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Review 『絶対の愛』『天軍』
『卑劣な街』『強敵』

Text by カツヲうどん
2006/9/17


『絶対の愛』

 キム・ギドクといえば、今では泣く子も黙る大監督。日本でも崇めている人が大勢います。でも、数年前の彼の知名度を考えると「どうして?」という疑問も。時代が映画に追いついた、といえなくはないのですが、どこか釈然としないものがあります。キム・ギドク作品の魅力はあまりにも個性的、あまりにもストレートな個人的感性が投影されていることでしょう。時折行過ぎてギャグだか何だか判別しがたいことも多いのですが、それもまた一つの味わい。ここ最近、今までの鋭角さが薄れ、妙に淡々とした心温まる作品が増えたように思えるキム・ギドクですが、この『絶対の愛』は久々にちょっと前のキム・ギドクに戻ったかな、という印象の作品でした。

 映画は美容整形の現場を執拗に観せるところから始まります。人によっては「うぇっ」と思うでしょうが、この苦痛感の共有こそ、この後に続く男女のエキセントリック過ぎる恋愛の伏線に繋がって行きます。「愛することは相手の全てを許すこと、受け入れること」だとはよく語られる定義です。でも想いが募り過ぎると、愛情は勝手な我がままに暴走し、相手との距離を空けてしまうばかりでなく、修復不可能な深い亀裂まで発展してしまうこともよくあることです。本作品に登場するカップル、ジウ(ハ・ジョンウ)とセヒ(ソン・ヒョナ)は、長い付き合いゆえか、自然であった関係がある日突然不信感へと変わり、それを元に戻そうと奔走しますが、救いようのない結末を迎えてしまいます。

 キム・ギドク久々の、男女の純愛を描いた『絶対の愛』を観にいって、ドキリとした人も多かったでしょう。この映画が他の韓国映画と違うのは、愛するゆえに人目はばからず自我を発露させてしまう人間のみっともなさをこれでもか、これでもか、と描いていることです。ただ、他のキム・ギドク作品同様、やりすぎというか、登場人物の行動があまりにもストレート、エキセントリックなので、韓国の映画館は失笑の連続。でも、これは映画の演出がすべりまくったというよりも、赤裸々な人のエゴが同情を含んだ照れ笑いを生んだ、と解釈しておきたいと思います。

 さて、キム・ギドクが「今後、自作を韓国で公開しない」宣言をして、ちょっと話題になりましたが、この宣言の背景には、祖国・韓国に裏切られたという気持ちがあったのではないでしょうか? ご存知のように、彼は約十年間に渡り、その独特の感性で、低予算ながらコンスタントに映画を撮り続けてきました。彼のような監督が生き残ることが難しい韓国では、そんな彼に「ミラクルだ」と賞賛を送る人はたくさんいたのです。でも、その様子が変わり始めたのが、キム・ギドクが海外で高い評価を受けるようになった頃。彼の映画に海外の資本が入り始めると共に、表向きは彼のことを高く評価しながらも、彼に対する韓国内の評価は冷たくなってきたような気がするのです。それまでは韓国内資本で、韓国の観客相手に映画を作ってきたキム・ギドクですが、海外合作になると「海外販売で収益の辻褄を合わせる」という大前提の興行に変質し、海外の映画祭で幾つも賞を取り、著名になったからといって、韓国内での興行が劇的に変化したかといえばそうでもなくて、ここ数年の異常な映画館の増加率を考えれば、逆に彼の映画がきちんと上映される機会は減っているのではないでしょうか?

