HOME団体概要support シネマコリア!メルマガ登録サイトマッププライバシー・ポリシーお問合せ



サイト内検索 >> powered by Google

■日本で観る
-上映&放映情報
-日本公開作リスト
-DVDリリース予定
-日本発売DVDリスト
■韓国で観る
-上映情報
-週末興行成績
-韓国で映画鑑賞
■その他
-リンク集
-レビュー&リポート
■データベース
-映画の紹介
-監督などの紹介
-俳優の紹介
-興行成績
-大鐘賞
-青龍賞
-その他の映画賞


Review 『とかげの可愛い嘘』『王の男』
『ウェディング・キャンペーン』『ユゴ 大統領有故』

Text by カツヲうどん
2006/12/10


『とかげの可愛い嘘』

 この映画に出てくる動物は「とかげ」じゃなくて正確にはヤモリなんですが、「トマベム 도마뱀」という言葉が、韓国語では四つ足爬虫類一般を指す単語なので「とかげ」ということになってしまうのでしょうか。先日も韓国で「うなぎ」と「あなご」と「ぬたうなぎ」は違う!という訳で、友人たちに説明するのに一苦労したのですが、こういう場面に出会うと、日本語という言葉は実は生物の固有名称に関しては、かなり細かいのだなあ、ということを実感してしまいます。でも日本語では大雑把な概念もある訳で、日本人がぼけっと「カルビ、カルビ、骨付きカルビ!」なんていっているような場面では、結構、韓国人の方がイラついているのかもしれません(笑)。

 さて、本作『とかげの可愛い嘘』は、主人公ジョガンにチョ・スンウ、謎のヒロイン、アリ役にカン・ヘジョンと、まさに現代韓国映画界若手のアイコンともいうべき二人をすえた、製作中はとっても期待されていた作品です。タイトル(原題は『とかげ』といいますか『ヤモリ』)とキャスティングがなんだか噛み合わないので、どんな映画なのか想像がつかなかったのですが、蓋を開けたら、それはネジとバネが緩みきったパンドラの箱、ジャンル超越のトンデモ映画でした。ただ、この映画を観て、とっても好きになる人もいるでしょう。韓国ドラマ王道の、お懐かし主義に沿った哀愁あふれる子ども時代の思い出話は、どこか人生の一部に、とっかかりのある人にはとてもジ〜ンと来るのではないでしょうか。

 物語はあえていいませんが、韓国で一般に公開されているシノプシスとはかなりニュアンスの異なるお話であることは間違いなし。今回が監督デビューのカン・ジウンは、韓国映画の雄、カン・ウソクの下で『公共の敵』『シルミド/SILMIDO』などの助監督をしていた人物。でも刑事がギャグをかましたり、囚人が暴れたりはしません。全く別の作風です。

 この作品で私が一番魅力に感じたのは、その美しいロケーション風景です。まさに緑あふれる中、小川はたゆやかに清流をたたえ、と本当に素敵なところでした。年輪を刻んだ樹木も絵に描いたような美しさ。何気ない田舎の風景ではあるのですが、韓国映画でありそうでなかった自然美をうまく捉えています。主演のチョ・スンウは、今回、可でもなく不可でもなくといった演技ですが、ヒロイン役、カン・ヘジョンの妙に老け込んでしまった姿に、私は未来の大女優を観てしまいました。

 この『とかげの可愛い嘘』という映画は、個性的と解釈するかどうかで、観る側の価値観がクルクルと変わるタイプの作品だと思います。だって、「とかげ=カメレオン」というタイトルなんですから(苦しいオチですみませんでした^^!)。


『王の男』 (再掲)

