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第10回(2005)釜山国際映画祭 鑑賞作品Review

Text&Photo by 井上康子
2005/11/13



『トンマッコルへようこそ』

 朝鮮戦争の時代をファンタジー・タッチで描いていて、たいへん斬新な作品だ。観客動員800万人突破という大ヒット作品だが、朝鮮戦争という重い歴史的出来事を題材にしながらも、その時代をファンタジー・タッチで描いた点が注目を集めたことが、ヒットの要因のひとつになったことは間違いないだろう。

 朝鮮戦争中の激戦期。米軍兵士のスミスは偵察中の飛行機が墜落してしまうが、山深い谷にあるトンマッコルという村に住む、知的障害がある純真無垢な少女ヨイル(カン・ヘジョン)に発見され、村の人に助けられる。また、北朝鮮人民軍のリ・スファ(チョン・ジェヨン)たちと、韓国軍のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)たちも、村に流れ着くという偶然のいたずらで、三者が鉢合わせしてしまう。

 南北の兵士たちは互いに銃を向け合い、一触即発状態に陥ってしまうという冒頭はリアルだ。ところがこの時、ヨイルが、無邪気に爆弾と知らず、手榴弾を誤発させてしまう。穀物庫が爆発し、そうしたら、なんと、貯蔵されていたトウモロコシがポップコーンになって、雪のように降って来て、村人は大喜びで、兵士たちは完全に意表を突かれてしまうという展開で、一挙に、この作品独特のファンタジーの世界へと導かれることになる。その後、兵士たちは、敵味方に対立した緊張関係を引きずりながらも、村人と農作業をし、そり遊びに興じと、無垢な村人との時間を過ごす中で、戦争の傷を少しずつ癒され、厳しい兵士の顔から、優しい顔へと変化していく。

 「トンマッコル」という名前は、「子供が無邪気にその日を過ごして行く」という意味の韓国語に由来してつけられた地名のようだ。名前の通り、トンマッコルに住む人たちは、ヨイルがその最も象徴的な存在であるが、無垢で純粋な人々だ。一方、ここにやって来た兵士たちは、戦闘に参加したことで、それぞれが、重い過去を背負っている。回想シーンで、ヒョンチョルは上官に命じられて、避難中の一般人を、老人や無垢な子供たちも、殺害してしまったということに苦しんでいることが知らされる。無垢な人々が殺されてしまうこと、無垢な人々を殺さなければならなかったこと、そのことを、この作品では戦争の悲しみとして強く訴えている。

 また、銃を見たこともない村人に、兵士が、自国民が対立して戦争中であることを説明すると、村人は「何で、同じ国の者同士が戦わないといけないんだ?」と問いかけるのだが、これらのせりふによって、朝鮮戦争が、自国民同士の戦争であったという特異な悲劇性を持つこと、同じ国の者同士が対立すべきでないことを、素朴に主張している。

 後に、村の少年が暴走したイノシシに追いかけられるという事件が起きるが、それまで、敵味方の緊張感を引きずっていた兵士たちは、協力してイノシシを倒し、無垢な存在である少年を救い出すだすことに成功する。ファンタジーであるこの作品では、こういうほんわりした独特な表現であるが、今度こそは無垢な人々を守らなければならないし、今度こそは自国民同士が対立せずに協力しなくてはならないと伝えている。

 結末では、イノシシに次ぐ、巨大な敵として、米軍兵士スミスを救出しようとする米軍が村を攻撃し、トンマッコルの人々を守るために、南北の兵士は協力して捨て身で戦うことになる。なぜ、米が敵なのかという批判もあるようだが、ストーリー展開上、それなりにリアリティがある存在として選択されたということに尽きるのだろう。

 俳優は、演劇経験のある者を中心としたキャスティングがされており、演技は、村人たちを演じた俳優たちの演技も含めて、全体的にとても安定している。チョン・ジェヨンは軍人の毅然とした姿が、シン・ハギュンは人を殺したトラウマに苦しむ姿がうまいが、中でも、カン・へジョンは無垢という難しい設定を一瞬の表情で表現していて魅力的だ。

