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Review 『グエムル −漢江の怪物−』『私のちいさなピアニスト』
『モノポリー』『奇跡の夏』

Text by カツヲうどん
2006/9/24


『グエムル −漢江の怪物−』

 この映画は2006年度韓国映画最大の話題作であり、カンヌで先行上映されるなど、マーケティングの面でも非常に事件性が高い作品です。この映画を先んじて試写会で観た韓国人の友人は「今まで韓国になかった新しい作品」と絶賛していましたが、確かにそのとおりかもしれません。ただ、それは仇花にもなりうる可能性もはらんでいて、それは今後の韓国映画に対する国内観客の動向如何ともいえるでしょう。

 映画は大変簡潔で洗練されています。これはポン・ジュノ監督の最も優れた長所であり、複雑になってしまう話を正攻法でシンプルに、かつ深く描く才能は、情緒と理論性が見事に結託した才能です。前作『殺人の追憶』は、日本において黒澤明監督作品に喩えられ、高い評価を受けましたが、なにか黒澤明作品を連想させる点では本作品も同様です。しかし、特定の巨匠というよりも、1950年代から1960年代にかけて何本も作られた骨太で力強い社会派日本映画の系図、遺伝子を感じさせる映画、といった方が近いように思います。

 この『グエムル −漢江の怪物−』を観て、私が連想したのが、デヴィッド・クローネンバーグの『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と、日本の黒沢清の作品群でした。『グエムル −漢江の怪物−』は、登場人物と事件の進展、社会との関わりを描く上で、最低限しか見せない構成になっていて、あくまでも一家族に降りかかった災難に対して、個人レベルでどう対処し、どう感じたかに視点を絞って描き続けている点が、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と共通する明確で無駄の無い視点を感じさせました。日本において同様の作品が作られた場合に必ず見られる、「マスコミの対応だとか、世間一般を俯瞰した描写」という妙な不文律にあまり縛られていません。個人的な戦いを描く、ということはそういうことであり、それが災難が怪物禍であっても、ヤクザの闘争であっても、変わりません。この『グエムル −漢江の怪物−』も、社会一般の動向を、あえて個人の行動から咀嚼することで、よくある怪物映画のイメージから脱することに成功しているのです。また、黒沢清監督の作品群が、「黒沢清の作品であって、ホラーとは括られない」評価を受けているのと同様に、この『グエムル −漢江の怪物−』もまた、「ポン・ジュノの作品」として、ジャンル分けの呪縛から逃れる資質を立派に備えた、ポン・ジュノ思想の映画になっているといえるでしょう。

 映画自体は非常に社会派であり、ところどころ、学生運動(つまり若者たちが社会やその未来を憂えて戦っていた時代)を連想させる部分がありますが、それはポン・ジュノ世代のエッセンスであり、実に韓国らしい個性だったと思います。ですから、アメリカの横暴だとか、韓国政府の身勝手だとか、環境汚染だとか、映画を読み取る上では大事な要素ではあるのですが、それよりも映画の根底には韓国市民戦後史というべき基盤が存在することを念頭において観ることをお薦めします。

 物語の中心になる一家は、ほんとうに貧しく、最底辺に近い生活をしています。父子家庭であり、父親は本当にダメダメで、傍から観ていて本当に心配させられてしまう設定になっています。また、河原を根城とした未成年の浮浪者兄弟が出てきますが、ここら辺には、普通の日本的視点からだけでは理解が難しい、韓国社会の慢性化した問題点と、そのことに対する怒りというものが強く出ているのですが、これらを今でも映画のテーマとして描きうるところに、『グエムル −漢江の怪物−』が純然たる韓国映画の系譜にある作品であり、決して突然変異ではないことを感じさせます。

 登場人物で、本当の主演と言えたのが、祖父役のピョン・ヒボン。父親役のソン・ガンホばかりが評価されますが、映画の中で最も重要な人物であり、物語を牽引し続けたのは、間違いなくピョン・ヒボン演じた祖父でしょう。そしてもう一人注目すべきは、パク・ヘイル。彼は『殺人の追憶』で一皮向け、完全にアイドル系のイメージを脱しましたが、今回も地味ながら、高く評価すべき好演ぶりです。怪物との最後の戦いは、まさに主役。ガスで煙る背景をバックに、火炎瓶で立ち向かう姿は、凛々しくも美しい名シーンとなりました。『グエムル −漢江の怪物−』での演技、それはパク・ヘイルの今後の活躍を、確実に不動のものとしたのではないでしょうか。日本でも有名になったペ・ドゥナは、演出上の計算なのか、完全な脇役に徹しており、お馴染みの「ペ・ドゥナ口調」はほとんど聞けません。セリフが全然なくて、そこには新境地を開こうとした試みがあったのかもしれませんが、今回一番うまく機能しなかったキャラクターだったように思えます。それゆえ、最後の戦いで彼女が果たす役目には、監督が計算したカタルシスは出ていなかったように感じました。

