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Review 『よいではないか(家)』『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』『天上高原』『菊花の香り 〜世界でいちばん愛されたひと〜』

Text by カツヲうどん
2007/12/23


『よいではないか(家)』

2007年執筆原稿

 日本映画と韓国映画の伝統的な共通点を無理やり指摘するならば、「家族を描く」というところにあるでしょう。その語り口もお互い非常に近いものがあり、一つの家族を一個の家屋で描き、カメラがすくいあげてゆく、といった感じでしょうか。映画のジャンルとして確固たる地位を占める「家族」というテーマを、現代の事象を絡めつつ少し引いた視点で皮肉をこめて描くスタイルの「新・家族主義」ともいうべき作品が2006年度あたりから韓国では続々と登場しています。皮切りになったのは『私の生涯で最も美しい一週間』や『家族の誕生』あたりでしょうか。また、韓国映画はシビアなマーケティング主義で企画・製作されるので、最近の『ラブ・アクチュアリー』などのヒットや韓国におけるプチ日本映画ブームも引き金になっているのかもしれません。『よいではないか(家)』は、その路線の最先端に位置する作品であり、韓国映画の現在進行形を表していると共に、チョン・ユンチョル監督の前作『マラソン』の大ヒットがなければ製作は無理であったであろう、かなり異色の作家性溢れた映画になっています。

 テーマとして最も大きかったのは「現代の核家族模様」でしょう。日本と韓国は背景にある文化基盤や言語的要素がかなり近いので、どこか似てくるのは当然ですが、この作品で描かれたシム一家の姿は、昔なにかと取り上げられた日本の核家族問題を連想させるものであり、あと20年位経つと韓国では「今の日本像」が追記されるがごとく映画やドラマで描かれるのかなあ、としみじみ感じてしまいました。

 シム一家はとりあえず普通に暮らしていけているし、個々の問題を抱えていても、あくまでも個々のレベル。しかし同じ屋根の下で暮らしていても、皆、自分の周囲のことしか視野になくて、「家族である」という発想や行動が100%欠如しています。そして、精神的にはその日暮らし。こういった家族像は、日本映画では30年程度前から一種のスタイルとしておなじみではあったものの、韓国映画でここまではっきり描いたことは珍しく、日本映画の影響もしくは韓国の家族関係の変質を強く感じました。

 日本と韓国の家族関係、特に都市部での家族関係を比較した場合、韓国での家族の絆は本当に強いものです。日本人は知り合いに家族の悩みを相談したり、その様子を話したりすることはあまりありませんけど、韓国人と付き合っていると老若男女関係なく、そういった話が相手からよく出てきます。つまり日本人は知人同士の関係が「家族とは別」に過ぎなくても、韓国人からすれば「知人=家族」ということなのかもしれません。しかし、『よいではないか(家)』で描かれた家族とは「個人>家族」であって「家族」という概念は単なるバラバラなエゴの入れ物にしか過ぎず、それは現代日本の家族関係との類似を連想させるものでした。

 チョン・ユンチョル監督はシュールな映画的イメージがスタイルであり、こだわりなのでしょう。『マラソン』でも随所にそういったものが顔を出していましたが、本作もそういった色がさらに濃くなっています。韓国映画界の技術的な洗練さがもっと高まれば、最も期待できる映画監督になる資格は十分あるといえるでしょう。


『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』

http://www.showbox.co.kr/movie/bigbang/
2007年執筆原稿

 かたや真面目で模範的なサラリーマン、パク・マンス(カム・ウソン)。かたや粗暴なチンピラ、ヤン・チョルゴン(キム・スロ)。対照的な二人はしょっぴかれた警察署で出会うが、暴走を始めたのはマンスの方。一緒に逃亡するチョルゴンだったが、事件はどんどん大きくなってゆき、しまいには警察との全面衝突へ発展してゆく…。