 もともとはチャン・ジン監督による舞台劇であった作品を、パク・クァンヒョン監督自身がファンタジー性を強く出すことを意図して書き直し、シナリオが作られている(パク監督は、チャン・ジンが企画&製作&脚本を担当したオムニバス映画『ムッチマ・ファミリー』の中の一本『僕のナイキ』を監督している)。パク監督は大学で視覚デザインを勉強したというだけあって、特に映像は徹底的に凝っていて斬新だ。子供が走り、蝶が舞う、絵本の世界のようなトンマッコルが、みずみずしい映像で表現されている。そこに、ファンタジー作品の経験の多い、日本の久石譲が担当した悲しみを含んだ暖かみのある音楽が、重なることで、トンマッコルという空間にぐいぐい引き込まれていく。

 このこともヒットの要因なのだろうが、戦争で傷ついた兵士でなく、疲れた現代人が見ても、情緒を揺さぶられ、あのトンマッコルに身を置きたいと感じさせるだけの世界がここでは巧みに描かれている。



『ラブ・トーク』

 長編デビュー作『チャーミング・ガール』が、昨年の釜山国際映画祭で最優秀アジア新人作家賞(ニューカレンツ賞)を受賞し、海外でも高く評価されたイ・ユンギ監督の長編第2作。

 『チャーミング・ガール』で、心に傷を持つチョンヘの内面をていねいに描き、孤独な彼女に寄り添うような監督の温もりのある視線を感じたことが印象的で、次の作品を期待していた。本作も、前作のように、心に傷を持ち、自分の心を開いて他者とコミュニケーションすることが困難な人の孤独をテーマとして扱っており、このテーマへの監督の関心の高さが伺える。『チャーミング・ガール』では、チョンヘの内面を、チョンヘが一人で過ごす日常を追うことで描いていたが、本作では、3人の男女の内面を、彼ら相互と、彼らを取り巻く人々との淡い交流を通して、浮き上がらせている。

 『ラブ・トーク』の舞台はロスアンゼルスだ。ロスを舞台にしているのは、監督自身の留学経験(南カリフォルニア大学への留学経験を持つ)が影響しているのだろう。米国の大都市であるロスでは、何事も言語できちんと表現しなければ他者とコミュニケーションが取れず、さらに、母国語でない英語によりコミュニケーションを図らなくてはならず、ロスという舞台が、コミュニケーションの困難さをもたらす場として、作品全体に大きな効果をもたらしている。

 主な登場人物は、心の傷を抱えて、ソウルからロスにやって来た3人、ソニ(ペ・ジョンオク)、ヨンシン(パク・チニ)、ジソク(パク・ヒスン)だ。高級マッサージ・ショップを経営するソニは、お金を稼ぐためにアメリカに来た人物だろう。客の求めがあれば、お金のためと割り切って、顔色一つ変えず、セクシャルなマッサージもこなすことができるが、常連客に外で声をかけられると身構える彼女は痛々しい。ヨンシンは心理学の博士課程で学ぶ留学生で、「ラブ・トーク」という恋愛についての電話相談を受けるラジオ番組で、カウンセラーの役割を持つ進行者をしている。たいへん知的な女性だが、父親が別の女性を愛して、母親と自分を捨てたことが心の傷になっている。ジソクはヨンシンのソウル時代の恋人だった人物で、明確な目的なく、ロスに来て、ソニの家に間借りをして、レンタル・ビデオ店でアルバイトをしている。