 日本でも放映されている韓国のテレビ・ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』を初めて韓国で目にした時、今までの韓国の時代劇では考えられなかった位に美術や考証が凝っていて驚いた記憶があります。日本で全話通して見ると、内容もまた面白く、韓国で大きな支持を得たことが十分納得できる作品でした。今の韓国では、以前に比べて、時代劇(史劇)が沢山製作されるようになってきています。老若男女の歴史劇に対する需要を掘り起こす契機になったのが、『宮廷女官 チャングムの誓い』であり、韓国人の考える時代劇作法の幅を広げたのも、この作品だったのではないかと考えるのですが、それをここ最近の映画興行に移して考察してみると、やはり『スキャンダル』や『血の涙』のヒットも、どこか相関関係があると思うのです。

 『王の男』も、そんな流れに乗った今だからこそ出現した映画なのではないでしょうか。この映画を監督したイ・ジュニクは『黄山ヶ原』で大ヒットを飛ばし、作品もまた大変高く評価された人物ですが、『王の男』もまた前作同様、今までの韓国時代劇にはなかった、独特の視点が随所に散りばめられた作品です。『黄山ヶ原』が優れていたのは、朝鮮半島三国史末期の史実を正面から描きつつも、現代時事とクロス・オーバーさせ、それを成功させたことですが、一番感心した事は、考証をある程度押さえつつも、不明な部分は不明なりに遊びを付加して、観ていて安っぽくない映像を作りあげていたことでした。時代が古代史ゆえ、『黄山ヶ原』は、戯曲としてデフォルメされたファンタジーであったともいえるのですが、今回の『王の男』は、よりリアルな歴史ファンタジーになっています。

 『王の男』は、朝鮮王朝第十代の王(在位1494〜1506)にして、希代の暴君、燕山君を描いた作品でもありますが、今までと異なるのは、当時の最下層の人々から観た朝鮮王朝の物語である、というところです。燕山君の話は、韓国の時代劇では定番なので、イ・ジュニク組がどうアレンジするかが一番の注目点だったのですが、今回もまた十二分に観客の要望に応えたといえるでしょう。

 主人公、支配層に反抗的なジャンセン(カム・ウソン)と、妖艶なコンギル(イ・ジュンギ)は、綱渡り劇で人気を集める旅芸人。しかし、コンギルの美しさは両班たちの欲望を掻き立てるので、ジャンセンは彼を守ろうと、気が立つ日々。旅先で知り合った芸人ユッカプ(ユ・ヘジン)たちと意気投合したジャンセン一行は、当時の王様、燕山君と愛妾をおちょくる卑猥な内容のパフォーマンスが巷で評判になったために、不敬罪で宮廷に連行されてしまいます。しかし、それはジャンセンの支配者に対する企みでもあったのです。役人から、燕山君(チョン・ジニョン)の前で問題の演目を披露し、王が笑えば無罪、そうでなければ死罪という難題を突きつけられますが、仲間たちは皆凍りついて演目をとちるばかり。燕山君はピクリとも表情を変えません。そこで、一計を案じたコンギルは、即興の賭に出ます。それがどうした訳か、それまで能面のようだった燕山君の態度を豹変させ、王は大爆笑どころか、コンギルの元に駆け寄って、童子のように大喜び。ジャンセン一行はこうして宮廷内に住まうことになり、コンギルは偉い位を授かります。しかし宮廷内部では、素姓の知れない芸人風情が王のお気に入りであることをよしとしない勢力もあって、燕山君へのクーデーター計画が進む中、芸人たちも命を狙われます。燕山君付きとなったコンギルは、王と過ごすうちに暴君の悲しい素姓を知ってゆくのですが、それはまた、コンギルとジャンセンの関係に大きな影響を与えてしまいます。宮廷に反抗的な姿勢を貫き通すジャンセンは、燕山君を挑発し、逆鱗に触れて目を潰されますが、クーデーター当日、瀕死のコンギルと共に、命を賭けた人生最後の芸を披露することで、燕山君との対決を迎えます。

