Review 『千年狐 ヨウビ』『ペッコムのマグカップ旅行』 『五歳庵』『エリシウム』
Text by カツヲうどん
2007/6/17
『千年狐 ヨウビ』
2007年執筆原稿
本作のイ・ソンガン監督は韓国で活動しているアニメーション監督の中で、最も日本の演出スタイルに近い人物といえそうです。どの作品にも共通する世界観がありますが、毎作品ごとにキャラクターなどデザインワークが大きく変化する上、シナリオ(その出来、不出来は別として)を重視した、作画だけに固執しない全体を計算した作品を作り続けています。
今回は彼の作品中、最もメジャー路線を模索した内容で、日本でも公開された『マリといた夏』とは全く別の印象を受けるでしょう。キャラクターも絵柄も従来のアート系のものではなくて、完全な今風日本スタイル。だから嫌う人もいるのでしょうが、一般的にはこちらの方が親しみを感じる人も多いわけで、「韓国アニメが堕落した」と批判するよりも、毎回手法を変える監督の創作意欲と解釈すべきかと思います。
物語は、かなり支離滅裂。ですからそこら辺が韓国のファンに非難を受けていることは理解できますが、これに関しては作品のイメージ性を重視するか映画として一貫性を重視するかで賛否分かれるところ。冒頭、千年狐のヨウビ(声:ソン・イェジン)が不時着したエイリアンと遭遇、それからいきなり百年経ったところから物語は幕を開け、最初は地球に不時着した異星人たちの焦燥と故郷への帰還がドタバタで描かれるものの、林間教室に来た小学生とヨウビの交流が始まってから、妖異を狩る風水師、謎の影人間が絡み始め、最後はアニメーション版『ムーミン(注:りんたろう監督の初期版)』によく出てきた悪夢的世界での戦いになり、なんだかうやむやなまま終結してしまいます。全体のテイストもスタジオジブリの近作をかなり参考にした(つまり海外市場をかなり考慮した)ものであって、話の混乱・未消化ぶりがまた、そのジブリ近作似の印象に拍車をかけてしまうのでした。
では、この作品はダメな作品だったのでしょうか? 確かに色々と首を傾げる部分はありますが、総体として考えれば十分娯楽作として合格点を与えられるものであり、少なくとも偽善に満ちた『五歳庵』や、隠れ反日アニメ『ワンダフルデイズ』などより、遥かに優れていたと思います。まず、実質的製作期間を簡単に算出すると、恐らくは2〜3年程度。絵作りの完成度も韓国アニメーションとしてダントツのレベル。3Dの使い方に関しては日本のものより遥かに高水準です。バラバラな物語になった理由も、韓国的な事情を察することで、ある程度納得出来るものです。つまり船頭たち(各パートの長たちですね)の見栄をはった舵取り競争が激しく、用意周到に物事が進められない、という韓国ではよくあるパターンが、この作品でも起こったのではないでしょうか。でもそれは次回への課題として解決すればいい程度のレベル。当初心配していた、千年狐とエイリアンの組み合わせという、あざと過ぎる部分も予想外に楽しく出来ていて、十分成功していました。
イ・ソンガン作品の特徴であるドラマ性へのこだわりはきちんと感じられて、他の韓国アニメーション大作が、形だけの志と枚数の多さといったことばかりに引きずられて観るに耐えない代物を連発する中で、かなりバランスと個性の調和が取れていた作品だったと思うのです。ただ、話を詰め込みすぎて物語のテーマが絞りきれなかったためか、肝心の主人公ヨウビが、最後までどうでもいい存在だったことが残念でしたが、決してハッピーだけではないラストや、劇中登場する犬や熊といったキャラクターが、きちんと「動物」であったことは、韓国のアニメーションの中では大きな前進であったと評価すべきでしょう。
イ・ソンガン監督は「アニメーターではない」という事で、韓国のアニメーション関係者から妬みの視線を込めて無視されている傾向は否めませんが、彼の作品が持つゲシュタルト性こそ韓国のアニメーションで一番見習うべき部分であって、「あいつは俺たちと関係ない!」と吐き捨てるのではなく、きちんと研究・分析して欲しいと思います。なお、2003年度の短編作品『オ−ヌ−リ』は本作の前哨戦的作品であると共に、秀作といってよい作品になっているので、本作と併せて観ることをお薦めしたいと思います。
『ペッコムのマグカップ旅行』
2007年執筆原稿
