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Review 『チャーミング・ガール』

Text by 井上康子
2005/3/15受領




写真提供:ユナイテッドエンタテインメント

『チャーミング・ガール』 2005年 原題:女、チョンヘ 英題:This Charming Girl
 監督:イ・ユンギ
 主演:キム・ジス、ファン・ジョンミン、キム・ヘオク、イ・デヨン、イ・グムジュ


 チョンヘという平凡な名前の女性がいる。無造作に髪を束ねて、身体に合わないお仕着せの制服を着て、個性を示すことなく郵便局で働いている。

 まず、印象的なのはそのチョンヘを捉える監督の眼差しだ。手持ちカメラで、チョンヘの日常の一挙手一投足を観察し写し出している。歯磨きをしながらタオル掛けに干してあるストッキングが乾いていないか触ってみるチョンヘ、カップ・ラーメンのふたを円錐形に曲げてめんを受けるチョンヘ、宅配のキムチを食べようとして汁をこぼしてあわてるチョンヘ・・・ クローズアップされるチョンヘの顔、手、足、彼女のしぐさを見ていると、監督は微かな温もりのある眼で彼女を見つめていることがわかる。

 そして、淡々と写し出される彼女の日常から、彼女は職場の同僚の女性たちとのコミュニケーション以外、外界との交流の機会を持たず、アパートの自室で生活を完結させていることが伺える。仔猫を拾ってくる彼女は孤独なのかと懸念するが、一見、彼女は孤独そうには見えない。彼女は亡くなった母親との思い出を抱えて生活しており、彼女の母は、常に彼女を擁護してくれた人で、母の記憶はチョンヘの支えになっているのだ。

 そして、暖かい母に対する記憶とは対照的な、忘れたいのに忘れることができないチョンヘにとっての悲しい記憶、子供時代のつらい体験があることが徐々に明かされていく。人間の記憶は、その人にとって関連のある体験や感情によって想起されていくものだ。また、各々の体験や感情は、想起される記憶のさまざまな側面にスポットを当てて、その記憶がどのようなものであるかを、立体的に浮かび上がらせて見せてくれるという効果を持つ。

 この作品では、彼女を傷つけた元夫が登場することを契機として、彼女にとって核心的な悲しい記憶が何であったかが明らかにされるのだが、監督は、いくつかのエピソードを準備し、悲しい記憶が彼女の心理にどういう影響をもたらすものであったかを巧みに示している。核心的な悲しい記憶がどのような事実に基づくものであったかをショッキングに示すことを目的にしてはいないのだ。この作品の見所は、このような心理描写の繊細さにある。

 あまりにつらい体験を人は消化することができず、時に何らかのきっかけによって、現在の体験のように感じることがあると言われるが、チョンヘも、ナイフでの自殺を示唆し、泣いている男を慰めようとしている間に、彼の悲しみへの共感をきっかけにして、自分のつらい体験を生々しく、彼女の中で再現させてしまう。

 この後のチョンヘの行動はこの作品のクライマックスにあたるものだ。男のナイフを持ち帰ったチョンヘは彼女の主観的世界の中で、子供であった彼女を傷つけた相手を刺そうとするかに見えるが、彼女はそうすることができない。落としたナイフを拾おうとして、却って自分の手を傷つけてしまう。チョンヘは手の傷を洗い、そして、涙を流して嗚咽する。悲しい記憶を消してしまうことはできず、その記憶を抱えて生きていくしかない、そのことを悟り、その重みに耐えかねての嗚咽なのだろうか。嗚咽するチョンヘを見ていると、チョンヘの悲しみの重みに圧倒されるのと同時に、しかし、不思議な安堵感が湧き上がってくるのだ。なぜなら、チョンヘが初めて自分の悲しみの感情をありのままに表出しているからだ。

 自分の悲しみを表出したことは、やはりチョンヘに大きな変化をもたらす。ナイフを手にした後、自身の死を覚悟して捨てた仔猫を、チョンヘは、今度は、小走りに探しに行くのだ。

 チョンヘは子供の時のつらい体験を誰にも訴えることができずに過ごさざるを得なかった。それは二重の悲しみだ。必然的に彼女は自分の感情を抑え、伝えたい言葉も飲み込んで過ごしてきた。今では、悲しいことも悲しいと自覚できないような、もはやそれが当たり前の生活になってしまっている、そんな人だ。そして、そんなチョンヘは、彼女を擁護してくれた母以外の人からは、コミュニケーションの取りにくい少し変わった人間だと思われている。

