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Review 『青燕 あおつばめ』『王の男』『浮気な家族』
『殺人の追憶』『殺人の追憶』『ラブストーリー』

Text by 鄭美恵(Dalnara)
2007/1/14


『青燕 あおつばめ』

 これは在日の始まり、はじめの在日の映画と思った。

 朝鮮人と日本人、男と女を区別しない空が一番好き・・・

 パク・キョンウォンが詩的な言葉に託した(隠された)思いは今の在日の心情にも通じるかも。でも、もし80年後の現代の在日も、詩的な言葉でしか心情を語れないとしたら・・・ 詩などの創作芸術に胸の裡を託し、直截的な心情の吐露を回避するとしたら・・・ それは視覚化されない綿のような重圧が、現代も残ったままだからなのかもしれない。

 もうひとつ、日本人に見える(見せようとする)在日(ハン・ジヒョク)の像は、現代の在日のひとつの鏡像のよう。選択肢のひとつとして、生活の言語、支配者の国の言葉日本語と、人生の言語、祖国の言葉朝鮮語を矛盾させ共存させ使い分ける生き方がある。肉体の言語と魂の言語の峻別と乖離と混沌の ambivalence。それは、木部が外務大臣を思いやるかのような偽善的な言葉のオブラートで、キョンウォンの人生を手助けしたい本音と真心を包んでいるような・・・ 生きる手段、道具としての言葉、演じる言葉と真実のギャップが、在日(の居場所)の二重性を孕み、二重性とも絡んでいるように見えた。

 朝鮮人と日本人、男と女を区別しない空が一番好き・・・

 この言葉は海を越え普遍の地平にも広がる。黒人女性はまず人種で差別され、女性としても差別され二重の弱者の時代を長くすごした。Alice Walker の小説を読んだり公民権運動の時代の話を聞いて知った。映画を観て、この時代の半島の女性が、黒人女性とオーヴァーラップした。被支配者として、さらに女性としても区別されている。

 さらに、コンテンツの分野で新しい女性像、男性像が提示されているのが興味深い。ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』や『私の名前はキム・サムスン』に登場する男性のように、女性が夢をかなえる姿を見守る男性像へと、表現が変遷して来ているのが見てとれる。

 画期的な女性像を表現した『浮気な家族』(2003)には傍らで見守る男性がまだ不在だった。2004年、2005年に社会が潜在意識下で求める女性像が変わってきて、これまでの女性像を超えた女子像、男性像が描かれはじめている(韓国語では"gender"としての女性像の謂いで「女子像」という言葉をつかう)。

 古いのか新しいのかわからない映画。古い題材を新しい語法で(古い革袋に新しいぶどう酒を入れるのとは逆の)。これが普遍的ということなのか。

 ほぼ同時代のアイルランドを描いた『麦の穂をゆらす風』で英国軍がアイルランドにしていたこと、まるでパラレルだった。近親憎悪は世界中で起こるものなのだろうか・・・


『王の男』

 映画『王の男』を観て。

 天と地の間の中空を渡る芸人チャンセンは、陰陽思想の天地人の真ん中、人を体現しているよう。封建的身分制度の厳しい時代、天(王)と地(下級層の民)の間を行き交い笑いを運んだ芸人の生。芸人がもたらすハン(恨)を解き放つような笑いは、天(王)にとってはただの悦楽、愉楽にすぎないが、地を這う者たちにとっては、生の厳しさを忘れさせる、遊び、一瞬の逸脱、解放感。

 ノラボセ(遊べや遊べ)のかけ声ではじまるプンムル(風物、サムルノリ)の演奏で、ひと時地べたの生から離れ遊楽を味わう民たち。生の辛さ厳しい現実から解き放つ(ハンを解く、サルプリ)パン(場)のノリ(遊び)はホモ・ルーデンス(homo ludens)、人は遊ぶ存在であるという人間理解を刺激する。

 ただし、同じ仮面劇を見て笑う天(王)と地(民)の間は、ひとつの笑いで結ばれているようにも見えるし、価値観までを共有しているわけではないので、ギャップが浮き彫りになっているようでもある。笑いが天と地の間にある人(チャンセンたち)を通して、天と地を近づけ、結びつける時間は永遠ではない。