クリスマスイブの朝、幼いベベが街角のサンタクロースにもらった不思議なペンダント。そこから突然現れた大きなマグカップに乗って、ベベと動物たちの奇妙な旅が始まる。韓国EBSで放送されている短編3Dアニメ・シリーズを初長編化した作品(でも、本作が製作期間5年って、ちっとも自慢にならないので、宣伝材料としてはどうかと…)。
韓国において、自前のキャラクター・コンテンツを開発し、ビジネスとして展開しよう!とする動きが始まってはや10年あまり。当初続出した「なんだ、これ?」的なキャラはすっかり姿を消して、面白みはないものの、それなりにこなれたキャラクターが登場するようになってきました。ただ、定番になったものは非常に少なくて、韓国のキティちゃんが誕生する日はまだまだ遠き未来のことなのかもしれません。個人的には、数少ない生き残りキャラ「タルギ/いちごちゃん」など、そこそこ面白いと思うのですが、そもそも男が雑貨店や小物屋に出向くことが皆無に近い韓国では、「『タルギ』の電卓を愛用する一流財閥のエリート社員」といった存在は、いまだあってはならないものなのでしょう。そこら辺が少しでも変わらないと、いつまでたっても韓国のキャラクター・コンテンツ事情は平行線を辿り続けるのかもしれません。
「白熊ペッコム」は韓国の教育テレビ、EBSで放映されている短編アニメーション・シリーズのキャラ。一応、韓国の子供たち(主に幼児)の間ではおなじみで、韓国では数少ない定番になりつつあるかもしれないキャラクターです。それを今回76分という、ぎりぎり長編にして劇場公開したのが、『ペッコムのマグカップ旅行』。日本の韓国アートアニメを紹介する催しでもこのペッコムは紹介されていて、それなりに受けていた記憶はあるので、決してつまらないものではないのですが、そのキャラクター・デザインと、お話内容には、やはり色々と疑問を感じてしまいます。
まず、そのキャラクター。その昔、仕事で韓国のオリジナル・キャラ物企画を見る機会があったのですが、手がける会社は違うはずなのに、どれも「極地、ペンギン、白熊」という組み合わせばかり。事実、他の韓国のアニメーションを観ても、どういうわけか、ペンギンと白熊が定番。韓国企業は、全てにおいてマーケティングの概念が日本よりもシビアで、具体的な市場分析のデータに基づいた説得力がないと上が絶対O.K.しない、という印象が強いのですが、ペッコムのシリーズも、そういったデータを基盤に生み出されたもの、ということなのでしょうか? でも、ペッコム一連のキャラは、ただ気持ち悪いだけであり「きもかわ」といった計算は全然感じられません。キャラクターの顔や体型を構成する各要素の比率具合から、もともとは、アメリカのギャグアニメ(例えば『スポンジ・ボブ』や『シンプソンズ』)のスタイルを想定した、二次元前提のデザインだったと思うのですが、これを3Dでモデリングしてしまったばっかりに、グロテスクで醜い仕上がりになってしまった感じがします。ですから、このペッコムを定番としてこれからも続けて行くならば、オーソドックスな2Dアニメーションでの展開も是非考えて欲しいとも思うのですが、「3D=最新=商売になる=ベストな選択」と頭から信じて疑わない風潮が韓国のマーケットにある限り、それは難しいのかもしれません。
次にそのお話内容。基本的には『スポンジ・ボブ』のような不条理ナンセンス物ですが、物語性だとか、ストーリー的な必然性だとか、そんなことは最初からどうでもいいようで、とにかくメチャクチャ。その場の思いつきで話を作ってやっている感じです。「不条理ナンセンス物」というもの自体、これはこれで独自の魅力がありますから、突き詰めて作ることが出来れば、決して悪い選択肢ではないし、こういったギャグの分野は、韓国人の資質に合ってもいると思うのですが、残念ながら本作は、全てが中途半端。また、韓国のアニメーションで動物キャラを扱う際、いつもそのでたらめな描写がいつも気になるのですが、そういったいい加減さは『スポンジ・ボブ』のように、不条理な世界に徹することで初めてO.K.なのであって、『ペッコムのマグカップ旅行』のような内容だと、やはり極地の生態系であるとか、沙漠での植生であるとか、白熊やペンギンの実像であるとか、ある程度現実に沿った設定で物語を描かないと、話が痩せてしまい、ダメだと思うのです。また、劇中、巨大なマグカップが移動手段として登場しますが、このマグカップと操縦している動物のキャラも唐突であり、その存在理由が希薄です。やはりここら辺の意味も、屁理屈でいいから、きちんと説明すべきでしょう。どうしてマグカップに乗って現れるのが、ペッコムではなかったのでしょうか? そのことも不可解です。
