥行きを与えていると感じていた。人間同士の水平な関係だけでなく、そこに神という形而上学的な、垂直な関係が加わり、他者とのかかわりが重層化、立体化している。

 この作品では傷ついた魂の主人公が真っ向神や宗教に対してなぜ?と問い続け、もがき、生きる意味と地上の価値を探す旅程が描かれている。ジョンチャンという人物について監督に質問したのは、韓国で本当によく見かける「おじさん」のようなジョンチャンのキャラクター設定がとても興味深かったから。ジョンチャンは生き生きした人物でもないし、あまりに世俗的即ち地上的なのだが、リアリスティックすぎてなんだか地に足が着いている強さがあった。儒教でもなくキリスト教でもない、そんな平凡な俗っぽさもひとつの道で、シネを地上につなぎとめる重しにもなり、たしかな存在なのだ、と気づかされた。




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