 これはどういうことかというと、韓国映画界が彼を「国内商売にはならないから、外交用の顔として祭り上げておけ!」という風に扱い始めたともとれる訳です。私は監督本人と会ったことはありませんが、彼は愛国心がとても篤く、自国の人に自分の作品が純粋に受け入れられて評価されることを、一番気にしている人物なのではないでしょうか? そんな彼に、ここ最近、韓国のことを全く知らない外国人がやって来て「お金を出すから映画を撮りましょう」と申し出てくる。でも撮った作品は、韓国内で申し訳程度の上映、世論の評価も昔に比べてなんとなくよそよそしい。そんなことが重なって先日の騒動が起こったのではないかと考えるのです。

 自分の作品が海外で認められ、海外からの投資を受けられる、これはこれで名誉なことですが、韓国の映画監督は、自国民にどれだけ認められるか、受け入れてもらえるか、ということを本当はとても悩んで気にしているのではないかと、最近、何人かの監督と話していて気がつきました。昔から彼の作品が気になって、それなりに追っかけていた私ですが、自分を含む外国人がキム・ギドクを高く評価する、それは意外にも、監督自身の幸福ではなかったのではないか?ということなのです。

 無論、これらは私の勝手な憶測に過ぎません。でも、そろそろ、外国資本が入っていないキム・ギドク作品を観てみたい。それこそ、彼の原点ではないか?とも考えるのです。


『天軍』

 この作品は、民族主義的なメッセージを色濃く含んだエンターテイメントだ。だから、一部の日本人にとっては不愉快だろうし、問題視する人も出てくるだろうが、韓国では日常茶飯事のことであるし、あくまでも自国民へ向けたメッセージなので、日本人としては、あまり神経質になるべきではないだろう。

 内容はあくまでもコメディ&アクション。李舜臣を大きく扱いながらも、日本の会社が投資していることもあってか、デリケートな部分は微妙に避けているところが、逆にほほえましい。ただ、その分、この手の韓国映画にありがちな「壮大なトホホ」がないので、物足りない感じがした。ネタ的には韓国版『戦国自衛隊』といった風情だが、日本とは違って、朝鮮半島を舞台にした場合、民族の存亡を賭けた物語にならざるを得ないところが、日本と韓国の地理的条件の違いから来る決定的な差だろう。『戦国自衛隊』の場合、歴史を変えられるか否かの微妙な戦力で過去に送り込まれた現代人たちが歴史を変えうるかという「if」を描いていたが、『天軍』の場合は、最初から歴史を変えようなどと、大それたことは誰も考えない。むしろ、そんなことはどうでもよかったようだ。タイムスリップした部隊は規模も装備も貧弱で、核爆弾一発(たぶん戦術核)も一緒だが、433年前の中国・朝鮮半島の辺境が舞台では、仮に核爆弾を爆発させても、あまり歴史に影響があるとは思えず、そのためか、映画の中でも核爆弾はすぐ脇にうっちゃられてしまい、物語が緊迫感に満ちた核爆弾奪取を巡る現代のエピソードから、1572年にタイムスリップした途端、映画は、緩慢な今昔漫談と化してしまう。

 この映画にひねりがあるとすれば、現代韓国軍の軍人たちが李舜臣を発見し(ちなみに北朝鮮の軍人は誰も彼を知らない)、保護しようとすることで、危機的な歴史改変を阻止する、という部分だろう。危険な歴史改変に機運を賭ける日本の『戦国自衛隊』とは視点が逆であり、過去に対する日韓両国の大きな隔たりを感じさせる。女真族の侵略から人々を守るには、民衆を団結させ、軍隊を指揮できる李舜臣の力が必要だが、万が一にも彼が戦死してしまったら、後世、秀吉水軍との戦いに致命的な影響を及ぼしかねないため、現代人たちが、そのジレンマに四苦八苦する様子を映画は描いている。この英雄、李舜臣が、いじけた田舎の若隠居と化している姿はユーモラスで斬新、視点の新しさを感じさせる部分でもあるが、立場が微妙なので劇中大活躍とはいかないところが、ちょっと歯がゆい。

 この『天軍』は、『千年湖』と同じ中国のスタッフが撮影に参加していることもあってか、女真族の描写はよくできているが、戦い自体は小規模な局地戦なので、全体的なスペクタクル感には大きく欠け、こじんまり感が避けられない。また、現代人たちが女真族にクレイモア対人地雷を仕掛けたり、仁王立ちでM16やAK小銃を乱射したりするさまは、わかりやすいけども、工夫が足りず、もっと知恵を使った戦いを見せてほしかったところだ(どうせなら、豊臣秀吉麾下の日本軍と、韓国・北朝鮮連合部隊が正面からぶつかる、といったネタのほうが映画的には面白いとは思うのだけど、今のご時勢では当然無理である)。