『ペッコムのマグカップ旅行』は、集中力がない幼児があくまでも対象であり、それを選ぶのは保護者、というルール下で展開される作品である限り、ビジネスとしての問題はなんらないということなのでしょうが、幼児が観るからこそ、やはり最低限、生き物としてのリアリズムは押さえるべきでしょうし、大人のファンも掴みたいなら、もっとナンセンスに徹して、とことんやらないと、結局は生き残ることが難しいのではないでしょうか。
キャラ物企画を決定する際の韓国と日本の違いを考えると、判断の基準になるであろう要素、「市場に持つ数値的な影響力」と「どう感じるかという感性面での影響力」の折衷と判断が、日本はかなり高度なのではないか、と感じます。でも、こればかりはマネしようにもマニュアル的には把握できないことであり、「日本的なもの」、「韓国的なもの」の大きな違いの一つなのでしょう。ただし、ここ10年、韓国のキャラクターの進化を横で見ていると、想像していたよりもデザイン面では進歩が著しく、やはりクリエイター自身の問題というよりも、決定を下す側での問題が大きいように思います。
今後、ペッコムたちが生き残って進化を続けて行けるか否かは予想不可能ですが、やはり韓国だからこそ出来うる方法論を模索して、応用して欲しいものです。シュールな美学やギャグの表現力といった点では、日本にはない独自の感覚が韓国にはあるのですから、そういう感性をもっと活用してほしいものです。
『五歳庵』
2003年執筆原稿
ここ数年、韓国のアニメーション業界は、行政の後押しもあって、積極的にオリジナル作品の開発に取り組んでいるように見えた。だが、実際は、どの企画も一向に完成しないばかりか、興行的に成果をあげることが出来ず、国内でのファンによる支持も外国作品ほど得られない状況だ。企画の多くも、日本やハリウッドの作品を参考にしすぎたオリジナル色の欠ける物が多く、クリエイターの意思や作品の内容云々以前に、キャラクター展開などを前提にしたビジネス目的が先行しすぎている感があった。だが、商業活動の一端である故、そういった考え方は間違いではないし、日本も同じようなものだ。投資を行う側からすれば、かつての韓国アニメ「ドゥリ」や、日本の「ポケモン」などの成功がイメージに当然あるだろうし、韓国側の若手クリエイターたちからすれば「憧れ」の投影として、即時物デッド・コピーとなってしまう事も理解できる事である。だが、そこから越えるべき一線を、いつかは見分ける視点を持たない限り、意欲は空廻りし消耗する一方だ。
この『五歳庵』は、そんな韓国のアニメーションを巡る状況から、ほんの少しだけかもしれないが、一歩、踏み出す事が出来た作品かもしれない。物語は、盲目の姉と無邪気すぎる弟を巡る短い説話である。仏教色が強く、人によってはかなり抵抗があるだろうし、その逆もあるだろう。登場するキャラクターは、個人的好みもあろうが、個性的ではないし、可愛くもなく、人物の性格を活き活きと見せるという点でも魅力に乏しい。ただし、子供同士の卑しさや、親馬鹿の醜さはきちんと描いているし、「動物は動物である」という点を描けた部分では、キャラクター演出において、SBSのテレビシリーズ『ペッグ(実話に基づいた珍島犬ペッグの忠犬譚)』よりは、進歩していると言える。時折、意図不明の妙なエフェクト演出が入ることに違和感を覚える。「実験」といってしまえば、それまでだが、この手のオーソドックスな物語では、やはり控えるべきものだ。上映時間が75分と、中途半端なのも気になるし、オープニング、エンディング・タイトル共に作りが雑で、全体的に未完成のまま公開してしまったようにも見える。韓国人スタッフの手により、フィルム・レコーディング(デジタル・データをフィルム・ネガに置き換える作業)された画質は、輝度が高いのが気になった程度で非常に美しい。『マリといた夏』の画質(こちらはおそらくキネコである)を思うと雲泥の差である。
