HOME団体概要support シネマコリア!メルマガ登録サイトマッププライバシー・ポリシーお問合せ



サイト内検索 >> powered by Google

■日本で観る
-上映&放映情報
-日本公開作リスト
-DVDリリース予定
-日本発売DVDリスト
■韓国で観る
-上映情報
-週末興行成績
-韓国で映画鑑賞
■その他
-リンク集
-レビュー&リポート
■データベース
-映画の紹介
-監督などの紹介
-俳優の紹介
-興行成績
-大鐘賞
-青龍賞
-その他の映画賞


Review 『なつかしの庭』『ラジオ・スター』『ホリデイ』『青燕 あおつばめ』

Text by カツヲうどん
2007/8/7


『なつかしの庭』

2007年執筆原稿

 大学時代、光州暴動に参加したことから刑務所に17年間収監されたオ・ヒョヌ(チ・ジニ)が辿る、失われた青春の軌跡を描く。


 この映画を監督したイム・サンスは、まさに386世代を代表する人物。その企画はいつも危険をはらんでいてスキャンダラスなものばかりですが、飄々とした作風と知性を感じさせる笑いが認められているのか、ばかな建前的世間評に流されることなく、確実に作品を発表し続けています。基本的にはセックス・コメディ路線の作品が多いのですが、本作は今までとはうってかわったような、しっとりとした情感溢れる感動作に仕上がりました。現時点ではイム・サンスの傑作といってもいいでしょう。

 かつての光州事件や労働争議が明確に描かれていることから、前作『ユゴ 大統領有故』の流れを汲んでいるようにも見えますが、政治メッセージを積極的に発信するというよりも、自らの青春を懐古しつつ、過去の政治に対する無念さ、その無責任さへの静かな怒りを訴えた内容になっています。

 主人公オ・ヒョヌは、同世代の若者たちがそうであったように、自らの義務として学生運動に参加しますが、逮捕・収監されます。政権が幾つも変わった17年後にやっと解放されたものの、完全な浦島太郎。かつて愛したハン・ユニ(ヨム・ジョンア)は既にこの世になく、彼女が生んだ自分の娘も赤の他人。ヒョヌに残されたのはセピア色の思い出と、ユニと愛しあった田舎の家屋だけです。かつての仲間たちも皆年をとって人間は丸くなり、幾ら過去を訴えても何も戻りません。

 ここで描かれた風景は386世代一般の想い出そのものであり、とても切実です。日本で韓国の1980年代といえば学生運動に明け暮れた大学生に労働者、それを弾圧する極悪軍事政権と、ろくでもないイメージしかありませんが、それらの記憶が遠いものではなく、今も社会の第一線に立つ人々の記憶の一部であることを忘れてはなりません。本作は、その鮮烈な追憶がヒョヌの旅へ共に参加することで観る側の脳裏にも蘇ってくるかのようでした。

 ヒョヌ演じたチ・ジニは作家系作品への出演が増えていますが、本作は間違いなく彼の代表作になるでしょう。社会人から俳優に転職し、テレビ・ドラマ・スターになった彼には常識人的な良さがあって、それが俳優としての弱点になっていると、いつも感じていましたが、今回はそのことが好演に繋がっています。恋人ユニ役のヨム・ジョンアも彼女本来の演技力をきちんと見せてくれる役柄で、彼女はコメディ演技が出来るからこそ、誤解され、作品に恵まれないのかなぁ、などと逆に感じてしまいました。

 映画の最後はヒョヌが娘と再会するシーンで幕を閉じます。三成のCOEXで撮影されたそのシーンでは、まるで宇宙人のような娘と浦島太郎ヒョヌが、結局は他人でしかありえなかったという対峙で終わりますが、それは彼の侘しさを象徴するとともに、夫婦の絆というものは親子の絆と全く別のものであり、それはまた生死を超えた不変のものである、ということを訴えているかのようで強く心に残ります。日本で無責任に垂れ流された「韓流」という扇動的な言葉を越えて、韓国に関心を持った方には是非見ていただきたい一本です。

