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Review 『楽しき人生』『肩ごしの恋人』『色画動』『星』

Text by カツヲうどん
2008/2/17


『楽しき人生』

2007年執筆原稿

 大学時代、ロックバンド「活火山」のリード・ギターを担当していたギヨン(チョン・ジニョン)は万年失業者。周囲に肩身の狭い毎日を送っている。「活火山」ボーカル担当のサンウが死んだことを知らされて、元ベース担当のソンウク(キム・ユンソク)、元ドラム担当のヒョクス(キム・サンホ)と斎場で久々に再会するが、みな冴えない人生を送っていた。しかし旧友の死を契機に彼らは憑かれたように「活火山」復活に向けて疾走を始めるのだった。

 この映画に出てくる男たちは、ぜいぜい40代半ば。しかし、韓国経済の北風は彼らに引導を渡し、実質社会から引退させてしまう。本当なら一番充実したサラリーマン人生を送っていたはずのひとたちだ。家族にはまだまだお金がかかるから、彼らは自分の楽しみ全てを犠牲にして小銭を稼いでいかねばならない。主人公ギヨンも友人ソンウクも家庭が崩壊しているわけではなく奥さんがやさしく支えてくれるからまだ救いはある。だが、郊外で中古自動車屋を営むヒョクスは稼ぎの全てを海外留学している家族にささげていたのに妻に裏切られる。故人のサンウにしても、ろくな暮らしをしていなかったことが息子ヒョンジュンをみれば明らかだ。

 昔はバンドでブイブイいわせていたが学生時代の終焉と共に平凡なサラリーマンになって、真面目に生きていたはずだったのに、その慎ましい努力が無常に四散してしまった真面目なおっさんたち。彼らを描く視点は温かいが、その裏側には一家心中に追い込まれかねない現実の深刻さが潜んでいることを観る側は忘れるべきではないし、彼らの選択を、肯定的に愉快に描いたことも、それまで突っ走っていただけに思えた韓国社会が、既に失速していることを如実に現しているようでもあって、決して笑って済ますことは出来ない。

 また、この物語は日本なら50代後半から60代くらいの世代が該当しそうなお話ではあるのだけど、それが韓国の場合、40代になってしまうことも、日本と韓国の大きな社会的差異=溝を連想させる。監督イ・ジュニクは、ギヨンたちよりひとまわり年長だ。だから遅い開花を成功させた監督自身のリアリズムと「真面目にコツコツ、一生懸命」が実を結ばなかったちょっと若い連中のリアリズムがこの映画には対比されているようにも見え、韓国人も生き方を考え直さなければいけない時期に来ていることを強く主張しているようにも感じた。

 もう一つ、この『楽しき人生』において異色な点は、「共通の趣味」を通じて異なる世代が並列して生きる姿を描いていることだ。もしかしたらそこがこの『楽しき人生』最大の価値かもしれない。復活した「活火山」に二廻り年齢が若いヒョンジュンが加わった理由は、単に中年三人組の勝手な事情に過ぎないが、中年三人組にしても、若いヒョンジュンにしても、「活火山」を支援する若者にしても、彼らの音楽を通じた関係が互い全く並列関係である様子は、今までの韓国映画では見ることが出来なかった斬新な光景なのではないか。若いヒョンジュンは年上の仲間に反抗しないが媚びないし、三人の中年男たちもヒョンジュンに年長者としてのよくある無意味な高慢さを振りまいたりはしない。韓国映画の中で大胆にこういった「並列関係」を描けたこと自体、ここ十年の韓国の変わりようを示すものだし、韓国的な保守ヒエラルキー関係の変化という「現実」を暗に訴えていたのではないか。そういう点ではこの映画からは政治的なメッセージも聞こえてくるようだ。

 『楽しき人生』からは、たえずイ・ジュニクの醒めた感性が強く漂ってくる。前作『ラジオ・スター』と比較すると華もなく、少し見所に欠けはするが、音楽映画というよりも韓国社会の変化をシニカルに描いた映画の方に見えた。映画の最後は決して「ほのぼの」だけで終わらない。ギヨンたちの夢に向かった戦いは映画の終焉と共に始まるのだ。


『肩ごしの恋人』

2007年執筆原稿

 写真家として認められ、自由奔放に男を渡り歩くジョンワン(イ・ミヨン)と、結婚に女の幸せを見いだそうするヒス(イ・テラン)。二人は一見対照的だが心置けない親友だ。ある日、ヒスは、夫ヒョンシク(ユン・ジェムン)が若い女と浮気していることを知り、家出をしてジョンワンのところに転がり込んでくる。