 仮面劇というある虚構が激しく天(王)の側を刺し、上にいるものたちを翻弄する時、虚構と現実が幻惑するように転回するさまは、シェークスピアの悲劇のように、人間のひとつの弱さ、人間らしさを描いて興味深い。

 天と地の間の裂け目と乖離を超えて、自由に諧謔と笑いを運ぶ芸人の言葉、芸人の芸という、形の残らないものが王をつき動かすところでは、言葉の力、無形の芸術の力も感じる。さらに生まれ変わっても芸人にと、自己肯定するチャンセンとコンギルが叫ぶ言葉に、ニーチェのツァラトゥストラの amor fati 運命愛を意識した。芸人が生に抱くかすかな諦念も含まれるが・・・ 諦念だけではない、人生を愛し、肯定し人生を遊んだ芸術家の告白「これが生であったか、よしもう一度」(Nietzsche)のようで(墓碑に SCRISSE AMO VISSE 「生きた、書いた、愛した」と後悔ない生を記したスタンダールも思い浮かぶ)、力強い生と、儚くか弱い運命の対比を噛みしめた。芸の、表現の歓びと生の悲哀が対立し両立している。

 映画という虚構の器に、もうひとつ仮面劇という虚構を入れて真実を語らせ・・・ 映画と仮面劇が入れ子になった作品の構造は、芸術の持つ虚構性が実は多くの真実を伝えることをより強く意識させる。

 余談だが、ユッカプ(ユ・ヘジン)がもっと大きいパン(場)がある、と、チャンセンたちを連れて行くパンが、パンはパンでも賭場(パン)で、映画『タチャ イカサマ師』での、ユ・ヘジンの姿と重なっておかしかった。

 イ・ジュニク監督の前作の『黄山ヶ原』もいろいろ象徴的だったが・・・ 今作も一回だけ、例の「コシギ」が聞こえてきて楽しかった。


『浮気な家族』 − 獲得と喪失の舞台 −

 悲劇と喜劇が同時に現れ、どちらかといえば農耕民族の特性を体現しているような守勢の女性たちが、この映画の中ではまるで狩猟民族のように幸福の獲得をめざす。獲得の過程での周囲との軋轢は特に重くは描かれていない、演劇のような映画。

 主婦ウン・ホジョン(ムン・ソリ)は弁護士の夫チュ・ヨンジャク(ファン・ジョンミン)と小学生になる養子の息子スインと高級住宅街に暮らしている。夫には若い愛人がいる。姑は同窓生とデートを楽しんでいる。ホジョンは一家の良き嫁、母親としての生活を送りながらも、隣家の高校生との関係を深めて行き・・・ それぞれが家の外に愛情を求めている浮気な家族たちを描く。

 ちょっとしたディテールが時代の変化を映し出している。儒教の国、韓国の女性がこんなふうに変わったのかと実感する。例えば日本では老いらくの恋の小説もあるくらいだが、この映画では夫ある女性、30代の息子がいる女性が小学校の同級生とのデートを楽しんでいる。韓国では養子はあまりとらない、と聞いていたので、父系主義社会における養子のいる家族という設定にもちょっと驚いた。わだかまりも気負いもなく息子に接しているホジョンの姿に感心した。一方あふれんばかりの愛情を両親から受けている子どもも養子ということを知りながら、ぼくはお母さんのお腹を痛めて生まれたのではないけれど、お母さんの胸を痛めて生まれたんだ、と同級生に言った、というところにも母子の愛情の深さが感じられた。

 キャリアウーマンでもない普通の主婦のホジョンだが、ドラマによくあるような湿った母性を備えているのではなく、カラッとした母性を深め、新しい命をはぐくみ、自分の家族を再構築しようとする意志が貫徹されている。ヒロインはそんなふうに最初から最後まで母性が強かった。映画の終わりで彼女が夫に「アウトだ」と言うのが興味深い。いろいろな意味で彼はアウトだったのだろう。彼は家族を守れなかった、彼は家族(子ども)を作れなかった・・・

 監督のイム・サンスによるとホジョンとヨンジャクはいわゆる386世代。386世代とは現在30歳代で80年代に大学に通った60年代生まれを指す。日本で言う団塊ジュニアより一回りくらい上の世代になる。韓国経済における386世代の活躍ぶりは、アジア通貨危機以降よく耳にしたが、映画では人生に幸福を求める386世代の姿が等身大に描かれている。

