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Review 『覆面ダルホ〜演歌の花道〜』『離れの選手とお母さん』『彷徨の日々』『偉大なる遺産』

Text by カツヲうどん
2008/2/10


『覆面ダルホ〜演歌の花道〜』

2007年執筆原稿

 この映画は、日本の『シャ乱Qの演歌の花道』を韓国で再映画化した作品。最近、日本発の原作物ばかり増殖中の韓国映画・テレビ界ですが、そこには韓国的な本音と建前ぶりが良く出ていて、苦笑してしまう人も多いことでしょう(当然、嫌韓意識を募らせる人も…)。それは「韓流」という言葉が、いかにキャンペーン用の造語であったことかがわかってしまう現実でもありますが、だからといって端からこうした日本発のネタを韓国化することを否定してしまうのも、かなりおかしな話。なぜなら、今回の『覆面ダルホ〜演歌の花道〜』はかなり出来がよく、公開のタイミングやキャストの面でもっと恵まれていたならば記録的なヒットをしていただろう感のある、登場が遅すぎた快作であり、リメイクとして十分価値のある作品になっているからです。

 ちなみに『覆面ダルホ〜演歌の花道〜』の「覆面ダルホ」はオリジナルの「覆面太郎」をもじったもの。チャ・テヒョン演じるキャラの芸名「ポン・ピル」も、彼の本名ポン・ダルホの「ポン」と、ポンチャク(韓国伝統の打ち込み系テクノ風演歌)の「ポン」+Feelingの「フィール」というダジャレになっています。

 本作のプロデューサーを務めたイ・ギョンギュはもともとコメディアンとして実績がある人物。それゆえ本作のキャスティングが難航したというエピソードは、韓国映画界の欠点を象徴する話だったのかもしれませんが、そんな苦労の甲斐もあってか、本作はベタベタなギャグで濃く迫る内容ではなく、判りやすいギャグと、しっかりした人間ドラマで、中々の秀作といっていい出来になっています。

 ポン・ピル演じたチャ・テヒョンは俳優活動のほかに歌手として活躍していることは皆さんもご存知でしょうが、そういう側面が映画で初めて活かされた作品でもあり、ハードロッカー出身のトロット歌手ぶりは彼ならではの器用さ。声の伸びがいいので、ヘビメタでも演歌でも映えてしまうところが笑いを呼びます。相手役チャ・ソヨン演じたイ・ソヨンはメジャー系主演クラスは今回が初めてでしょう。彼女本来のおっとりした雰囲気は良く出ていましたが、弾け方が足りなくてイマイチ。所属事務所から「待った!」が掛かっていたのでしょうか。ちなみに彼女は歌唱力に問題のある演歌歌手という設定ですが、劇中の歌が本当に下手(^^!)。

 ポン・ピルを見出し成功させる「大声企画」の社長をベテランのイム・チェムが無難に演じていますが、この作品の肝はこのキャラクターであり、もっと意外なキャスティングが出来たなら映画は更に面白くなったのでは、と強く感じました。個人的には「チョン・ジェヨンだったらなぁ…」とずっと思い続けて観ていたのですが、いかがでしょうか?


『離れの選手とお母さん』

2007年執筆原稿

 ソウルでヤクザな暮らしをしているドックン(チョン・ジュノ)は見知らぬ老婆に生き別れた娘の捜索を依頼される。大金に目がくらんだ彼は軽い気持ちで慶尚道の漁村にやってくるが、民泊先に美人おかみのヘジュ(キム・ウォニ)と娘オッキ(コ・ウナ)が住んでいたことから、地元の青年ソンチル(イム・ヒョンジュン)たちと、独り身ヘジュを巡る恋の争いに巻き込まれる。