 この作品のシノプシスを読んで、かの傑作コメディ『アタック・ザ・ガス・ステーション!』を思い出した人は多かったはず。でもそれは当然のことで、本作『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』の監督&脚本を担当したパク・チョンウは『アタック・ザ・ガス・ステーション!』でシナリオに参加し、脚本家として業界に名を鳴らしめた人物。ですから『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』では彼のスタイルがより濃厚に出ていて『アタック・ザ・ガス・ステーション!』番外編パート2といってもいいような映画になっています。しかし『アタック・ザ・ガス・ステーション!』が全編ノーテンキな映画だったのに比べて、『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』は1980年代の韓国映画に回帰を試みたような、ちょっとシビアで重い物語。もしかすると往年の名作『チルスとマンス』(1988年、パク・クァンス監督)へのオマージュがあったのかもしれません。

 主人公のマンスはとにかく真面目なサラリーマン。でも、あまりに融通が利かないので妻子に愛想を尽かされますが、本人はその理由がさっぱりわかりません。彼は厳格な父親に今も抑圧されていて、心の中には子供時代からの不満がぐつぐつを煮えたぎっています。そして、いくら良い子の優等生であっても大人になったら何の役にも立たなかった、という残酷な事実。もう一人の主人公チョルゴンは無職のチンピラ。手のつけられない乱暴者に見えますが、実は母思いの優しい男。彼が乱暴者を演じて刑務所に収監されてしまう裏側には、病気の母親を支えるだけの収入を得る手段が自分にはない、という深刻な事情があります。

 理由のいかんにかかわらず社会からスポイルされてしまい体制相手に大暴れ、というお話自体は珍しいものではありませんが、この作品で象徴的だったことは、主人公二人が正反対に見えても本質的には同じであること。そして彼らが日ごろ、孤独の中で生きていたという現実。反対に、彼らに恨みを募らせる警察官マ・ドンチョル(カン・ソンジン)は仲間が結束した環境で生きていますから、マンスたちがより許し難い奴らに見えるのでしょう。しかし、両者の構図は善でも悪でもなくて不可抗力。そこにはパク・チョンウの社会や人生に対する無常観が滲み出ているように感じられ、『アタック・ザ・ガス・ステーション!』から10年近くを経た本作では、より一層社会変化への危機感が込められていたように見えました。それは「今はダメでも、明るい未来が待っているかもしれない」という希望が託されていた『アタック・ザ・ガス・ステーション!』の時とは全く逆の非常に辛いもの。決して「あー、楽しかった」でお終いではないのです。

 『BIGBANG! 〜撃ちまくれ〜』は全体的に地味過ぎで、キャストも魅力的ではなく、最後の結末も哀しい社会派作品といっていい内容です。しかし、最後までおちゃらけに終わらせなかった真面目な製作姿勢は高く評価してもいいのではないかと思います。


『天上高原』

2007年執筆原稿

 低予算ながらコンスタントに自分の世界を描き続ける映画監督、キム・ウンス。彼の手がける作品はそれなりにバラエティーに富んでいて、独自のスタイルも持っていますが、同じようなインディーズの英雄キム・ギドクと比べると、いかにも「インテリの自分勝手な思い込み」に彩られ、切れ味も魅力も全くありません。『走れ、薔薇』や『秘密−Desire−』のようにきちんとしたスキルを持ったキャストを使っても、なんの映画的輝きも感じられず、全く魅力がありません。退屈なだけ。ここまで手を変え品を変え、マイペースで映画を作り続けて公開している姿勢は、自ら「映画監督であること」を死守し続けていることであり、本当はもっと高く評価すべきことなのでしょうが。

 今回の『天上高原』は、脚本、監督、製作という今までの役割に飽き足りないのか、とうとうキム・ウンス監督が主演も務めてしまった作品です。映画は擬似ドキュメンタリーですが、実際にヒマラヤの麓を疾走し続けるロード・ムービーにもなっています。話はあって無きに等しく、「物語」という点では実験的な作品であり、ドキュメンタリー的でありながらも嘘と現実の迫力が共存している、韓国映画としては特異な映画といっていいかもしれません。