 イプセンの戯曲『人形の家』のように家の外に出て行く女性の像でもあるが、悲壮感はなく、映画は韓国社会の選択肢の幅の広がりを感じさせ、新しい価値観を提示しているようだ。ディテールはリアルだが、映画全体としては戯曲のような舞台のような限定された世界の中での一部を奔放に描写して問題提起を孕ませている印象を受けた。女性が獲得したいものと獲得したもの、男性が喪失したものを対比して、現代女性の新しい価値観を提示している。


『殺人の追憶』 − No man is an island. −

 ソウル・オリンピック開催を前に、急速に近代化・工業化がすすむ発展途上の韓国。1986年から1991年までの間に華城という農村で10人の女性が殺害される事件が起こった。実際の事件をもとに、犯人を追う刑事たちの姿を映画は描く。地元の刑事パク・トゥマン(ソン・ガンホ)とソウルから来たソ・テユン(キム・サンギョン)刑事が熱く事件に迫っていく。昨年韓国で560万人を動員したポン・ジュノ監督の長編第2作。

 時差が、現代との落差が笑いを誘う。近代化をすすめている国で、変貌しつつある社会でパク・トゥマン刑事いわく、犯人は「顔を見ればわかる」ものだったり、容疑者には飛び蹴りをくらわせる。藁をもつかむ気持ちでムーダン(巫女)に犯人の居場所を聞いてみたりもする。ただそのおかしさは「おまえ(犯人)は、いま、どこにいる?」という必死の思いから来るもので、哀しさが通底している。また、科学的な捜査を推進しようとしながらも、しだいに容疑者に対する怒りを抑えきれなくなるソ・テユン刑事が理性と情動のカオスのような葛藤を見せる姿にも哀しみと心の痛みが通底している。

 映画に登場するいろいろな顔、貌が印象的だ。刑事、被害者、村の人、容疑者、市民たち・・・ 苦悩と悔しさと哀しみに顔をゆがめてスクリーンに重なる顔を忘れえない。それらの顔が重なりあって韓国の歴史を構築しているようにも見える。そして、たくさんの顔のなかで、顔のない犯人は事件とともにずっと観客の記憶に残る。

 犯人は普通の人、平凡な人という印象だったという少女の言葉と、それを聞いたソン・ガンホの反応を観て事件はまだ彼の中で終わっていないことがわかる。少女の言葉は黄金色の稲穂の上を風が渡るようにゆっくりと見る者の心に浸透しひろがっていく。事件を正視すれば、犯人は私たちが生きている世界の一員で、一市民として暮らしているのだと知って愕然とする。これが私たちの生きている社会。だからソン・ガンホの最後の表情を見て、鏡に自分の顔を映しているような気持ちにもなる。彼の中でまだ事件が終わっていないように、観客のなかでも事件は終わらない、長く追憶に残る映画となる。

 ポン・ジュノ監督が日本公開初日に舞台挨拶で、「命をかけるつもりで(映画の)素材にあたらなければならないと思った」と語り、ソン・ガンホが遺族や事件にあたった刑事たちに配慮して、「その人たちの心の痛みを増やさないように、熱情をもって演技をすることが、いい映画を(つくって)見せてあげることが、その人たちの助けになると考えた」と言う通り、刑事たちの心の痛みが熱く伝わってくる映画。

 雨の中の撮影は、パク・ヘイルによると「体感温度がマイナス25度くらい」だったそうだが、雨の日のトンネルのシーンとともに長く心に残りそうなのが稲穂の風景だ。映画を観る前と観た後ではその田園風景は違ったものに見える。のどかな村の風景のどこかに死体が隠れていたということがわかり、現実の社会を捉えなおすことを促しているようだ。映画はこの世界を鳥瞰させ、人間像を俯瞰させる。

 ジョン・ダンの詩 "Meditation XVII" がその風景に重なる。

'No man is an island, entire of itself;
every man is a piece of the continent, a part of the main.
・・・・・・
any man's death diminishes me, because I am involved in mankind,
and therefore never send to know for whom the bell tolls;
it tolls for thee.'