 唯川恵の原作『肩ごしの恋人』は、とても愉快な小説だ。冒頭の約16ページは大爆笑であると共に、主人公「萌」と「るり子」を見事に描ききってしまう。そこに高校生の崇、ゲイの文ちゃんやリュウが加わることで、男女を超えた深い洞察に溢れる人間ドラマがどぎついユーモアと共に展開していく。文体は簡潔、シナリオのようなセリフが、映画やテレビ・ドラマを連想させるが、読んでいる途中、そして読み終わってからも「この小説は映画やドラマに向かない、映像化が難しいのではないか?」という大きな疑問も沸き起こった。萌にしても、るり子にしても、顔のない文字上の人物だからこそリアリティを持ちえたのであって、誰かが演じてしまったら、そこで既に全く違うものになることは確実な世界だったからだ。

 映画『肩ごしの恋人』は、イ・オニが前作『アメノナカノ青空』から作風やテーマをガラリと変えて取り組んだ企画のように見えるが、その理知的な視点や端正な演出ぶりは全く変わらない。あくまでも感情を抑制した視点で人物と物事を見つめ、絶対にヒステリックにならない点で、やはりイ・オニは他の若い女性監督たちとは明らかに違う。

 小説の忠実な映画化ほど、困難なことはないだろう。そしてそれは無意味なことでもある。この映画は、原作をバラバラに解体し、韓国の社会事情にあったものとして再構成している。だから、ジョンワン=萌でも、ヒス=るり子でもなく、両キャラクターを混ぜ合わせ独自の比率で新たに書き分けたものになっている。原作の魅力であった「ドギツさ」は全くなくなり、魅力あるゲイの連中も出てこず、男のキャラは極めて希薄だ。そこら辺が、韓国の一般的許容性に合わせた、この作品の限界であり、失敗でもあった。

 原作の二人はセックスに対しては積極的であったが、決して淫靡なだけのものではなく、男が読んでも共感出来得るものだったし、ゲイたちを絡めたこともまた、男女立場の違いを際立たせたが、イ・オニ版には一切それらがなくて、ジョンワンは自由気ままな男好きにしか見えなくもないし、ヒスは頭が空っぽなわがままオバサンに見えなくもなく、男たちのキャラも脆弱すぎてワン・パターンなので、男女の差異から生まれる喜劇性は薄いし、原作のままならない部分をあやふやにして、映像に逃避しているように見えなくもなかった。でも、こうした部分を大きな欠点とは思わない。逆に、イ・オニは日本側から提示された難題を無難にこなしつつも、韓国の市場を十分考慮した映画化に成功しているというべきかもしれない。

 この映画の見所は、韓国・ソウルにおける富裕層生活の虚無を何気で嫌味に描いていることだ。話の調子は明るくユーモラスなので、ちょっと気がつきにくいかもしれないが、泡銭でセレブを気取っている人々の空っぽさを、監督イ・オニは金持ち生活の描写にうまく練りこんでいたように思えた。

 作品としては良くも無く悪くもなく、無難そのものといったところであり、原作至上主義者以外はそつなく楽しめるだろう。それはイ・オニのインテリジェンスを証明したともいえそうだが、彼女の真価が発揮されるのは、そうした優等生的な衣を脱ぎ捨てた時なのではないか、という想いも新たにさせた映画でもあった。


『色画動』

https://blog.naver.com/gbfilms
2007年執筆原稿

 映画学科は出たものの、仕事がないチンギュ(チョ・ジェワン)は恋人にも「現実を見ろ」と、あいそをつかされる生活を送っていた。ある日、製作プロダクションの演出スタッフに応募するが、そこはアダルト・ビデオ専門の会社。そして看板女優のサビン(チョン・ソジン)主演作『オールド・ヌード・ボーイ』のゲリラ撮影に走り回る日々が始まる。

 ピンク映画にアダルト・ビデオ。日本でもかつてその撮影現場の裏側を面白おかしく描いた作品がいくつかありましたが、その韓国版といえるのが、この『色画動』。映画は、エロ映画に対する街の声を拾ってゆくシーンから始まりますが、老若男女、インタビュアーに、けんもほろろ。そんな自虐的かつ寂しい笑いが最後まで続く作品ですが、内輪ネタであっても、本音いっぱい、愛すべき小佳作になっています。

