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Review 『マイ・キャプテン、キム・デチュル』『ダメ男の愛し方』
『霊媒 生者と死者の和解』『春夏秋冬そして春』

Text by カツヲうどん
2007/2/11


『マイ・キャプテン、キム・デチュル』

 この作品、いまをときめく韓国映画界のカリスマ俳優、チョン・ジェヨン主演にもかかわらず、上映はあっという間に終わってしまいました。どうして?と思いつつ観に行ったのですが、映画が始まってその疑問はすぐ解氷してしまいます。なぜなら、この作品、製作側が意図している、いないにかかわらず、生ぬるく退屈な児童向け映画だったからなのです。ですから、子ども向けの上映会にはいいかな、とは思いつつも、大人が観て面白くないものは、子どもにとってはそれ以上につまらないことが多いわけですから、子どもにもそっぽを向かれそうな映画といったほうがいいかも。『奇跡の夏』の奇跡をもう一度、と願っても世の中そうはうまく行きません。

 主人公の遺跡泥棒キム・デチュルは、慶州の山中にある未発掘の古墳から歴史的な発見ともいえる仏像を見つけ出すのですが、たまたま地元の少女ジミンがその古墳に迷い込んでしまったことから、ごまかしで「これ極秘任務だ」と身分を偽り、子どもたちとの関係が始まってゆきます。悪人である主人公が、その意図に反して子どもたちの保護者になってしまうという設定は、キム・デチュルと大人たちの裏社会の部分がもっと描かれていれば、面白い展開になったのでしょうし、チョン・ジェヨンの持ち味も、もっと発揮できたでしょう。でもそれが出来なかったところに、脚本の未熟さを強く感じてしまいました。

 この映画のポイントは、遺跡泥棒デチュル(チョン・ジェヨン)と貧しい女の子ジミン(ナム・ジヒョン)、難病を患っている少年ビョンオ(キム・スホ)の三人が織り成す、奇妙な関係の面白さだったはずなのですが、肝心のキム・デチュルの人生(=大人の社会)も、ジミンたちの世界(=子どもたちの社会)も、きちんと描かれていないので、話は早々と見せかけだけの貧しい子ども話になってしまいます。不自然に明るく、わざとらしい芝居のジミンと、やたら暗いだけで表現力を欠いたビョンオのキャラは不愉快なだけ。映画は二人があっちこっちウロウロして、時々チョン・ジェヨンがサービスで顔を出すだけ、といった印象。事情ある母子家庭ゆえ、他人の親切を拒絶してしまうビョンオの母エラン(チャン・ソヒ)のキャラクターだけは力強く描かれていますが、母子のキャラクターがウソ臭くてリアリティがないのは、大人の社会がきちんと描かれていなかったからでしょう。

 舞台は慶州ですが、観光映画としても中途半端。天馬陵の中での全面的な撮影は、地元行政の強い協力があったゆえのことなのだろうと感心しつつも、慶州という場が描けているかといえばそうでもなく、慶州という場所が持つ独特の寂寥感も出ていません。新人監督の力不足といってしまえばそれまでですが、「遺跡泥棒」というアイディア、主演がチョン・ジェヨンということを考えると、なんとももったいない感いっぱいの作品です。ただ、ジミンがいつも連れて歩いている犬が、妙に自分の立場を心得た賢い犬だったことだけが印象的でした。


『ダメ男の愛し方』

 韓国では映画の観客層が若いためか、毎年似たような企画の学園コメディばかりが劇場に並びます。これはこれで後々の才能の発見にはなりますし、スターの発掘にもなっているので決して無駄というわけではないのですが、同じようなものが毎年いくつも連続していると、観る側としてはとっても疲れます。参加したスタッフや俳優たちにとっても、へたにヒットすれば「コメディの人」というレッテルを貼られてしまうし、コケれば仕事が来ない、というジレンマとの闘いであって、作品とは裏腹に気が抜けないことでしょう。

 私が劇場で観た『ダメ男の愛し方』の予告編は、映画の軽快なコンセプトが良く出ていて、なかなか面白いものでした。韓国のコメディといえばすべからず「濃くて泥臭い」と日本では思われがちですが、韓国の若い観客たちはそういった一昔前の臭い感覚を嫌いますから、日に日にコメディも垢抜けては来ているように感じます。それに実際、韓国の俳優たちはコメディ演技においては優れた表現力を持つ人が多く、決して侮れない分野だともいえるのです。