シネマコリア2007で上映


『ラジオ・スター』 (再掲)

2006年執筆原稿

 韓国の映画観客層というのは本当に若くて、日本の観客層に比べると物凄く偏っています。だから映画の企画は、ある程度目の肥えた観客にとっては、ちょっと辛いものばかりが並んでしまいがち。現代の韓国映画におけるキーワードになっているのは「ウェルメイド(Well Made)」という言葉。これは韓国の業界関係者の間で、猫も杓子で使われている「マーケティング(Marketing)」という単語と同じで、果たして意味を掴んでいっている言葉なのか、その定義とは何なのか不安に感じることがよくあります。そもそも「ウェルメイド」だとか「マーケティング」という言葉は特殊な専門用語。広義的でもあり狭義的でもあり、そんなに乱発して使えるほど簡単な言葉ではないはずなんですけどね。そうした裏には、韓国のサブ・カルチャーを上の目線からプロデュースしてビジネスとして操作しよう、という両班的エリートの影がチラチラと見え隠れするかのようです。私的には「サブ・カルチャー」って、みっともなくて格好悪くて日銭しか稼げないからこそ意味があるし、人々から支持されるものであり、そこに基本と価値があると思うのですけど。


 さて、なぜこんな前置きをだらだら書いたかというと、『ラジオ・スター』という作品は、久しぶりに大人の鑑賞に耐えられる「お上の思惑」から少し解放された、ホッと出来る韓国映画だったからです。もちろん商品企画としてのパッケージングはなされていますが、業界関係者がカリカリしているような雰囲気は少なくて、いい意味での作り手のリラックス感、現場の雰囲気というものが感じ取れた映画でした。監督のイ・ジュニクは前作『王の男』の大ヒットで色々なしがらみから、ちょっと自由になったのでしょうか。とても伸び伸びとした作風になっていて、映画から清涼な風が吹いてくるようでした。彼の演出は手堅く、各カットの見せ方も的確。こういう何気ない確実さは、韓国のクリエイターの卵たちに是非見習ってほしい部分です。見本にすべきものは何でもかんでも外国にある訳ではないことを、教える側も学ぶ側も留意すべきでしょう。

 『黄山ヶ原』、『王の男』同様、ちょっと退屈で眠い部分があることは否定できませんが、こういったゆったりと間を外したリズムの方が年配の観客には共感しやすいでしょうし、人の心情を表現する俳優の微妙な演技を見せる、という点では優れたやり方だと思います。もし『王の男』が今風の半端なミュージックビデオの手法で作られた映画であったら、主演のイ・ジュンギも注目を浴びなかったのでは?

 映画の内容は、坂下に転がり落ちてしまった過去のロックスター、チェ・ゴン(パク・チュンフン)と女房役マネージャー、パク・ミンス(アン・ソンギ)の深く暖かな関係をじっくりと描いてゆきます。チェ・ゴンの栄光の過去は最低限しか描かれませんし、寡黙で不器用なキャラゆえセリフも最小限、チェ・ゴンのDJがなぜ大受けするのかなど、釈然としない所もあるのですが、ミンスとチェ・ゴンの友達でもなく兄弟でも夫婦でもない、年月だけが醸し出すことが出来る特別な関係は、観る者に静かな感動を呼び起こします。そこには短期的な視野で自己の利益を得ることしか考えない業界への、硬派な意見提議も含まれていたようにも感じました。監督のイ・ジュニクが本当に認められてブレイクしたのは、つい最近のこと。『ラジオ・スター』には、そういった監督自身の軌跡が重ねて描かれているようでもあり、社会経験を経た人の方が、この作品のテーマを掴みやすいと思います。