 『王の男』における大きなテーマとは、やはり階級闘争でしょうか。貧しい階級の視点から支配階級を描くことで、韓国が今に抱える問題点といったものが浮かび上がってくるようになっていて、『黄山ヶ原』が世界情勢の中の朝鮮半島を揶揄したものならば、『王の男』は、現代韓国における支配の問題を皮肉った内容といえるかもしれません。「支配の問題」とは、貧富の差であり、表現や思想への抑圧であり、伝統的な因習から来る束縛であり、今の韓国では見ぬふりしがちなこうしたテーマを、『王の男』はうまく史劇に翻案していたと思います。そして、そのキーとなっているのがジャンセン、コンギル、燕山君の性格付けでしょう。

 ジャンセンは旅芸人ですが、支配階級に対しては異常ともいえる反抗心を示します。おそらくこれは、彼の出立に因縁があるのでしょうが、彼のキャラクターは、裕福かつ高学歴ながら、恵まれない人生を自ら歩む各界クリエイターたちの姿を連想させます。コンギルは、日本風にいえば「オカマ」ですが、性同一障害者でもあって、社会でタブー視されている存在が、裏では支配階級の愛玩の対象になる様は、同性愛を否定しようとしながらも、無視出来なくなりつつある今の韓国社会の建て前論を、強く批判しているようです。コンギルは『王の男』において、物語の行く末を担う重要な役柄となっていますが、ジェンダーの問題は同性愛を含めて今後も、韓国の映画や演劇で更に大きく取り上げられてゆくのではないでしょうか。

 暴君、燕山君の場合、今までの描き方と大きく異なる点は、彼が、ねじ曲がった封建思想の中で精神を病み、情緒障害になってしまった様子をはっきりと描いていることでしょう。そこには「彼は生まれつき頭がおかしかった」とか「理由はわからないが、精神障害を患っていたのだろう」的な曖昧な解釈はありません。それは朝鮮王朝から連なる封建体制、つまり現代の韓国に重なってゆく封建的な物事が、多くの人々を不幸にしている事実を訴えていたのではないでしょうか。『王の男』において、私が一番注目したのは、やはり燕山君です。演じたチョン・ジニョン独特の表情に乏しい固い演技が、新解釈の燕山君像に、はまっていることもあいまって、感情の発露をどうしていいか理解できないまま、王に祭り上げられてしまった男の悲劇が見事に浮かび上がっているのです。

 日本も韓国も、芸能に対する実社会の冷淡さがよく指摘されますが、それは各々の社会の成り立ちから来るものであって、同一視できるものではありません。しかし、この『王の男』を観て感じたのは、やはり日本の芸能が幸福であった、ということでしょう。日本の場合、支配階級をも巻き込んだ一大産業に発展した訳ですが、韓国では今に至るまで、そういった道を歩むことは出来ませんでした。そうした歴史的な冷淡さに対する怨念といったものも、映画からは漂ってくるようでもあったのです。

 『王の男』は地味な、ノン・スターに近い作品ですが、今の韓国で大ヒットし、高い評判を受けていることは、韓国人の潜在的な問題意識に触れているからこそ共感を得ている、ということなのかもしれません。李氏朝鮮と今の韓国社会の深く重い繋がりを描いた作品としても、注目すべき濃厚な作品といえるでしょう。なお、年が明けても『王の男』を巡るマスコミでの扱いは大きくなるばかり。この映画公開に合わせて、オリジナルともいえる演劇『爾(イ)』がソウルで再演されましたが、こちらも大人気だったようで私はチケットが手に入りませんでした。『王の男』という作品は、2005年から2006年にかけて起こった、久々の映画的事件でもあったといえると思います。


『ウェディング・キャンペーン』 (再掲)

 2005年に公開された韓国映画において、この作品はBESTの一本である、とまずは断言します。私はこの作品を観た後、会う人ごとに、この映画の話ばかりしていたくらいなのですから。基本的には田舎者を巡る結婚コメディ、目新しいテ−マではありませんが、この作品が画期的に感じられたわけは、製作者側が意識しなかったにせよ、「韓国社会におけるギョッポ(=在外同胞)という意味を、改めて考え直してみるべきではないか?」という疑問が大きく提示されていたことでしょう。