 さて、『ダメ男の愛し方』は結論としてどうだったのでしょうか? はっきりいってペケ。話がオーソドックスであること自体は、定番ということで許せるのですが、何か一本芯が通った話ではなくて、各キャラクターの小話がちょこちょこと落ち着き無く並んでいるだけで、なにをやりたいのかさっぱりわからないコメディでした。最近の学園コメディ『マイ・ボス マイ・ヒーロー2 リターンズ』も似たような映画ではあったのですが、こちらは凝った映像のためか、はたまたキャラクターの面白さゆえか、カルトな魅力の一編であったことに比べ、『ダメ男の愛し方』の場合はキャラクターの面白さはあるものの、それ以外は全部うすっぺらで、空しい作られた笑いが陽炎のように舞っている、観ていてとてもしんどいコメディだったのです。

 遊び人の数学教師ウ・ジュホ演じたパク・コニョンにとって、今回の映画は彼の器用さを知るにはよい機会だったものの、こんなコメディに出てしまうことは、俳優としてもったいなく感じました。とても真面目に仕事をしていると思うのですが、なんだかしっくり来ません。逆によかったのが音楽教師ユン・ソジュ役のキム・ヒョジン。いままでのキャリア中で一番魅力的です。ただ、彼女が嫌いな人はダメでしょう。このソジュを中心に物語が廻っていれば、映画は格段に面白くなっていたのですけどね。

 監督のキム・ドンウクは地道に助監督などしながら、今回デビューを果たした人物ですが、若者向けのコメディではなく、もっとテーマ主義的な堅い作品の方が資質がうまく開花しそうな作風です。映画の妙にズレた雰囲気に、シナリオは誰かなと調べてみたら、納得の人物、『恋愛術士 〜Love in Magic〜』を担当したキム・ギュウォンでした。ラブコメとみせつつも、どこか外した厭世観漂う雰囲気は、きっと監督よりもライターの持ち味なのでしょう。

 『ダメ男の愛し方』は、お好きな方はどうぞ、といった感じの作品です。


『霊媒 生者と死者の和解』

 韓国におけるシャーマニズム(巫術)といえば、朝鮮半島独自の宗教として語られることが多いが、噂ばかり先行し実態を垣間見た日本人は少ないと思う。この『霊媒 生者と死者の和解』はオカルト的な面白さを期待すべき内容ではないが、日本における祭りが「日常の中の非日常」であるとすれば、似た意味で普段着のシャーマニズムというものを垣間見せてくれる作品だ。

 映画は、韓国における三つの地域の巫術を写し出している。これらは別の視点での韓国社会のスケッチのようでもあり、なかなか面白い。巫術というものは、親から子、子から孫へと、女系家族の中で代々受け継がれて行くが、作法も地域によりかなり異なっている。それがまたそれぞれの地域で儀式を受け入れる人々の様子の相違とも重なり、意外な様相を呈しているのだ。

 慶尚北道・浦項では、まるで歌謡ショーのようだ。盛り上がった会場の客席からおひねりが出される様子は日本の大衆演劇のようで、従来の途絶された神秘的雰囲気は画面から一切感じられない。全羅南道・珍島の場合は素朴である。場所が稲作地帯であることもあいまってか、どこか穏やかで日本の農村における神教儀式とイメージが大きく重なる。恐らくは日本神教の源流を現代に伝えているのかもしれない。一番えげつなく派手でショー化されているのが、都会派ともいうべき京畿道である。巫女は若く普段の物腰も極めて現代的。訪れる客層もソウルの人ばかりのようだ。だが、儀式は最も残酷で荒々しく、ブードゥー教を連想させる。それは土地柄と儀式形態が一見相反しているかのようだが、そのあざとさはまさにマスコミ的であり、都会人の心の渇望を象徴しているかのようでもある。

 本作が日本で上映されるとすれば、吹き替えによる公開が一番いいだろう。ナレーションを担当したソル・ギョングの独特の語り口を味わう事は出来ないが、この作品は言葉の情報が非常に多く、日本語字幕が加わったら文字を読むのに精一杯で、とても映像を見ていられないからだ。ドキュメンタリー作品は往々にしてこういう現象に陥ってしまうが、その点ではかなり辛い作品でもあった。