 主演のアン・ソンギとパク・チュンフンも、かつてのトップ・スターから、すっかり今では映画界の重鎮としてお馴染みになりましたが、韓国映画が芳しくなかった時代から、たびたびコンビを組み名演を見せてきた二人の歴史に、この映画のキャラはそのまま被るようで古い映画ファンには感無量。トラブル・メーカー的な印象のパク・チュンフンと、人格者として非常に尊敬されているアン・ソンギのコンビに、わがままで不器用な中年ロッカー、チェ・ゴンと、古女房マネージャー、ミンスの役を重ねたところには、狙い以上の深い味わいが出ていたと思いました。アン・ソンギ演じるミンスは、誠実なだけで本当はダメ男、実は奥さんにかなり助けてもらっているという設定も、非常に非常にリアル。チェ・ゴンとミンスのコンビ像というものが、サブ・カルチャーを支える人間たちの正直な等身大像になっているところに製作側の良心が伝わってきます。

 この『ラジオ・スター』という映画は、独特の時代的空気が感じられる人には、とても価値のある映画です。また、日本以上に急速な高齢化社会を迎える可能性が出てきた韓国の問題というものも図らずも提示してしまったような部分もあって、「落ち目スターとそのマネージャーの人生」という物語に、それをダブらせてしまったのは私だけでしょうか?

シネマコリア2007で上映


『ホリデイ』 (再掲)

2006年執筆原稿

 この映画は、現時点でヤン・ユノ監督の代表作といってよいでしょう。凝ったディテール、男の世界へのこだわりと、彼のスタイルが集大成的によくまとまっている作品です。ヤン・ユノ監督は、どちらかといえば、職人的、かつての東映B級アクションを連想させるテイストの持ち主ですが、非常に映像美にこだわる監督でもあります。それが目立たないのは、ビジネスとして割り切った面が強く感じられるからなのかもしれません。ただ、この『ホリデイ』、今の韓国では、製作者側と観客側の求めるものの差異を象徴しているかのような映画でもあって、「ジェネレーション・ギャップ」というものが、興行の結果に露骨に出た作品でもあったのではないでしょうか。


 物語は実際にあった、囚人脱走立て籠もり事件をテーマにしていて、製作者側は「第二の『シルミド/SILMIDO』」を狙っていたようでしたが、『シルミド/SILMIDO』の場合、「今まで秘密にしていたタブーを明らかにしますよ」というゴシップ的な側面が年齢の幅を超えた動員を生み出したことに比べると、『ホリデイ』は、ソウル・オリンピックという特別な時代に対する、一部世代の哀愁にこだわりすぎていて、若い観客の関心を引くことが出来なかったように感じました。そして興行の中心たる若い観客からすれば年寄りの昔話を聞かされているようなものなのかもしれません。また、この作品は救いのない結末を迎えますが、そこには「ソウル・オリンピック以降から今に至る韓国の軌跡」という希望が込められてもいて、それを体感した世代が、実際は映画を観に来ない韓国では、やはり観客動員にはどうしても限界が出てしまうのでしょう。

 さて、この『ホリデイ』で最大の見所は、やはり1988年当時のソウルというものをこだわって描いたことでしょう。今の韓国とは全く違った時代ともいえますが、それは戦後長らくの日本における韓国のイメージそのものでもあって、当時を知っている日本人にとっては、感慨深いと思います。今では全く紹介されることがなくなってしまった時代ですが、韓国と真摯に向き合いたい方にとっては、色々と参考になるでしょう。

 脱走犯リーダー、チ・ガンヒョク演じたイ・ソンジェは体を徹底的に絞り上げて、悲劇の主人公を演じていますが、そこには彼の持つ家庭的な魅力は薄く、ちょっとミスキャストだったようです。反対に、悪辣な刑務所所長キム・アンソクを演じたチェ・ミンスは、ここ数年来の韓国映画の中でも、最も印象に残る怪演を見せます。彼はゲイリー・オールドマンのような悪役を演じたかったそうですが、充分以上に期待に応えています。彼は個性が強すぎるためか、年々スクリーンに登場する機会が減ってばかりですが、もう少し韓国内で見直して欲しいとも思いました。ちょっと前なら彼が応じそうになかったひどい悪役ですが、とても意欲的に取り組んでいて、客席からも笑いがほとんど起こらなかったことも印象的です。もう一人、記憶に残ったのが、囚人の一人キム・ジャンギョン役のチャン・セジン。表現力はイマイチではあるものの、『野人時代』などで見せたこわもてではない、本人自身の人格を感じさせる役柄を好演しています。今後も活躍して欲しい俳優の一人です。