 しかし、チョンヘは受動的な弱い人では決してない。少し不器用なやり方なのだが、郵便局によく客として訪れる作家志望らしい青年を自宅での夕食に招待し、自分の足を露骨に褒める靴屋の店員を注意し、彼女の中に主体的に生きようとする強さがあることを見せてくれるのだ。

 私はチョンヘが青年への夕食を準備する場面が好きだ。スーパーマーケットで、少しでも良い食材を選ぼうとし、簡素なキッチンで、スープ・炒め物・焼き物と、彼のために、食べきれない位の料理を作っていく。そんなチョンヘの姿が詳細に描写されるのを見ていると、小さなことであっても、自分ができることを丁寧にしていく事に意味があるのだと思えてくる。


 チョンヘを演じたキム・ジスは映画初出演ながら、デビューして13年のテレビ・ドラマで活躍してきたベテランの女優であるが、彼女の演技は特筆すべきものであろう。チョンヘは感情表現のできない、コミュニケーションが苦手な人物であり、明確な表情や明確なせりふをほとんど持っていないため、たいへん演じにくい人物だと思われる。そんなチョンヘという人物の感情を微妙な表情や視線や小さなしぐさで表現しているのだが、彼女の感情表現が抑えたものであるので、却って、チョンヘの悲しみの深さや喜びの大きさを想像させられるのだ。

 そして、何より悲しみを内に秘めて耐えている人の姿は本当に美しい。カメラはチョンヘを、いわゆる美しく撮ることは避けているようだが、表面的な美しさとは異なる、人の内面的な美しさをこの作品の中では見出すことができる。チョンヘの姿が最も美しいと感じられたのは、チョンヘが泣いている男の肩を抱いて頭を撫でて慰めているシーンだ。チョンヘが悲しみを抱いているからこそ、彼の悲しみを感じ取ることができるのだ。

 現代は悲しみを排除して、楽しさや快適さを求めるという傾向が強い。しかし、悲しみを排除することはできない。そして、悲しみを抱いていることは他者に対する優しさにも通じる。そんなことも考えさせられた作品だ。


 本作が長編映画デビュー作であるイ・ユンギ監督は、南カリフォルニア大学で経営学を専攻したという異色の経歴の持ち主。『雨降る日の水彩画』(1989、クァク・ジェヨン監督)、『雨のように音楽のように』(1992、アン・ジェソク監督)、『激しい恋』(1996、イ・ミョンセ監督)の助監督をつとめ、第1回(1994)ソウル短編映画祭で最優秀賞を受賞した短編『軽蔑』をプロデュースした後、短編『我らが時代の愛』(1995)で初めて演出を担当する。映画について特別の教育を受けたことはなく、チャンスを得るために自分でシナリオを書き始めたとのことだが、本作のシナリオも監督自身によるものである。本作は昨年の釜山国際映画祭で上映された時から高い評価を受け、海外の映画祭にも招待され、受賞もしている。主だった受賞歴は、第9回(2004)釜山国際映画祭最優秀アジア新人作家賞(ニューカレンツ賞)、第55回(2005)ベルリン国際映画祭NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)、第7回(2005)ドーヴィル・アジア映画祭審査委員大賞など。2005年には、サンダンス映画祭コンペ部門に招待されたほか、今後もフライブルグ国際映画祭コンペ部門、香港国際映画祭、フィラデルフィア国際映画祭、シンガポール国際映画祭などに出品が予定されている。また、監督のイ・ユンギは現在既に『ラブ・トーク』、『クラブ・シャンパン』の2作品を準備中。

 監督は「男の監督だから女の物語が描けていない」という批判を受けないよう、多くの人の意見を聞き、また、主演女優のキム・ジスの意見も尊重しながら、作品を撮っていったというが、本作は女性の心理を繊細に描くことに成功しており、韓国映画の新たな息吹を感じさせてくれる作品。また、自身のつらい体験を誰にも話すことができなかったというチョンヘの二重の悲しみからは、韓国の女性の置かれた社会的な立場も考えさせられる。

 日本での公開が待たれる作品だ。


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