 市場は限られ予算も無く、社会的認知はマイナス。出る女優はいつも同じ顔ぶれと、何をどうやっていいか手立てが限られたなかで、製作スタッフは知恵を絞り企画を考えてゆきます。それがパク・チャヌクの『オールド・ボーイ』のパロディ『オールド・ヌード・ボーイ』な訳ですが、これがなかなか笑えます。最初はアダルト・ビデオということでやる気がなかった主人公チンギュも、熱意溢れた家族的かつ共犯者的な製作現場に触れていくにつれ、段々とマジメに取り組むようになっていくのですが、それは結局、現実と折り合いをどうつけるか暗中模索しながら夢を探すという、この手の業界全てに共通する生き様が滲み出てくるようで、ちょっと脱力系ではあっても、観終わった後、なかなか深い余韻を残します。

 チンギュはシナリオを認められ、普通の映画製作会社に呼ばれますが、安くアイディアを買い取られておしまい。挙句の果て、親友には自分の作品を横取りされてと、韓国映画業界のリアルなスケッチになっています。おそらくは、監督のコン・ジャグァンと、その周辺の実話がモデルになっているのでしょう。韓国でアダルト・ビデオ系の出世頭といえばポン・マンデが有名ですが、彼と同じようにコン・ジャグァン監督も日常の描き方には非常にうまいものを持っていて、ところどころ光っています。

 男性関係も仕事もだらしがないように見える看板女優のサビンが、実は可愛くて家庭的な女性だった、という一シーンは秀逸でした。映画の最後は、厳しい現実が果てしなく続くことを冷酷に暗示して終わりますが、結局、映画で飯を食べてゆくということは、そういうことであり、「いつかは夢をかなえてくれる女神が降臨するかもしれない、それまでがんばれるかどうかが問題さ」、そんなメッセージを観る側に投げていたかのようでした。

 「映画、それは夢ではなくて人生そのもの」 『色画動』はそんな愛すべき作品です。


『星』

2003年執筆原稿

 この映画は酷評されても仕方ない出来映えだし、欠点ばかりの作品かもしれない。物語は驚くほど地味でまっとう。今の韓国映画を思えば、突然変異か何かの間違いのような企画である。そして、登場する人物は皆、普通の人ばかりで、映画的小細工に慣れた観客には「退屈」「平凡」そのものだろう。だが、私はあえてこの『星』を支持したい。なぜなら、誰にでも指摘できる「ひどさ」を越えた魅力が、この映画にはあるからだ。

 ヒロイン、スヨン(パク・チニ)の生き方は極めて現代的だ。自立しており、知的で洗練された自信を持ち合わせている。決して男性に媚びたりはせず、あくまでもマイペースだ。それに対する男性主人公のヨンウ(ユ・オソン)は、まじめと朴訥、馬鹿正直と純真を絵に描いたような不器用なサラリーマンである。そんな彼が、もっとも手に負えないだろうタイプの女性に恋するのだから簡単に行くはずがない。だから、そんな彼らの生き様に、どこか共感出来る方々にとっては、この『星』は素敵な作品になるだろう。

 ヨンウ演じたユ・オソンは、この映画への出演を決めた事で自ら俳優としての原点回帰を試みたのではないだろうか。『アタック・ザ・ガス・ステーション!』と『友へ/チング』の大ヒットでトップ・スターの一人に昇りつめたものの、彼を取り巻く環境は決して満足できる事ばかりではなかったと思う。そんな中、久しぶりに等身大の役柄で戻って来た事は一ファンとして喜ばしい出来事だ。パク・チニは、どこか気まぐれで、つかみ所の無いスヨンの役がとても良く似合っている。彼女のそういった軽やかさは、この『星』の大きな魅力でもあるのだ。ヨンウの後輩、ジンス役のコン・ヒョンジンもいい。単身赴任で山奥の通信施設に飛ばされて世間ずれしてしまったジンスを、サラリーマンとして共感してしまう方も多いのではないだろうか。

 話の途中から老医者夫婦(イ・ホジェ、キム・ヨンエ)のエピソードが加わる。これを余計な挿話に感じた観客も多かったと思う。確かにこのエピソードの絡みは未整理で唐突だが、私はそこにニキータ・ミハルコフの作品群(『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』『黒い瞳』など)を思い出した。監督のチャン・ヒョンイクにその意図があったかどうかはわからないけども、老医者の挿話は未整理であっても色々な人々の人生が時には絡みあい、時には全く関係なく進行してゆくロシアン・スタイルの人間劇を連想させ、決してシナリオや演出の未熟さとして片付けられないものだ。

 間違ってもヒットを飛ばせるような映画ではないが、気に入る方には気に入る隠れた珠玉作として評価したい作品である。


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