 『ホリデイ』という作品は、作風も企画も、既に二昔前のものであり、今の韓国では今更的な映画だったのかもしれませんが、同様の企画を、どう現代に受けるようにアレンジするかが、これからの韓国映画の課題の一つなのかもしれません。やはり、現代史というものは、韓国を理解する上で内外ともに、これからも必要なテーマだからだと思うからです。

シネマコリア2007で上映


『青燕 あおつばめ』 (再掲)

2006年執筆原稿

 ここ十年の韓国を想うとき、一番何が変わったかというと、個人の発言が大幅に自由になり、他の異なる意見を受け入れることに対して寛大になった、ということでしょうか。政権がかわり、インターネットを軸とした情報の流通が盛んになる中で、一昔前までは、あくまでも酒の席で、こっそり話してくれたようなことが、今では各々の意見としていえる土壌が韓国ではかなり出来つつあると思います。もちろん、一部のメディアや人々は相変わらずなんですが、極端にバランスを欠くそうした意見に対しても、バランスをとろうとする意見が反映されるようになってきています。


 この『青燕 あおつばめ』は、今まで埋もれてきた韓国の人たちの意見が、映画という形を取って姿を現した作品であると共に、韓国の映画人の手によって、自らのタブーを破ったエポック・メイキングな映画といえるでしょう。それは、かつて『シュリ』が、北朝鮮の人々を狂信的なコミュニストではなく、血の通った人間であり、生きることを必死に求めている人々であることを描いたことと同じくらい、重要なことなのではないでしょうか。

 しかし、この映画を巡る韓国社会の無慈悲な反応もまた、韓国社会の特異性、日本人には容易に受け入れがたい部分の発現だったとも思うのです。私がこの作品を観て驚愕したことは「日帝時代」がチャンスに満ちた可能性の時代であり、日本の人々と朝鮮の人々が真に共存出来た時代でもあったことを、媚びることなく堂々と描いていたことです。それゆえ、一部の韓国人からすれば「一応、攻撃対象にしなければならない作品」として、インターネットを中心に、つるし上げにされたことは非常に残念でした。一説には「一般観客が期待していたスペクタクルではなかったから受けなかった」ともいわれていますが、観客に拒否された理由は、それだけではないでしょう。もし『青燕 あおつばめ』が「主人公パク・キョンウォンが、日本人どもの嫌がらせと日帝の悪だくみにもめげず、裏切り者の親日派と闘いながら、民族の誇りを賭けて、国際的な名声をつかみとる」という具合の作品だったならば、もう少しは韓国内で受けていたのかもしれません。しかし、あえてそうしなかったところが、この『青燕 あおつばめ』の勇気ある正しい部分だったと思う反面、韓国のマーケットから総スカンを喰らわせられた大きな理由にもなっていたのではないでしょうか?

 この作品の素晴らしい所は、昭和初期から日中戦争が始まるほんの短い間ですが、これから未来に向けて進もう、という意欲に満ちた自由な時代の空気感がとてもよく出ていることです。これは、日本人の美術監督を筆頭に、日本人スタッフと韓国人スタッフの共同作業による賜物ですが、もっともっと高く評価すべきものであり、これで終わらせてはいけないものです。

 物語は、ヒロイン、パク・キョンウォン(チャン・ジニョン)の住む田舎に、日本軍がやってくるところからはじまります。周りの大人たちが国家の終焉を嘆く中で、幼いキョンウォンだけは、異国の軍隊に好奇心一杯。そして、不時着した日本の飛行機との運命的な出会いをしたことが、彼女の運命を決定づけていきます(お互いの関係をこんなにも美しく切なく描いたシーンは、今まで日本にも韓国にもあったでしょうか)。時は過ぎ、周りの反対にもめげずキョンウォンは国を出て、日本でタクシー運転手をしながら飛行士をめざすことになるのですが、そこには韓国人による歴史への自己批判というものが非常に強く出てもいて、驚かせられます。キョンウォンは、当時としては飛び抜けて先進的な女性であり、自由思想の持ち主であったわけですが、重要なことは、その基盤となったのが、ドイツでもフランスでもアメリカでもなく、モダニズムが豊かに花開いた日本であった、ということです。これは韓国人による、日本近代化への高い評価でもあって、いくら理屈をこねても、そうはなれなかった当時の朝鮮社会への痛烈な批判でもあるのです。