 出演者は豪華といえば豪華、地味といえば地味といった、通好みの配役だ。そのかわり、主演不在の感はまぬがれない。『黄山ヶ原』で百済のケベク将軍を好演したパク・チュンフンは、今回も闊達な役作りを見せてくれる。ある種の風格さえ漂い、その新しい李舜臣像は魅力的だが、他のメンツが物足りない。韓国軍パク少佐演じたファン・ジョンミンは、役柄自体がシナリオ的にきちんと練れていない感じで、なんだか煮えきらないし、韓国軍側の配役は全体的にはっきりしないキャラクターだ。逆に目立っていたのが、北朝鮮軍側のキャラクターだろう。特に少佐ミンギル役演じたキム・スンウは、ステレオ・タイプのキャラではあるものの、正義感に燃える(といっても一番のトラブルメーカーは彼である)愛国主義者を熱演しており、切った張ったの大活躍を見せる。紅一点、韓国の核物理学者スヨン演じたコン・ヒョジンは、残念ながら、あまり適切な使い方をされていない。彼女もまた、ペ・ドゥナと同じく、韓国の映画界では実力不相応の扱いを受けているように見えるが、どこか日本の企画が彼女を抜てきしないだろうか? 彼女の持つ三枚目ぶりとカリスマ性は、女優としてかえがたい個性であると思うし、それを活用できる可能性は、十分日本にもあると思うのだが。

 この『天軍』は、お茶濁しのコメディではなくて、『シュリ』のようなシリアスな作品として撮った方が、より面白かったのではないかと思う。事実、韓国の劇場では、映画のハードな始まりと終わりに観客は沸き立っていたし、おきまりとわかっていても、感動出来るものだった。しかし、映画のほとんどを占める部分は、なまぬるいコメディをだらだらとやっているだけあり、結局は李舜臣も核弾頭奪取も、現代の軍隊と女真族の戦いも、どうでもよいものになってしまっている。SFの分野は、韓国のサブ・カルチャーが最も弱い分野だが、オリジナリティはなくとも、もっと性根をすえてシリアスなドラマにすれば、『天軍』は大きな可能性を秘めた企画だったと思う。そう考えると非常に残念だし、それが出来なかったところが、韓国国内市場を巡る難しさであり、韓国のクリエイターたちの恵まれない部分なのかもしれない。


『卑劣な街』

 この映画、実はヤクザ映画でもアクション映画でもメロドラマでもなくて、そういったジャンル分けをして観てしまうと、中途半端な印象を受ける作品でしょう。でも、ユ・ハ監督の人間観察眼というものを、今までの彼の作品群から抽出して重ねることが出来るならば、『卑劣な街』という映画は、作家性に富んだ滋味溢れる作品として、きっと楽しめると思います。

<物語>

 ピョンドゥ(チョ・インソン)は、組織の若頭として組の下っ端をまとめる立場ですが、その実態は、企業化した組の尻拭いをすること。街金の取立てが主な仕事であって、時には激しい抗争に巻き込まれることはあっても、地味でうだつの上がらない日々。堅気として生きてゆこうとも、ヤクザとして生きてゆこうとも、明るい未来が見えない人生です。ソウルにある実家では、病弱な母と、学生の妹、弟が暮らしていて、ピョンドゥが大黒柱として面倒を見ていましたが、再開発で立ち退きを迫られていました。

 そんなある日、組のトップであるファン会長(チョン・ホジン)から、目障りな司法検事を秘密裏に始末するよう依頼を受けます。その依頼に悩むピョンドゥでしたが、腹心の部下チョンス(チン・グ)と計画を実行、成功させます。しかし、彼はこの事件をきっかけに、野心に狂いはじめるのでした。手始めに、口うるさい兄貴分のサンチョル(ユン・ジェムン)を部下たちと共に手にかけます。ピョンドゥは組のナンバーワンとしてのし上がってゆきますが、殺伐とした生活の中に安らぎは無く、ほっと一息つけるのは、かつての同級生たちと酒を酌み交わすときだけ。