人は誰もひとつの島そのものではない、
人は人類という島の一部、ひとつの断片だ。
・・・・・・
誰であれ、人の死は私に喪失感をもたらす、私は人類の一部だから、
人類の一部が失われたから。だから誰のために弔鐘が鳴っているのか
知ろうとすることはない。鐘は汝のために鳴っている。(拙訳)

 事件を追憶し刑事の苦闘に迫り被害者の死を悼むと同時に、深い人間理解と社会洞察をも示した普遍的な価値のある作品といえる。


『殺人の追憶』

 夜がこんなに暗闇でなかったら、この事件は起こらなかったかもしれない。すこしだけそう思った。戒厳令の夜が続いた時代。映画は暗闇が孕(はら)んでいたもの、人間の心の闇を描ききった。韓国の現代史に起こったこと、多くの韓国人が経てきたことがいくつも映し出され、歴史は韓国の自画像となり、事件と重なり合って追憶されている。

 国としてはまだ発展途上で、誰もが非力で弱く、苦悩していたという姿を事件をとおして率直に描き出している。被害者が受けた心の傷、刑事たちの苦悩、容疑者たちの諦念と悔しさ、民主化運動の参加者やその家族の痛みなどが、重層的に迫ってくる。主演俳優のソン・ガンホが「心の痛み」を描いた映画だ、と語っていたのがよくわかる。国民の誰もが、観れば胸を痛めながら歴史を想起し、民族の自画像を意識して共感する映画だ。

 最後に犯人について語られる言葉は戦慄を与える。その思いは観客の国籍は関係なく国境を超えて普遍的だろう。「犯人は普通の人、平凡な人という印象だった」という言葉・・・ この言葉は、ポン・ジュノ監督の『ほえる犬は噛まない』での手法を思い出させる。その映画では市民に潜む悪意や罪が描かれていた。

 『殺人の追憶』は実際に起こった事件を通して、ひとつの歴史の読み方を投げかけている。事件を振り返る(追憶する)のと、歴史を振り返る(追憶する)のと。この二つの追憶する行為は、自分の姿や国や社会の自画像を正視する過程でもある。過去があって、その歴史の流れがあって今の姿もよく見ることができる。

 ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の言葉がいくつか思い出された。

「過去に目を閉じるものは現在にも盲目となり、未来を語ることはできない」
「非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険に陥りやすい」
「われわれの義務は誠実さであの過去を心に刻むということを通してしか前に進めない」

 殺人を記憶し追憶すること、歴史をおぼえているということは、すべて現在につながり未来へ続くことで、私たち人間の土台に、根っこになるもの、忘れてはいけないとつよく感じさせる映画だった。


『ラブストーリー』 〜 母から娘へのラブ・ストーリー・ゴー・ラウンド 〜

 映画は、母の恋・娘の恋のそれぞれの日々を揺り戻しながら、愛のかたちに古さ(クラシックさ)はない、と伝えてくれる。ジヘ(ソン・エジン)が母ジュヒ(ソン・エジン:二役)のもらった恋文を読んで言う。

「クラシック!」

 しかし、こう言いながらも、母の恋に共感していくジヘ。映画は母と娘の恋する姿を交互に追うことで、30年経っても古くならない想いや愛する気持ちは変わらないことをおしえてくれる。

 今どき「クラシック」な、古くさいって思う。その時代の恋のきっかけ、ファッションもなにもかも。たしかに30年前は顔立ちも今とちがってちょっとクラシック。言動も男女の付き合い方も古風。一番おかしかったのがダンスをする場面。ジュヒのダンスが全然音楽にのっていなくてゆっくりすぎてヘンに思えた。でも、カメラが30年の時を越えて行ったり来たりすることで、現代の生活とのギャップ、価値観の違いが強調されるのではなく、切ない恋心や秘めた想いに時代は関係ないこと、みんな同じだったという思いになっていく。クラシックな恋に共鳴していく。

 水が縁結びになっているのも印象的。韓国のドラマではソナギ(夕立)がふたりを近づけるきっかけになっているのをよく見る。映画の中でもソナギがふたりを親密にする。雨あがり、空には虹がかかり、恋人たちは水べりを歩き、蛍をつかまえる。雨にぬれながら、思いを秘めたり伝えようとしたり。こんな一途な思い、運命の恋が30年前にあって、そして今の私たちにもめぐってくるって映画は伝えてくれる。母の恋が娘の恋をゆりかごのように揺らして母の想いが娘の想いにメリー・ゴー・ラウンドのようにめぐるラブストーリー。


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