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Review 『恋愛の目的』『黄山ヶ原』
『トンマッコルへようこそ』『オオカミの誘惑』

Text by カツヲうどん
2005/9/24


『恋愛の目的』 ★★

 この映画を観た人は、好き嫌いが真っ二つに別れるだろう。目新しさを感じる人、大きく共感する人もいるだろうし、「またかよ」的なマンネリを感じる人、「なにが面白いの?」と反感を感じる人も多いと思う。私の場合、映画が始まると、いやーな予感がした。自然光重視のライティング、端正で色彩配分に凝った画面設定、噛み合わない会話、グラグラの手持ちカメラ、第三者に徹した視線と、どこかの、誰かの、よーくありがちな、頭でっかちスタイルの作品だったからだ。

 しかし、そういう感情論はひとまず置いておくとして、客観的に『恋愛の目的』を見つめるならば、そこそこ個性的な映画であることは間違いない。みどころは、自己中心的な教師ユリムと、教育実習生ホンの、ずれた男女関係だ。お互い、本音と建て前がすれ違い、突拍子もない行動に走ってしまうさまは、それなりにリアルで笑えるし、作品的に個性的な部分だ。ただ、それが本当に面白いかどうかは別問題で、幼稚な会話に、スタイルとして醒めた視点で人間関係を描くふりはしていても、実態はベタな泥臭い人情劇と、そういった矛盾も受け入れられないと、抵抗感もある作品だ。

 この映画の優れてユニークな点を上げるとすれば、教師の立場から描かれた歪んだ学園ドラマ、ともいうべき点だろうか。舞台となる高校はマンモス校なので、生徒数も教員数も、とにかく失笑するほど多く、彼らは、顔の無い「有象無象の大衆」としてしか描かれていない点が印象的だ。また、教師たちのやる気のなさは、大変説得力があり、日本も韓国も教育現場を巡る事情は大して変わらない様子が伝わってくる。この『恋愛の目的』もまた、旧然とした学校教育に対する386世代の恨み節が聞こえて来るようでもある。

 ユリム役のパク・ヘイルは、アイドル然としたキャラからは完全に離別し、性格俳優として新境地を開いているが、太り過ぎがちょっと心配だ。ホン役のカン・ヘジョンは不器用なヒロイン像にピッタリだったが、その前に「このような汚れ役を引き受ける妙齢の実力女優が、韓国では彼女くらいしかいなかったのでは?」という悲しい疑問が先行して、個人的には必ずしも喜べなかった。

 この『恋愛の目的』は、変則的な映画を求める観客には、受け入れられるだろうけど、韓国では年に一、二本は必ず出てくる、ちょっと変わってはいるけれど、よくある、ワンパターンな作品でもあった。


『黄山ヶ原』 ★★★

 660年に行われた「黄山ヶ原の戦い」は、天下分け目、体制の大転換という視点に立つと、日本でいえば「壇の浦の戦い」か「関ヶ原の戦い」と似たようなものだろうか。この戦いの後、百済は滅亡し、大量の渡来人が日本にやってくる直接的な原因となった事、「白村江の戦い」へと繋がってゆく事などから、実は日本の歴史にかなり関わる出来事なのである。だから、古代史に興味ある方々なら、かなり楽しめるテーマの作品だが、反面、現代韓国を取り巻く国際情勢や国内での地域対立ネタ、方言ネタが詰まった映画でもあるため、外国人には、相当とっつきにくい作品にもなっている。コメディの体裁をとってはいるものの、劇中後半は、かなり真面目で重い。

 全編を飛び交う韓国語ネタのギャグは、外国人が直接理解するには、かなり難しいが、仮に字幕を付けるにしても、そう単純には、行きそうにない。もし、日本語字幕を当てるならば、単に、比喩的として関西弁や九州弁、東北弁を当てはめるのではなく、当時の、百済や新羅、高句麗、そして唐の関係を連想させる割り振りをしなくてはならないだろう。ちなみに、私は、唐=アメリカ、高句麗=EUや日本、新羅=韓国、百済=北朝鮮や中近東、なのかな、と見立てていたのだが、これに韓国内の地域問題が加わるのだとすれば、何が何だか、さっぱりわからなくなる。映画は、『MUSA−武士−』のような時代劇アクションの側面もあるから、あくまでも一般的な史劇と割り切った方がいいかもしれない。

 登場する人物は、大河ドラマ故、誰が主人公か、はっきりとは絞りにくい。敢えていえば、百済の義慈王であり、ケベク将軍であり、新羅のキム・ユシン将軍なのだが、決して物語の中心ではない。また、独り城に残された義慈王と百済という国家のその後、そして新羅や高句麗の行く末といった事も、韓国人には当たり前の常識ゆえ、全く描かれていない。ただ、百済人徴兵農民の悲喜劇は、万国共通のものだろうし、ケベク将軍覚悟の出陣は、小説『足摺岬』に登場する、老巡礼のエピソードを連想させ、日本人には、よく理解できるものだろう。