 一方、ピョンドゥの旧友で、今は映画監督のミノ(ナムグン・ミン)はスランプに苦しんでいました。準備中のヤクザ映画の脚本が思うように進まず、悩んでいたのです。かつての親友ピョンドゥが、現役のヤクザであることを知ったミノは、彼に実地取材を申し込みます。純粋な友情から快くその申し出を受けるピョンドゥ。彼と部下たちは積極的にミノに協力しますが、気を許したピョンドゥは検事殺害のことを話してしまうのでした。

 それから数ヵ月後。ミノのヤクザ映画は遂に完成し、大ヒットを記録します。ミノは一躍時の人になりますが、その映画を観たピョンドゥは我が目を疑ってしまいます。そこには、彼が手を下した検事殺害の様子が、忠実に再現されていたのでした。友の裏切りに激昂したピョンドゥでしたが、警察も彼をマークし始めます。追われるピョンドゥを尻目に、暗躍を始める腹心チョルス。やがてピョンドゥは、自分が組織のシッポとして切り捨てられる運命にあることを嫌でも知らされることになるのです。

 この映画を観て、改めて認識させられたのは、ユ・ハ監督が描く男性像のリアルさです。男性のやさしさは、弱さの裏返しでもあって、それがあるゆえに自滅してしまう情けなさ、というものを、この『卑劣な街』の中でも描いてゆきます。それは逆説的な男らしさの表現でもあって、チョ・インソン目当てで映画を観に行った女性客より、そうではない男性客の方が、そのことに気がついたのではないでしょうか。『情愛』にしても『マルチュク青春通り』にしても、男性の愚かさを鋭く描いていた点は同じでしたが、今回は前二作よりも、その視点が明確に出ていたと思います。

 また、ユ・ハ監督描く暴力描写も、彼独特のもの。ただ激しいばかりではなく、争いへ至る精神的プロセスというものが、男性特有の幼児性から来るものであることを、この作品でも表現しているように思えました。その格好悪く、無秩序に激しいバイオレンスと、音楽センスのよさは、まさにユ・ハ監督演出の特徴といえるでしょう。

 この『卑劣な街』という作品は、冒頭におけるヤクザの日常描写が、マーチン・スコセッシ監督作品『グッドフェローズ』へのオマージュを連想させますが、それよりも象徴的に描かれていたのが、劇中におけるヤクザ映画のエピソード。これはクァク・キョンテク監督の『友へ/チング』で起こったという恐喝事件を元にしているようで、韓国映画界への痛烈な批判になっています。

 主演のチョ・インソンはテレビドラマ『バリでの出来事』で、素晴らしい演技を披露しましたが、今回も他の映画同様どういうわけだかパッとしません。演技自体は悪くないし、彼が同級生たちと会っている時の空気感の変わりようなど、素晴らしいものがあるのですが、テレビに比べるとあまりにも冴えないのです。他のヤクザを演じた俳優たちも、カリカリしたハングリーさが欠落していて物足りませんが、企業化している現在のヤクザ像とは案外こういうものなのかもしれません。

 この『卑劣な街』は、メジャーを装った純然たる作家作品であり、観て物足りないという印象を受けた人も多かったと思いますが、ユ・ハ監督の前二作を改めて見直すことで、その真意と価値が見えてくるのではないでしょうか。


『強敵』

 2006年前半の韓国映画は、クライム・アクションがダンゴ状態で公開されました。この『強敵』もそんな一本、犯罪者と刑事がひょんなことからタッグを組んで巨悪に立ち向かうというストーリーはまさに王道、悪く言えば三番煎じの内容。ウォルター・ヒル監督の代表作『48時間』になんだかよく似たプロットですが、アクションやコメディというよりもフィルム・ノワール、実に暗い物語になっています。

 最初から最後まで、手持ちカメラ中心の構図に、凝ったスピーディーな編集で映画は進行してゆき、こだわった映像の連続ですが、格好いいというよりも、ただ観る側を混乱させるばかり。各々のキャラクター描写が脆弱なこともあって、多くの観客は映像の渦に振り回されていただけだったのではないでしょうか?