 韓国で「ギョッポ」といえば、海外で暮らす韓国・朝鮮系の人々を指す言葉で「生まれた国は違っても流れる血は同じ」という意味であると共に、しばしばネガティブかつ身勝手なご都合主義で使われることも多い言葉の一つです。同じ血が流れている、といっても外国で生まれ育って、異なる言語を使っている訳なのですから、基本的には外国人であることは、大抵の韓国人はわかっているのですけど、都合の良いときは「仲間だろ」、都合が悪いときには「外国人だろ」という、心ない使い分け方をされることも多い言葉です。この『ウェディング・キャンペーン』から私が強く感じたのは、その「ギョッポ」という概念が、韓国人の身勝手な「免罪符」になっているのではないだろうか、という問いかけです。

 主人公は、農村で働く、純朴で働き者の青年たちです。しかし、韓国の女性たちが結婚してくれないので、苦肉の策として、経済格差を利用した海外花嫁という手段に訴えることになるのですが、重要な点は、その相手が中国やフィリピンではなくて、かつて旧ソビエト連邦の一つであった、中央アジアのウズベキスタンに住む朝鮮族である、ということです。なにゆえ、そんなところに朝鮮族が住んでいるのか、という理由には日帝時代から東西冷戦を経て今に至る数奇な運命が隠されているのですが、それはここでは触れません。それよりも、相手が朝鮮半島とは全く異なる文化圏で暮らす異邦人であるにもかかわらず、そこに出向いて嫁取りに行くという裏には、先ほど述べた「ギョッポ」という考えに基づいた「同じ民族だからよかろう」という、韓国式ご都合主義に対する問題提起が含まれているように私には思えて驚きだったのです。もし、この作品を観る機会がある方には、単純な田舎者コメディと決めつけず、そこら辺も考えて観てほしいと思いました。

 また、映画自体も大変完成度が高く、俳優たちの卓抜した演技と、つぼを押さえた演出にも特筆すべきものがあります。監督の演出が優れている点は、観客が、登場人物たちの視点と、彼らに対する第三者的視点の二つで、彼らの置かれた状況を見ることが出来るようになっている、ということでしょう。また、俳優たちの掛け合いが絶妙で、マンテク演じたチョン・ジェヨンはいうにおよばず、彼の幼なじみヒチョルを演じたユ・ジュンサン、その他さえない親父たちを演じたすべての俳優たちの性格づけ一つ一つが、素晴らしいものになっています。ヒロイン、ララ演じたスエも、驚くほど力強い演技を見せ、ララが実は不法滞在者であるという設定も、物語に深みを与えました。彼女は地元警察官からの追求を逃れるためマンテクをスケープゴートにするのですが、そのことを脅えながら後悔するララと、何も知らず必死で街中を逃げるマンテクの姿は見事な対比をみせ、大変な名シーンになっています。

 監督のファン・ビョングクは日本と縁の深い人物ですが(日本映画学校の卒業生)、過去の松竹喜劇の名作を思わせる端正な映画作りが、これからも韓国で輝いてくれることを心から願いたいと思います。とにかく傑作です!


『ユゴ 大統領有故』 (再掲)

原題:その時、その人々
2005年執筆原稿

 韓国の歴史を語るとき、まず外せないのは三国史時代であり、李氏朝鮮時代であり、戦後の朴大統領統治の時代だろう。特に朴大統領の時代は、それほど昔ではなく、色々な部分で韓国と日本の関係が密接な時代だったから、ある程度の年齢層の日本人にとっては、韓国のイメージそのもの、といっても過言ではない。

 この『ユゴ 大統領有故』は、政治的横槍が入り、一部修正した形で上映されたことは、日本のマスコミも大げさに報道したので、ご存じの方も多かっただろう。このことは、作品を監督したイム・サンスの世代にすれば、まさに青春の思い出、トラウマを踏みにじられた気がしたのではないだろうか。ちなみに彼は1962年生まれ、延世大学卒業となっているから(延世大学は大学運動のメッカだった)、多感な十代を過ごした時期は、朴大統領暗殺から全斗煥のクーデターによる政権奪取という激動の時代に重なる訳だ。だから、ニヒリストの雄、イム・サンスにしてみれば、生涯一度は立ち向かうべく題材だったことは想像にかたくない。