 悲劇の武人、ケベクを演じるパク・チュンフンは、かつて韓国映画の代表的な三枚目スターだったが、大人の色香と貫禄がぐっと加わり、他の出演者を一切寄せつけないくらい、魅力的だ。彼のライバルであり、連合軍側の良心ともいえるキム・ユシン将軍を演じたチョン・ジニョンは、その個性が上手に活かされていない事もあって、かなり割を喰っている。キム・ユシンの役には、もっとベテランの俳優を配すべきであり、ミスキャストだろう。キム・ソナの出番は短く、ゲスト程度だが、キム・スンウとシン・ヒョンジュンは、独立した長い見せ場が設けられており、格別の扱いだ。

 この『黄山ヶ原』は、外国人には超えようのない壁が数多く存在する映画だが、ある程度、方言や歴史を学んだ上で観れば、それなりに楽しめる作品だろう。歴史に関心がある方々にはお勧めする。


『トンマッコルへようこそ』 ★★★★

 ※ 「トンマッコル」は地名で「トンマク谷」を意味します。

 時は1950年、朝鮮戦争の真っ最中。江原道の深い山奥に、時代と世間から取り残されたような邑(=村)がある。しかし、そこは平和そのもので、暮らす人々は貧しいながら、心豊かだ。ある日、白痴のヨイルに導かれるように、外の世界から来訪者がやってくる。ある者は不時着した米軍飛行士であり、ある者たちは北軍ゲリラの残存兵であり、また、ある者は南軍の脱走兵たちだ。おもわぬ場所で鉢合わせした三者は、銃を突きつけ合い、手榴弾をかざしてにらみあう。だが、そのにらみあいが疲労の限界に達したとき、彼らは戦うことよりも、生きることに目覚めてゆくややがてトンマク谷という不思議な場所に平和な生活を見出してゆくが、非情な現実の前に、三者は村を守るべく、強大な敵に立ち向かわざる得なくなる。

 この物語の舞台となるトンマク谷は、一種のユートピアであり、現実と彼岸の境に浮遊する脆い平和共存の象徴だ。しかし、その外側では、難解なイデオロギーを理由に隣人同士が殺しあい、その裏では他国が利権の糸を手繰っている。

 2003年度の韓国映画『黄山ヶ原』は、古代朝鮮三国史をテーマにしながらも、半島の時事を大きく反映させた作品だったが、この『トンマッコルへようこそ』を巡る物語もまた、朝鮮半島の歴史を寓話に置き換えたものといえるだろう。この作品を観終わったとき、私は韓国社会が抱えて続ける「歴史的呪い」といったものを、つくづく考えずにはいられなかった。朝鮮半島社会を考察するとき、その歴史は、外国との戦いの繰り返しであったことを忘れてはならないが、日本人が見落としがちなのは、それが半島内側の激しい戦いの繰り返しでもあった、ということだろう。排他的、民族主義的という言葉が、外国や外国人に対してだけではなく、自国内に対してもあてはまってしまうところが、朝鮮半島社会の難しさであり、何事も予定調和を根底とする日本人にはわかりにくい部分だが、その事を念頭において映画を観ないと、この『トンマッコルへようこそ』は、単なる「いい話」か、訳のわからない「戦争映画」で終わってしまうかもしれない。なぜならトンマク谷という平和な場所こそ、朝鮮半島が抱えるトラウマの象徴であって、その存在の裏に隠されたものを考えていかないと、この映画で描かれた犠牲愛の意味が見えてこないと思うからである。

 どの国においても、社会の大多数を占めるのは、政治的にも、階級的にも、どっちつかずの「灰色」の階層だ。戦争で一番とばっちりを受けるのも、この階層の人々であり、彼らにとって「戦」は「災難」であって、為政者がどんなイデオロギーを掲げようが、どんな正義を標傍しようが、結局は失わされるばかりのものでしかない。唯一出来ることとは逃げることであり、生き残る為には外側との関係を遮断して、自らの存在を抹消してゆくしかない場合もある。そしてそこには、いつか幻の郷里が出来上がってゆく。「トンマク谷」とは、そういった隠れ里であり、それはまさに「韓国的ユートピア」だったのではないだろうかと考えると共に、命を賭けて守るべき心の聖域でもあったのではないだろうかとも思う。