 映画はとにかく、ヒマラヤ高原に通じる、険しい道路を疾走する主人公の姿を執拗に描いてゆきます。かなり迫力ある映像になっていますが、そればかり続くので、だんだん眠くなってもきます。そして主人公は過酷な環境に疲弊し、吐いてばかり。でも、その姿もまた、カメラは執拗に追ってゆきます。やがて主人公は、探している女性の足跡を発見し、ある街をさ迷いますが、現地の人たちは「どこそこの誰々に聞けば更に詳しいことがわかるだろう」と彼を翻弄します。田園や都会をさ迷う主人公。映画はそれで終わりですが、そこには「ヒマラヤって、壮大で凄い!」といった映像は一切無くて、だんだんと観る側に、監督が見て聞いて感じたであろう、現地の空気というものが伝わってくるのでした。そこだけ、同じようにヒマラヤを描いた他の作品とは大きく異なる、この映画の特徴だった、といえるかもしれません。

 ただし、映画は他のキム・ウンス作品と同じく、上映時間は短いながらも退屈そのもの。その退屈さを乗り越えた時こそ、キム・ウンスの映画は本質を垣間見せるのかもしれませんが、まだまだしばらくは、この苦痛な映画に観客は付き合って行かなければいけないのでしょうか?


『菊花の香り 〜世界でいちばん愛されたひと〜』

2003年執筆原稿

 もし、この作品を撮ったイ・ジョンウク監督の目的の一つが、過去に製作された韓国メロ・ドラマへのオマージュであり、過去のテイストを現代に忠実に移し換える事だとすると、それは十分に成功したといえるだろう。だが、過去の作品が持つ古臭くて退屈な部分まで引き継いでしまっては、その意味も薄れてしまう。『菊花の香り 〜世界でいちばん愛されたひと〜』は、そんな丁寧だが魅力にも欠けた映画である。

 演出はツボを押さえているが、新しい血を入れることには成功していない。この作品の大きな弱点は、登場人物のドラマの魅力のなさと、それに拍車をかけるかのような主演俳優陣の魅力の無さである。ヒジェを演じたチャン・ジニョンは、本当に華の無い女優だ。このあまりの華の無さは、彼女の今後を思わず心配させる程のものだ。また、前作『オーバー・ザ・レインボー』の時よりも加齢による老け込みが激しい事には驚かされる。年下の恋人で、後にヒジェの夫となるイナ役のパク・ヘイルは、かなり個性的な顔立ちで、どこか高貴さも持ち合わせており、時代劇には良く似合いそうだ。だが、その持ち味が今回は役を弱々しく感じさせる大きな原因となった。社会人となったイナはFM局のプロデューサーという役柄だが、とてもそうは見えない。また、「デザイナーの妻、プロデューサーの夫、産婦人科医の親友」という組合せは、あまりにも白々しく、登場人物の生き様をつまらなくしてしまった。

 劇中、ペリー・コモの『サンタ・ルチア』を筆頭に、これみよがしに有名な曲を使って情感を盛り上げようとしているが、映像とまるであっておらず、浮いてしまっている。だから「ここでこの曲さえ無ければ」といったシーンが幾つもある。ラストは悲しくもあり、希望も感じさせるシーンで幕を閉じるが、余韻は軽い。この映画を観終わった後、おなじ古典的なメロ・ドラマでありながら、『ラスト・プレゼント』があれだけ感動的だったのは、なぜだろうかと、私は思わず考えてしまった。多分、『ラスト・プレゼント』の場合は、オ・ギファン監督の危険スレスレともいえるスピーディーな演出と、イ・ジョンジェ&イ・ヨンエの好演、そして彼らを取り巻く脇役陣の良さが、結果的に大きな差を生み出したのだろう。

 『菊花の香り 〜世界でいちばん愛されたひと〜』は、そこそこ泣ける映画であるし(事実、男性客が大泣きしていた)、作りも丁寧な映画であるが、そこに描かれる人間像は力強さとは程遠く、なんともひ弱なメロ・ドラマで終わってしまったようだ。


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