『春夏秋冬そして春』

2004年執筆原稿

 キム・ギドク監督の最高傑作は何か?と問われたならば、私は真っ先に『受取人不明』を挙げるだろう。だが、その後の作品は一般受けするものの観ていてしっくり来ない作品が続き、「キム・ギドクはどこに行くのやら?」と、勝手な心配をしていたのだが、今回の『春夏秋冬そして春』は、久々に彼の個性を楽しめる作品に仕上がったようだ。

 一見すると、よくあるタイプの仏教物のようでもあるから、物足りなく思う古いファンもいるだろうし、「キム・ギドクとはなんぞや?」という初見の観客からすれば、荘厳で高尚な映画にも映るだろうと思う。だが、その糖衣に包まれた印象こそ、いつもの意地悪い罠であるとも言うことが出来、そこにいつもの「キム・ギドク式」を読み取り、楽しむ事も可能だし、『曼陀羅』や『達磨はなぜ東へ行ったのか』といった韓国の仏教映画名作群と比較して、あれこれ真面目に論じて楽しむ事も出来るという、デュアルモードの作品に仕上がっているのだ。私個人としては、かなり笑えた映画だったし、韓国の劇場においても、観客が、実は結構笑っていたのは事実である。どう受け取るかは、観た方にお任せするしかないが、キム・ギドクの経歴の中では、最も優しい一本には違いない。

 物語は、四季を背景に一人の僧侶が様々な人生の荒波を越えて成長していく姿を描いている。それは、決して一年における四季ではなく、数十年における時間軸での四季であり、無常や輪廻転生といったメッセージも深く刻まれてもいるのだろうが、この映画は、そういった難解なテーマを全く考えない方が楽しめる。映画の始まりは、まるで『童僧』(*)のパロディ編のようだ。だが、肝心の童僧が「けけけけ・・・」と奇声をあげて、動物虐待を始めるあたりから映画は、急速に、キム・ギドクの世界へと突入してゆく。そして、童僧が成長し、思春期を迎えた夏編からは、完全なキム・ギドク・ワールドが展開してゆくのである。

(*) 『童僧』は、母親に対する思いを断ち切ることができない童僧と、俗世からの誘惑に悩む若い僧侶を描いた仏教映画。2002年の上海国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞した後、2003年4月に韓国公開された。そのテーマもさることながら、『童僧』で老僧を演じていたオ・ヨンスが、『春夏秋冬そして春』でも同じく老僧を演じているため、両作品とも観た観客は、思わず吹き出してしまう。TOKYO FILMeX 2003では、『地球を守れ!』と『鏡の中へ』が続けて上映されたが、『地球を守れ!』で脇役出演していたキ・ジュボンが『鏡の中へ』でも重要な役回りで脇役出演していたため、彼が『鏡の中へ』で再登場した際、会場からは笑いが漏れていた。それに近い感覚。

 夏編は、若い女性が、母親に連れられて、池の上に浮かぶ寺に預けられるところから始まるのだが、彼女と若僧との「やっぱり、そうなるのね」的展開は、キム・ギドクの映画を何本も観ている方なら、大いに苦笑するだろう。一番凡庸なのは秋編だが、ここがもっともキム・ギドク的かもしれない。過去の作品との関連や共通点を幾つも見出せるはずだ。

 もっとも注目すべきは冬編である。ここでは、壮年に達した主人公を、監督自ら演じているのだが、噂にたがわず、海兵隊で鍛えぬかれたその肉体と体さばきは、見事なものである。彼は上半身裸で、真冬の道なき山中を、重い阿弥陀如来像と、その台座を抱えて延々と登って行くのだが、キム・ギドク自身がそれを行っているのだから、大したものだ。ここにはまさに「極私的映画作家の姿がある」と言いたいが、苛酷過ぎて俳優が誰もやらなかった(出来なかった)のが真相かもしれない。また、この冬編は韓国の美しくも荘厳な冬の情景を美しく描いており、真冬の韓国旅行をしたくなること必至だ。その独特の硬質感は、実に威厳に満ちている。

 2004年、『悪い男』、『受取人不明』、『海岸線』、そして本作『春夏秋冬そして春』と、その近作が一挙に日本公開されるキム・ギドクだが、『春夏秋冬そして春』が上映されたTOKYO FILMeX 2003のティーチインの場では、さっそく次回作『飛鳥』の構想が語られていた(古代における日韓関係を描いた作品になるという)。そして、2004年春には韓国で第10作目となる『サマリア』(女子高校生の援助交際がテーマ)が公開予定。さて、次はどんな、キム・ギドク式トンデモ映画が登場するのだろか?


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