この『五歳庵』から、日本のテレビ・アニメ『フランダースの犬』を連想する方々は多いと思うが、これはマネというよりもプロデューサーを担当したイ・ジョンホ(『ペッグ』の他に、トゥーニバース時代はSFロボット戦記『霊魂騎兵ラジェンカ(主題歌だけはヒットしたので聞いた事のある方は多いだろう)』のPDを担当)の意向が強く反映されている結果だろう。彼は高畑勲のリアリズム・スタイルを標榜し、韓国なりに消化して、再現しようと試みているのだ。テレビ・アニメ『ペッグ』でも、その意向は強く出ていたけれども、今回の『五歳庵』もまたプロデューサーであるイ・ジョンホが影の監督なのである。
日本やハリウッド、ヨーロッパなどのハイクラスのアニメーションを基準にしてしまえば、欠点は多いし、特に日本の目の肥えたアニメーション・ファンからすれば、あまり面白い作品ではないかもしれないが、アニメーションに対して特定のイメージを持たなければ、表現の一つの在り方として、楽しく感動的に観る事が出来ると思う。現在の韓国において、独自アニメーション作品の在り方を一考する上で、この『五歳庵』は重要な作品である。
『エリシウム』
2003年執筆原稿
大変な労作であっても人の目に止まらず、知らぬ間に消えてしまう作品は、いつの時代にもどこにでもあるものだ。映像や出版、各種企画開発に関わった事のある方々なら、必ず何度か経験する事である。この『エリシウム』も、それに携わったスタッフたちも、そんな哀しい星の下に今回はいたようだ。
映画の出だしは、非常に力が入っている。これは海外販売を考慮した上での作戦ではないかと思うのだが、この冒頭は、映画を続けて観たい、と感じさせる出来映えだ。だが、話は、ちんけな主人公が登場したところから、ありがちなつまらない展開になってゆく。
技術的には、数年前の珍作アニメ『鉄人四天王』とは比べ物にならないくらい、ハイエンドの仕上がりだが、内容はこじんまりと小さくまとまってしまう。この手の作品にありがちな、レンダリング(CGIにおける最終計算工程)が不十分なカットが、幾つか目立つのも気になるし、モーション・キャプチャー(生身の人間の演技を測定しアニメーションに移し替える技術)を多用するのは仕方ない事とはいえ、やはりアニメーションとしての面白さを失わせてもいる。デザイン・ワークは、いつもの韓国パターンだ。メカは日本、美術はカトゥーン(アメリカ)、キャラは日本+アメリカ混合といったところで、ちぐはぐだ。
この『エリシウム』の演出において最も個性的なのは巨大メカの戦闘シーンだろう。メカが、刀剣で打ち合う事に大変こだわっていて、チャンチャンバラバラする様子は、重量感と迫力があり最大の見所だ。『天空のエスカフローネ 3D版』といった趣である。
この『エリシウム』は、決してひどい作品ではないと思う。物語の忙しなさ、詰め込みすぎ故の散漫さは、幾つかの日本の作品にも共通する欠点だし、劇場は辛いがVTRやDVDなら十分以上の映像に仕上がっているからだ。日本で公開する場合は、再編集出来れば更に良いだろう。だが、日本人から観ると『エヴァンゲリオン』+『ファイブスターストーリーズ』+『Zガンダム』といった感じであり、これでは韓国のコアなファンが最初からそっぽを向いても仕方ない。なぜなら、オリジナルを観た方が遥かに意味があるし、韓国もマニアが先端の審美眼を持っているのは同じだからだ。だから、どうあがこうとも『エリシウム』が無視されて終わるのは仕方ないことだ。
ここ数年、韓国ではオリジナル・アニメーションを生み出そうとする運動が非常に高まっていたが、オリジナルはそうそう簡単には生まれない。韓国のオリジナルCGI企画は、オンライン・ゲームの影響か、暗くてリアルな方向になりがちだったが、これからは『キュービクス(アメリカで人気を博したが、製作が尻つぼみで終わったテレビ作品)』や、『エッグコーラ(現在、ハリウッドで映画化進行中だが、どうなるかは不明)』のように、もっとくだけて、CGIならではの世界観と面白さを展開する企画が必要だろう。アメリカのピクサー作品『トイ・ストーリー』や『モンスターズ・インク』が成功した大きな要因は、デジタルの特性と世界観をうまく融合させた事が非常に大きいのだ。『エリシウム』もまた、リアル系CGI作品の行先の不透明さを感じさせてしまったようである。
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