 しかし、肝心の映画はどうであったかと言えば、ごく普通のブラック・コメディといった感じで、衝撃的もしくは画期的とはとてもいえない出来映えだ。朴大統領の暗殺、というネタ自体は、十年以上も前に、韓国のキー局が競い合う形で、かなり突っ込んだTVドラマを製作していたし、映画では既に『大統領の理髪師』が朴政権の終焉を克明に描いていたから、それほど画期的な題材とはいえないだろう。イム・サンス作品として観ても、前作『浮気な家族』、前々々作『ディナーの後に』の方がよっぽどエキセントリックだし、カン・ウソク監督の『シルミド/SILMIDO』の方が、数倍は衝撃的だ。ゆえに、この作品は意欲的ではあったものの、出遅れた感のある企画でもあり、特にイム・サンスの作家性に注目している人からすれば、期待外れな作品といっていいだろう。

 映像は非常に凝っていて、時代性の再現については『大統領の理髪師』よりも優れているし、一般庶民と桁外れにかけ離れた大統領一派の贅沢ぶりは、現代韓国の貧富の差や社会的不公平といった問題提起に通じる。また、頻繁に登場する日本語の台詞が、何をいっているか、さっぱりわからないところなどは、リアリズムよりも、映画における記号的意味合いを重視しているようで、特別な意図があったのかもしれない。

 冒頭の差し替えられた部分が、どういう内容であったか推測するしかないが、当初予定していたバージョンが、今回上映された改訂バージョンよりも、格段に優れた作品であったか、否かについては、あまり期待できないようにも思う。なぜなら、朴大統領暗殺とそれを巡るエピソードは、厳粛な事実として、新しい発見や解釈、といった形で表現することは、まだ難しいからであり、この映画もまた、そこら辺の壁を越えられず、大勢が右往左往しているだけの浅い群像劇で終わっているからだ。それは、私のような外国人の目から観ると、もっと遊んでもよかったのではないか、という物足りなさが漂う原因になっているし、そのことは逆に、この作品が、案外、韓国の世論をかなり気にして作られた作品なのではないだろうか、ということなのである。だから、これに数分、別のカットが付加されても、劇的に変わることはないと思う。

 この作品が修正を強要されたことについては、イム・サンスら製作陣からすれば、自分たちの映画が横槍で汚された、ということ以外に「何で今さら、俺たちだけが!」といった気持ちも、かなりあったのではないだろうか。

 この映画には、はっきりとした主人公は存在しない。誰が主人公かといえば、原題のタイトル『その時、その人々』の「その人々」全員が主人公なのであり、表向きの主演格は、キム部長役のペク・ユンシクと、チュ課長演じたハン・ソッキュなのかもしれないが、本当のキーマンだったのは、暗殺される大統領を演じたソン・ジェホと、晩餐館執事役のチョ・サンゴンだろう。

 実際の朴正煕大統領とは全く正反対なイメージのソン・ジェホが、肝心の大統領を演じたことは、この作品の大きな狙いだったろうし(イメージの差異から生まれる皮肉ということ)、すべてを達観して見越しているような執事こそ、実はこの作品における神の視線の担い手だったように見えた(彼はヘゲモニー争いに関係ない立場にもかかわらず、暗殺事件には、直接関係せざるをえない立場にある。また映画は主観カットが極めて少ない)。

 結論として、この『ユゴ 大統領有故』は、イム・サンス作品の中では、つまらない方だし、外国人からすれば、当時の出来事に原体験がない限り、蚊帳の外な映画だろう。しかし、朴大統領が、色々な形にアレンジされて語られ続けるということは、これからも非常に重要な事なので、この作品での騒動を契機にして、馬鹿げた政治絡みの干渉がなくなることを願いたい。


Copyright © 1998- Cinema Korea, All rights reserved.