<物語>

 重犯罪捜査課の刑事ソンウ(パク・チュンフン)は、重病の一人息子を抱えた独身男。張り込み中に気の緩みから現場を離れてしまいますが、その間に事件が起こってしまいます。突然現れた組織の殺し屋チョルミン(キム・ジュンベ)が現場にいたチンピラたちの口封じついでに、ソンウの刑事仲間たちを圧倒的な力で蹴散らし、ソンウの相棒が巻き添えを食らって命を落としてしまったのです。

 同じ頃、ラーメン専門の粉食屋を営む元ヤクザのスヒョン(チョン・ジョンミョン)のところに、旧友のヤクザ、チェピル(チェ・チャンミン)から、敵対する組織の幹部を脅して欲しいという依頼を受けます。彼を心配して恋人のミレ(ユ・イニョン)は止めようとしますが、スヒョンは身代わり殺人の計略に巻き込まれてしまいます。彼は激しい逃亡の末に警察に捕まりますが、真相を探るべく狂言自殺を実行し、警察病院に移送されます。そして偶然居合わせた謹慎処分中のソンウを人質にして、救急車で脱走しますが、警察とカーチェイスを繰り広げた挙句、車は電車に接触し大クラッシュ。何とか命を取りとめる二人でしたが、ソンウは自らの拳銃を頭に突きつけ、スヒョンに「自分を殺せ!」と迫るのでした。実は彼、今回の騒ぎに便乗して死ぬことで、自分の殉職手当てを息子の手術費用に充てようと考えたのです。

 お互いがのっぴきならない立場に追い込まれていることを知った元ヤクザと、はみだし刑事。スヒョンは全国指名手配され、ソンウは立場的に被害者となってしまいますが、警察に協力を仰ぐことはできません。組織もまた、スヒョンの口封じに動き出し、旧友のチェピルも裏切られてチョルミンに消されてしまいます。ソンウとスヒョンにとって、今頼りになるのは、お互いだけでしたが、危機を乗り越えるうちに、二人の間に奇妙な連帯感が芽生えてゆきます。

 この『強敵』において、監督のチョ・ミノが描きたかったのは、アクションということよりも、立場こそ違え、ヤクザも刑事も、私生活で悩み苦しむ普通の人間である、ということだったのかもしれません。身分や立場はどうであれ、皆どこかみっともなくて、最も漫画的なキャラの殺し屋チョルミンでさえ、圧倒的に強くても痛みを感じる人間であり、決して無敵ではないのです。また、チョ・ミノ監督は、この映画に、かつて若い時分に懐いた鍾路のイメージを重ねて描いたとの事ですが、確かにここで描かれたソウルの街は、生活臭漂う、ちょっと懐かしい韓国の光景を思い起こさせます。

 スヒョン演じたチョン・ジョンミョンは、今回のようなハードな役柄は全く似合わない俳優だとは思うのですが、凶悪になりきれないスヒョンのやさしさ、純朴さというのが良く出ていますし、身体のこなしは素晴らしいものがあります。逆にチェピル演じたチェ・チャンミンは、狡猾さや冷酷さがよく出ていて、キャラ的にはチョン・ジョンミョンと対照的、これから悪のバイプレーヤーとしても活躍できそうです。人間ターミネーター、チョルミン演じたキム・ジュンベと、さえない女刑事ファン演じたファン・ソッチョンの二人は、とても個性的で今後の活躍を期待したい俳優たち。ソンウ役のパク・チュンフンは、後輩たちのバックアップに徹した感じであり、スター俳優の遷り変わりを感じさせます。

 2006年度は、似たようなクライム・アクションが連続して公開されてしまったため、『強敵』にとっては、かなり歩の悪い状況でした。また、全体的に話が小振りであり、他の作品を押しのけて観客に注目されるには、ちょっと力不足だったようです。


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