 この作品、完成度だけ考えると最低かもしれません。ゆるーいギャグをバラバラに構成しただけの内容、浅はかで軽い人物像、ご都合主義の人情劇、安っぽい映像と、とてもプロが作った映画には見えません。似たような性格の映画として『マイ・ボス マイ・ヒーロー2 リターンズ』を連想しましたが(主演が同じチョン・ジュノ)、こちらの方は、どういう訳かダメな要素が奇跡的に絡み合って、見方によっては面白いシュール・コメディになっていたことに比べ、『離れの選手とお母さん』は誉めようがない、といわれても仕方ない完成度です。

 しかし。。。

 「韓国の映画やドラマになぜ今頃一部の日本人が惹かれるのか?」という解析に対して「懐かしさである」という一説があります。もし、その定義に従ってこの『離れの選手とお母さん』を考えれば、この映画は実に愛すべき作品でもあって、できの悪さを差し引いても、どこか憎めない不思議な映画なのです。今の韓国では失われてしまったような大らかさと懐かしさというものが全編に溢れていて、出来の悪さを思わず許したくなるようなやさしさは、30年位前の韓国映画が好きな人には、たまらないと思います。

 シナリオはいい加減そのものといった感じで、即興で撮ったのか、その場で変更しながら撮ったのか、繋がらないカットを無理やり一つのお話にまとめたような映画ではあるのですが、逆にそれが人間臭さを強調する結果になり、安っぽい映像もまた鄙びた片田舎の風景をよく表現しています。

 主演のチョン・ジュノはいつもと変わらず。特筆すべき演技ではありませんが、今回とっても普通な役柄で、雰囲気がなんだか違います。美人アジュマ演じたキム・ウォニは『家門の危機』とは全く異なるキャラですが、田舎臭いところに説得力があって今回は適役。同じく『家門の危機』に出ていたイム・ヒョンジュンが村の朴訥な青年ソンチルを好演していますが、これがとってもリアルで、田舎の結婚難を深刻に表現。本筋とは全く別に、映画に深みを与えました。ただ、いくら純朴だからといっても、お遊び半分でドックン殺害を計画するのは首をかしげてしまいますし、その罠のおかげで一番の悪役が死んで一件落着というのも無責任でしょう。しかし、これらもとりあえず時代遅れ的な本作の魅力として許せてしまうのでした。

 『離れの選手(=プレイボーイ)とお母さん』という題名は、往年の名作『離れの客とお母さん』から由来したものだとは思いますが、パロディでもなんでもありません。

 この作品は、全く見る価値のないB級コメディですが、偶然観る機会があっても、決して損はしないと思います。


『彷徨の日々』

2007年執筆原稿

 アメリカに母と二人で移住した韓国人少女エイミーを待っていた無間地獄の日々。

 アメリカ移住がバラ色だけではないことは、すでに散々語られて来たことだ。それは今の日本で「ニューカマー」と呼ばれる韓国人にとっても大差ないことなのではないか。しかし、韓国人たちの英語圏への移住は止まらない。「子供の国際化教育」という大儀名分の他に、問題を起こして逃げ出すパターンはいまだ多く、時には出国禁止処置が司法によって即、下される事実は、韓国ではいかに昔から海外逃亡が多いか、ということを示しているようでもある。

 本作の主人公であるエイミーが、アメリカに来た理由はよくわからない。ただ、母親の都合でアメリカに来たエイミーにとって、アメリカは夢の国ではなかったことは、映画を観る側に如実に伝わってくるだろう。少女エイミーは無気力であり、勉強も出来ない。精神は幼く、周囲に反発するエネルギーもない。そして、ご都合主義の神様は彼女の前に降臨もしない。母娘関係も、互いが邪魔であることが明白だ。

 エイミーには少し年上のボーイフレンド、トゥランがいる。彼もまた韓国系の少年だが、やはりアメリカ社会でうまくいっているようには見えない。エイミーにとりトゥランは父であり兄であり恋人であるが、やはりその関係は不安定で一方的だ。だからトゥランにアジア系のガールフレンドがいることを知った時、エイミーの心は残酷に揺らぎ始める。そして韓国系少年少女たちが集う乱交パーティーで体を見も知らぬ少年に差し出して、トゥランに仕返しをする。だが、それも虚無と絶望を象徴するだけだ。そして映画は終わってしまう。