 そして、「ラブ・トーク」というタイトルの通り、3人の人物の愛にまつわる話が繰り広げられていく。ソニはマッサージ・ショップの警備をしているランディと、ヨンシンは大学の先輩で、妻子ある男性と、ジソクはダンサーのアリスと交際しているが、それらの交際は空虚で、彼らの孤独感をさらに深めるものになってしまう。ソニは、一時は愛し合ったが、暴力を振るうようになった夫から逃れて来た経歴があり、ランディに決して心を開かない。二人の関係はセックスのみのものだ。ソニは年下のランディの態度に、ソニに依存しようとする思いを感じて、酒を請う彼を拒絶し追い出す。ヨンシンは、ホテルでのセックスの後、男にお決まりのように「今から、何を食べようか?」と尋ねられ、男が肉体的な欲求のみで自分を求めていると感じて、激昂して、彼を部屋から追い出す。ジソクはヨンシンとの偶然の再会に動揺し、彼女に愛情を感じるのだが、逃避してしまう。

 ジソクについては残念ながらあまり感情移入して見ることができなかったが、女性たちが登場するシーンを見ていると、前作でも感じたことだが、脚本も書いている監督の、女性の心理描写の巧みさを感じさせられる。また、本作のテーマである登場人物たちの抱えるコミュニケーションの困難さも的確に表現されており、監督の力量を感じさせられる。

 この作品に貫かれている雰囲気は、孤独を耐えている人々の緊張感のようなものだ。例えば、夫に捨てられたヨンシンの母親は、ヨンシンと共にロスで暮らしているのだが、英語ができず、韓国のテレビ番組を録画したビデオを借りて観ることを日課にしている。洗濯機が壊れても、対応は英語ができるヨンシンに任せるしかない。それらが、ヨンシンと母親との、淡々とした感情を抑えた会話を通して伝えられることで、彼女たちの緊張感と、そして、同時に、孤独を抱えていくしかないという毅然とした態度をも伝わってくるのだ。

 結末で、ある事件のため、米国に留まることが困難になったソニはソウルに戻るが、初冬のソウルに暖かいロスから薄着で戻ったソニは、ここでも異邦人のように孤独に見える。しかし、彼女は少し緊張した顔でジャケットを羽織ると、毅然と歩き出し、希望を感じさせてくれる。ソニを演じたぺ・ジョンオクは経験豊かで自立した女性の貫禄と孤独を抱える緊張感を共にうまく表現している。

 監督は「孤独」というテーマを、希望を持った視点で描こうとしており、韓国映画界では新しい独自の存在感を持っている。また、本作を見ていると、商業性も意図して、作品の中に消化してしまえる能力をもつ人だということも伺え、息の長い活躍が期待できそうだ。



『ユア・マイ・サンシャイン』

 老夫婦の愛情を、性愛も含めて描き話題を呼んだ『死んでもいい』でデビューし、人権をテーマにしたオムニバス映画『もし、あなたなら〜6つの視線』の中の1本『神秘的な英語の国』を撮ったパク・チンピョ監督の長編第2作。エイズに感染した女性と、感染がわかった後も、変わらず、彼女を愛した男性の愛の話だ。

 監督は、テレビ界でプロデューサーとしてドキュメンタリー作品を多く手がけた経験を持ち、前作も実在の老夫婦を登場させ、ドキュメンタリー・タッチで作品を撮っているが、本作も実話にもとづく作品。第1作で、老人の性愛を、本作で、エイズ感染者の恋愛を取り上げたパク監督は、社会の中で偏見の対象になり易い愛を描こうという意図を持っていることが感じられ、その点に興味を引かれて観たいと思っていた作品だ。

 農業を営む36歳のソッチュン(ファン・ジョンミン)は寂しい独身だ。業者の斡旋によるフィリピン女性との結婚を望んだこともあるが、結婚にこぎつけることができなかったという悲しい経験もある。そんなソッチュンがソウルからやって来て、喫茶店で働いているウナ(チョン・ドヨン)に一目惚れする。ソッチュンの家族や友人は喫茶店で働く女(韓国ではある種類の喫茶店で働く女性たちは、男性への接客もしており、水商売の女と見られている)であるウナを蔑視し、彼女の過去を詮索し、ソッチュンをいさめるが、彼にとっては、ウナの職業も、過去も何の問題にもならない。苦労を重ねて、愛を信じることができず、頑な態度を取っていたウナも、不器用だが誠実なソッチュンの愛を信じるようになっていく。そして、ウナが喫茶店の女であるということに、ソッチュンの母が妥協し、めでたく二人は一緒に暮らし始める。