 しかし、『青燕 あおつばめ』は決してお互いの美しいこと、都合のよいことばかり描いている訳ではありません。「女流飛行士パク・キョンウォン」が、日本のプロパガンダに利用された悲劇でもあり、日帝時代における日本と朝鮮の対立の物語でもあるからです。しかし、これまでの作品群と違うのは、個々人の交流と対立を優越的なナショナリズムから引き離して描こうとしているところでしょう。劇中、朝鮮の人々を嫌い差別する日本人は出て来ますが、仲間として愛し、支える日本人も同じくらい出てきます。また、朝鮮の人々も、全員が仲良しで支えあっている訳ではありません。彼らの間には貧富の差、身分の差が歴然と存在し、互いの妬みや身勝手から、同じ民族の対立や流血を生んでゆく様が描かれるのです。それは「日本人だけどいい人」だとか「同胞を裏切った親日家」といった偏狭な視点から見ては理解できない現実的な人間洞察であって、観ていて、とても心打たれるものでした。

 物語はキョンウォンの恋人、日本陸軍士官でもあるハン・ジヒョク(キム・ジュヒョク)が、大学同窓生が引き起こした赤色テロの巻き添えを食らって、特高に捕まるあたりから、悲惨なものへと変わっていきますが、ここで重要なのは、この悲劇が「日本人や日帝がいかに残酷だったか」というワン・パターン反日描写であることよりも、キョンウォンとジヒョク、ジョンヒ(ハン・ジミン)の三角関係から来る愛憎が辛いドラマへの引き金となっているということであって、一方的な日帝主義批判とは、少し違うと思うのです。また、発端となった赤色テロにしても、当時は「帝国主義」が先進国としての証であり、それに対する正義の一つとして「共産主義」が存在し、お互いの名の元に歴史的悲劇が量産されていった時代であったことを、観る側はきちんと認識しなければいけないことなのです。映画は決して過激な民族主義を肯定してはいないし、共産主義者に対する描き方も、日本とは異なった、やはり韓国ならではのものであって日本と異なることを、留意すべきでしょう。

 『青燕 あおつばめ』は全体の構成に難があって、重要な部分をスコスコ抜かして、無理やり航空アドベンチャーに仕立てているために、ヒロインの人間像が深く描けていなかったことが非常に残念でしたが、それが韓国のマーケット特性ゆえの判断だとすれば、なんとも不幸なことです。メジャー作品として製作されたことが、この『青燕 あおつばめ』の悲劇だったのかもしれません。逆に、航空アドベンチャーでなければ、この『青燕 あおつばめ』という作品は、もっと優れた作品になっていたでしょうし、意欲的なテーマを語るには133分では短過ぎたのです。韓国において『風のファイター』が大ヒット、『青燕 あおつばめ』はコケたうえ、心ない弾圧を受けたという事実は「いかにも韓国的である」と感じると共に悲しい事ですが、それは「韓流」「友好」「友情」というコピーだけが乱舞し、多くの人々が白け続けている日本への皮肉だったのかもしれません。

 この映画を罵倒し、せせ笑うことは簡単ですが、そんなことよりも背後にある問題提起を解きほぐし、理解しようとすることこそ、日本と韓国の観客に課せられたテーマだったのではないでしょうか。本来なら星四つは付けられない作品ですが、是非とも多くの日本人と韓国人が観て、色々な世代が語り合う中心になってほしい作品ゆえ、あえて星四つとします。日本において大ヒットはとても望めませんが、きちんと公開して、賛否両論マスコミで論じてほしい韓国映画の一本だと思います。

シネマコリア2007で上映


Copyright © 1998- Cinema Korea, All rights reserved.