 この作品で描かれる「夢の国、アメリカ」は凍てついたままだ。日差しは降り注がず吐く息は白く、エイミーもトゥランも幼い心は凍りつき、誰も彼らを導くことはない。そこには「海外移住」の現実が重なってくる。韓国人たちがアメリカにやってくる理由は千差万別だが、新天地で夢を掴めない者、馴染めない者にとって、逃げ場は閉鎖的なコロニーしかない。そこには「国際化」などという、格好よいものは微塵もなく「夢の外国生活」という幻想だけが空回りして、子供たちは未熟な心を引き裂かれてゆくだけだ。

 監督のキム・ソヨンは12歳でアメリカに移住した人物だという。この『彷徨の日々』の少女エイミーを、監督であるキム・ソヨンにだぶらせて語ることはあまりにも安易だが、凍てついたアメリカの大地、そして逃げ場のない自分たちの居場所といった光景は、いつかどこかで彼女が目撃したトラウマなのかもしれない。

 この映画を観ていてどうしても連想するのが『新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』で描かれた一節だ。主人公の少年シンジは常に自己の存在に疑問を抱き、悩み続ける。そして広がる心の情景の中で自問自答し続ける。それと同じ光景が『彷徨の日々』でも拡がるのだ。キム・ソヨンが『新世紀エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』をどこかで観た、観ないは関係ない。だがそこには、彼らクリエイターが生き残るためには、自らの引き出しを武器にして這い進んでいくしかない地獄の光景が、両作品にはパックリと口を開けて覗いているかのようでもあった。


『偉大なる遺産』

2003年執筆原稿

 物語は、フリーターの男女(しかも二人ともそんなに若くない)が、日常のすれ違いから恋に落ち、やがて成就する、というよくあるパターンだが、各エピソードがうまく噛み合っておらず、なにやらその場しのぎのような展開の連続だ。やくざの起こした交通事故を目撃したために、二人は命を狙われるはめになるのだが、さっぱり盛り上がらず、最初から最後まで、思いつきのアイディアを並べただけのような展開で、結局は主人公二人の冴えない日常を、大げさにだらだらと綴っているだけだ。

 色々なエピソードをばらばらと組み込むことで、登場人物の生き様を際立たせる、という手法は確かにあるし、『猟奇的な彼女』はそんなやり方で成功を収めた作品であったかもしれない。だが、それが狙いであったとすれば、この『偉大なる遺産』は完全に外している。また、マーケット・リサーチによるヒットする要素を無理やり詰め込む方法が、映画を面白くするかどうかは、全く別であることもいうまでもない。

 無職で無気力、小銭をせびることしか、やることのない主人公チャンシクを、イム・チャンジョンが演じているものの、彼の疲労しきった様子と老け込みようは、役作りが入っているとしても、「どうしたんだ?」と思わず心配してしまうひどい変わりようだ。チャンシクと腐れ縁で結びついてしまう、これまたフリーターのミヨンをキム・ソナが演じているが、彼女のあまりのオバサン化に唖然としてしまう。日本で上映された『イエスタデイ 沈黙の刻印』や『夢精期』のイメージで観に行くと、いくら芸風であってもひどいショックを受けること間違いない。ワイルドな出前持ち役で、バイ・プレーヤーとして、すっかりお馴染みになったコン・ヒョンジンが出演しているが、どうも彼の演技は最近ワンパターンで、以前の輝きが確実に鈍って来ているようだ。そろそろ、彼には笑わせ役以外の配役を当てるべきなのだろう。

 なお、ラスト・クレジットでは、重要なオチが描かれているが、韓国の観客がきちんと観る訳もなく、あまり賢いやり方とは言えないのではないか。この『偉大なる遺産』は、すっかり豊かになった韓国都市部での生活ぶりを、それなりに描いた作品ゆえ、今の日本との共通点を見出す事も出来るが、総じて面白くないし出来もいいとはいえないコメディである。


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