 夢のような時間を過ごす二人だったが、ウナの暗い過去が、突然、二人の前に姿を表し、責任を感じたウナは姿を消してしまう。そして、傷心のソッチュンのもとに、保健所から、ウナが「HIV陽性」という検査結果(作品では、喫茶店の女性たちが男性への接客をするため、保健所での血液検査を求められていた)が出たという知らせが届けられる。さらに、追い討ちをかけるように、ウナが売春行為のため、警察に捕まったということが判明する。喫茶店で働く女、過去のある女、さらに、エイズ感染者で、売春婦で犯罪者と呼ばれ、世間のウナへの蔑視はこの上ないまでに高まり、それにより、ソッチュンもあざ笑われ、訳知り顔の世間の人々は善意から、ウナとの決別を迫ってくる。

 その時に、ソッチュンが叫ぶのが「彼女は僕の運命だから」という言葉だ。生身の男女が言えば、言葉のみが浮いてしまうに決まっている、無条件に人を愛することを意味するこの言葉を、パク監督は極めて楽観的に、かつ、ストレートに唱えている。にもかかわらず、この作品の中で、この言葉が確かな存在感を持つに至ったのは、不器用だが、何の見返りも求めず、純粋に、ウナを愛し続けるソッチュンという人物が、脚本と俳優の力で、うまく表現されているためだ。

 特記すべきは、何といってもソッチュンを演じているファン・ジョンミンの演技力だろう。アクの強い脇役としての印象が強かった俳優だが、演技力が評価され、主役に登りつめた、韓国映画界で、今、最も旬の俳優と言えるだろう。冒頭の二人の出会いのシーンで、バイクにまたがりコーヒーの配達をするウナとすれ違った瞬間、彼女に見とれて、口をパカッと開けてしまい、歌を聞かせてウナを喜ばせようと、旧式の大型のテレコを首から紐でぶらさげて登場し、クライマックスとなる拘置所でのウナとの面会シーンでは、その直前に、「ウナと暮らせないなら・・・」と衝動的に農薬を飲んだことで、喉を痛め、声を出せなくなっており、かすれた声を振り絞って「ウナ、愛してる」と叫ぶ。ファン・ジョンミンはソッチュンの不器用で格好悪いが純粋なところを、ユーモアをこめつつ真摯に演じていて、格好悪ければ格好悪い程、その姿は純粋さの証となり、キラキラとソッチュンの魅力を高めている。

 チョン・ドヨンは過去を持つウナの悲しみを冒頭からにじませ、エイズ感染者の役に果敢に挑戦しと、相変わらず熱演だが、これまでの彼女の演技の延長にある演技のせいか、ファン・ジョンミンほどのインパクトは感じられない。

 ラストの、拘置生活を終えた(作品中、ウナは自分がエイズに感染していると知り、相手を感染させようという意図も持ちながら売春を行ったとされ、起訴された。裁判の事実認定で、自身がエイズに感染していることを知らなかったと認定されたのに、どうして、一定期間、拘束されたのかは、私の韓国語の能力では聞き取れなかった)ウナを、ソッチュンが韓国映画でお決まりの豆腐を持って迎えるシーンでは、まるで、何事もなかったかのように、朗らかに、車に乗り込む二人を描いていて、限りなく明るいものだ。これは、エイズ感染や、売春という過去も、偏見の対称にさえならなければ、実は何でもないものだ、という監督のメッセージが込められたものだろう。

 韓国の劇場では、ウナをひたすら守ろうとするソッチュンの姿に、女性たちが涙を流して見入り、終了後、私の隣に座っていた女性は、友人に「(あんなに愛されるウナが)羨ましいね」とつぶやいていた。この作品は、韓国で大ヒットし、現在、恋愛映画最多動員記録を持っているが、それは、「あんなに愛されたい」と誰もがあこがれる世界が描かれているためであろう。