 現代の韓国には、安東の河回村を代表とする昔の様式を残した居住地域が文化財として幾つか残されているが、元々これらの場所は両班たちの学術研究に特化したコロニーであると共に、戦火や政治的争いを嫌った文人たちの避難場所でもあった。「トンマク谷」とは、こうした現実に存在する場所のメタファーでもあり、半島の歴史の中で争いに戦火に追われ続けて来た普通の人々の求める桃源郷だったのではないか、ということなのである。

 さて、この作品を監督したパク・クァンヒョンは、短編映画集『ムッチマ・ファミリー』の第二話『僕のナイキ』で、抜きん出たセンスを見せてくれた人物だが、今回、その実力が本物であることを証明した、といえるかもしれない。CMをこなしていた監督らしく、シズル感と詳細なディテールにこだわった映像美、バランスのとれたVFXの使い方、非常に現代的なスタイルと、現代韓国映画界の中でも、注目すべき人材の一人だろう。

 出演者陣も、チャン・ジン組実力派を中心にした、とてもいいキャスティングだ。中でも、ピカイチなのは、ヨイルを演じた、豊かな表現力のカン・ヘジョンと、北ゲリラ隊長リ・スファ役、チョン・ジェヨンの抑えた演技だろう。イマイチだったのが、米軍飛行士スミス役のSteve Taschlerだ。米国で行われた大がかりなオーディションの結果、選ばれたというが、メソッド・スタイルの演技はあまりにも大味で、もっと繊細な表現がほしかったところだ。

 この『トンマッコルへようこそ』は、一般的な娯楽作としては、ちょっとダレる所も目立つし、傑作と呼ぶには今三歩だが、イデオロギーという問題を超えて、人間の持つやさしさが、いかに大切なものであるかを訥々と描いた、観るべき価値のある秀作であることは間違いない。


『オオカミの誘惑』 ★★★★

 お高くとまった視点から、映画を評価するならば、流行を狙った話題作や娯楽大作など、おおかたロクな評価をされないことがほとんどだろう。この『オオカミの誘惑』もそんな一本だ。だが、映画を純粋に商品、市場で流通する物品という視点で観た場合、この低い評価は一転する。『オオカミの誘惑』という作品は、マーケティング的視点で観れば、極めて優れた、完成度が高い映画なのである。ちょっとした学術用のモデルにも使えそうだ。

 韓国の夏休み初旬の公開に合わせたドンピシャリのパッケージ内容は、ストーリーにキャスティング、音楽、そしてタイアップと、どれをとっても、理想的で、流行商品としての完成度の点では、ここ数年の韓国映画の中でもトップクラス。一番勢いがあった頃の角川映画に似ているが、もっと格好よく、洗練されており、ちょっと今の日本ではマネ出来そうにない。韓国映画と日本映画の大きな違いは、エンドクレジットに「マーケティング担当」の表記が独立して、大きく記載されることだが、そんな特徴が良く出ている作品といえるだろう。

 物語は子供が夢想したような内容だが、韓国の10代、特に11歳くらいから18歳くらいまでの若者にとり、この映画はまさに魅惑的な「夢の映画」なのではないだろうか。また、2004年度に公開された学園青春物の中では、最も映像的に優れており、かつ、現代的な瑞々しさに溢れていることも魅力だ。この映画に比べると同時期に韓国公開された『あいつはカッコよかった』は本当にダメな映画だし、『まわし蹴り』が最初から勝負にならなかったことは納得がゆく。『マルチュク青春通り』に至っては、おやじの繰り言同然で、どうしようもない。

 主演のテソンを演じたカン・ドンウォンにしても、彼と対峙するヘウォンを演じたチョ・ハンソンにしても、韓国映画の未来を背負う次世代スターに相応しい魅力でいっぱいだ。個人的にはカン・ドンウォンを高く評価するけれども、歳を重ねた時、チョ・ハンソンは驚くべき成長を見せそうな可能性を感じさせる。2人に愛される冴えないヒロイン、チョン・ハンギョン役のイ・チョンアは、端役程度の経歴しかない新人だが、それなりに存在感があり、田舎臭いところが、夢見心地の世界にリアリティを与えている。

 映画は基本的に悲劇だが、昔の少女マンガのパターンを了解して観ないと、大人には、ちょっと辛いところがあり、現代を舞台にしたファンタジーとして割り切って観た方が楽しめる。また、映像テクニックが過剰な部分も多いので、年配の方には受け入れがたいかもしれない。最後は、残念ながら、ちっとも心が高ぶらず、感動出来ない。しかし、これは感受性の問題なので、感涙にむせる人も、もちろんいると思う。

 映画としての評価は、本来なら星2つ程度が相応しいものの、総合商品としては傑出した映画ゆえ、その部分を評価して星4つとしたい。また、これは重要なことなのだが、日本における韓流人気と、現地韓国の流行が、著しくズレていることが、よーくわかる、現在進行形の韓国映画でもある。


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