 監督が、真に、問いたいと思ったのは「あなたは偏見を持たず、他者を愛せるか」ということだが、強い社会的メッセージを持ちつつ、興行的にも大成功を収めた点にも注目したい。



『ウェディング・キャンペーン』

 今年で10周年を迎えた釜山国際映画祭の閉幕作品。10周年という区切りに、主催者側がすべての観客が楽しめる閉幕作品を選定したとの選定理由が伝えられているが、本当に楽しい作品だった。

 主人公のマンテク(チョン・ジェヨン)は、田舎で農業を営んでいる純朴な38歳の独身男性だ。子供のころ、風呂の覗き見を見咎められ、初恋の女の子に嫌われたことがトラウマになり、それ以来、女性の顔をまともに見られなくなっている。竹馬の友で、タクシー運転手のヒチョル(ユ・ジュンサン)は調子の良い男なのだが、やはり女性に縁がない。そんな折、ウズベキスタンから村にやって来た花嫁を見かけたマンテクの祖父は、業者が仲介するウズベキスタンでのお見合いをマンテクに勧め、マンテクは、彼同様、結婚を願うヒチョルと共に、ウズベキスタンへと旅立つ。

 嫁に来手がない農家の青年が、海外に花嫁を求めるというのは、現在の韓国では現実感の高いことで、映画の素材としては現代的で新しいものだが、これがデビュー作となるファン・ビョングク監督の視点や撮り方に、何か斬新さがあるという作品ではない。けれども、生真面目なマンテクがウズベキスタンに到着してからの、お見合いそっちのけで生じた恋の顛末を、たいへんまじめに、ほほえましく描いていて、好感が持てる作品だ。

 冒頭、夢精で汚れたパンツを家族に見つからないように、こっそり洗っていると、そこに祖父がやって来て、あわてたマンテクは洗濯中のパンツが入った洗面器で顔を洗ってごまかすというシーンから、場内は爆笑の連続。爆笑と言っても、マンテクの純粋さと、マンテクを取り巻く人々の善良さが、きちんと描かれているため、終始、ほのぼのとした心地よい余韻が漂う笑いへと誘ってくれる。

 マンテクを演じたチョン・ジェヨンは、昨年の『小さな恋のステップ』から、今年大ヒットした『トンマッコルへようこそ』、本作まで、主演作が続き、韓国でも最も注目度が高い俳優の一人で、まさに油が乗り切った感のある俳優だが、マンテクを卓越した演技力で演じている。いかにも、田舎から来たおのぼりさんというダサイ背広に、ショルダー・バッグをたすきがけにしたマンテクが、愛する女性の危機を救うため、炎天下のウズベキスタンの町を全力疾走し、ボロボロになって、それでも微笑みながら、彼女の前に現れるのは印象的なシーンだが、彼の演技は全力投球で、真剣そのものであり、だからこそ、笑いと涙を誘ってくれる。

 マンテクに愛される、お見合い業者のスタッフのララを演じたスエは、古典的な容貌で、苦労がにじみ出ているような表情が似合うが、本作でも、大きな困難を抱えた女性を演じている。女性の顔を見ることもできず、緊張から失敗の連続のマンテクを叱咤激励し、「おふくろみたいだ」という理由でマンテクに惚れられることになる、しっかり者の女性を好演している。ユ・ジュンサンも、マンテクの友人で、お調子者のヒチョルを熱演。性格が正反対のマンテクとヒチョルのやりとりは楽しめる。

 マンテクとララの恋愛模様を中心にすえながらも、竹馬の友で、互いにすべての弱点を知り尽くした安心感で堅固につながっているマンテクとヒチョルの友情も、この作品の見所のひとつ。また、昔かたぎの田舎の人の善良さを持つ家族の姿や、マンテクと家族との絆もきちんと描かれており、そのことが、この作品の持つ暖かさを、さらに深みのあるものにしている。


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