 さて、肝心の怪物はどうだったのでしょうか? 基本的にはリアリズムを基調とした仕上がりです。あくまでも呪われた奇形、異端の生物であり、容姿も行動も格好よくありません。しかし、物語が進行するにつれ、怪物が生きることに純粋であり、邪心のない、ある意味で純真な生き物であることが明らかになってきます。走る機能があっても十分ではなく、かといって水中でも長く行動出来ずで、段々とその身体の不自由さは哀れになってくるだけではなく、雨が降ると反射的に天を仰いで口を開け、水を一心不乱に飲む姿は、ユーモラスであるとともに、悲しみと可愛らしさが共存していて、胸が詰まります。日本の怪獣や怪物が、一種の神、不可侵領域の象徴であるとすれば、ポン・ジュノの怪物は、弱く頼りない、一介の孤独な生物に過ぎないのです。

 この『グエムル −漢江の怪物−』という映画が韓国で大きな話題になっている理由の一つとして、VFXを海外の著名な会社が担当している、ということがあげられます。しかし、これは「なぜ、韓国の会社が担当できなかったのか?」ということでもあり、こんなに単純に喜んでいいことなのだろうかと疑問に感じました。「お金を出して技術を買えるのなら、買ってしまえ!」というのは、実に韓国的な考えだと思いますし、作品のマーケットを考慮した結果の判断であれば、理にかなったことだとは思います。でも、今回の『グエムル −漢江の怪物−』におけるVFXの海外委託を、複雑に感じていた韓国の業界人も、いたのではないでしょうか?(ただし、全てのVFXが韓国外の会社担当で行われた訳ではなくて、幾つかのカットは韓国内の会社が担当しているようです) 次は「やったことないから外国にまかせよう」ではなくて、「やったことないから自分たちで挑戦しよう」という発想で、映画を作ってもらいたいとも感じてしまいました(結果的にそれが大きな赤字を生み出したとしても)。

 『グエムル −漢江の怪物−』という作品は、一種のエポックメイキングとして、今後、韓国の映画史で語り継がれてゆく資質を持った作品ですが、それゆえ忘れ去られてしまう一過性も併せ持っています。日本人にとっては、昔からお馴染みのジャンルなので、好意的に受け入れることが出来る作品かと思いますが、韓国では映画自体は大ヒットでも、いつまでも愛されるジャンルの作品でいられるかどうかは、まだまだ難しいと思うからです。また、ポン・ジュノは、商業作品は今回が三本目。どれも傑作揃いではあるものの、『グエムル −漢江の怪物−』は、その中でも一番粗雑な印象を受けました。ただ、この荒さ、ちぐはぐなイメージは、ポン・ジュノの意図した試みであるのかもしれず、次回作では更にどう変化するか、注目してゆく必要があると思います。

 『グエムル −漢江の怪物−』は、「韓国映画」という偏見を離れて観てほしい映画であるとともに、映画を観た後は「韓国映画である」という点も考えて欲しい作品です。


『私のちいさなピアニスト』

原題:ホロビッツのために
2006年執筆原稿

 この作品、私は全く関心がなくて、ノルマの消化といった感じで観にいった作品だったのですが、まさに拾い物。道端で宝くじを拾ったら1万円当たったとでもいえばいいのでしょうか。観た日一日、とてもいい気分で過ごすことが出来た映画です。内容はきわめてオーソドックス、日本のマスコミからいわせれば、「韓国映画の伝統的パターン」といった紋きり型の評価をされて終わりそうですが、韓国映画に対して公平で偏向的ではない人にこそ、この映画の善さ(=良さ)がわかってもらえるのではないでしょうか。

 監督のクォン・ヒョンジンは経歴的には新人ですが、基本に忠実で手堅い作風は好感が持てます。ヒロイン役のオム・ジョンファは、私が観た彼女の作品の中では最高の役、年齢的な雰囲気がピッタリで、若すぎても歳を取りすぎても、うまくゆかなかったであろう微妙な年代の女性像を好演しています。

<物語>

 ホロビッツに憧れ、かつて国際的なピアニストを目指していた主人公キム・ジス(オム・ジョンファ)。同級生たちがそれなりに成功して充実した生活を送る中、彼女にとって音楽で生き残る道は、一般の子どもたちを相手にした場末のピアノ教室の道しかありませんでした。しかし、ピアノを習いに来る子どもたちも、子どもを預ける親も、彼女の理想に程遠く、経営もままならない日々。ピアノ教室の下でピザ屋を経営する人のいいシム・グァンホ(パク・ヨンウ)は彼女に好意を寄せ、色々と親切にしてくれますが、音楽のことは何も知りません。

 ある日、彼女の仕事場におかしな子ども、ユン・ギョンミン(シン・イジェ)が乱入し、暴れます。彼は近所で廃品回収を営む祖母(チェ・ソンジャ)と二人暮らしで、学校にも行かず、奇行で有名な少年でした。しかし彼は、天性の絶対音感の持ち主であり、ピアノの天才だったのです。ジスはギョンミンを利用して一旗あげようと画策します。ピアノ教室は盛況を迎えますが、それに不満を覚えるようになったギョンミンは、他の子どもたちに暴力を振るい始めたことが問題になって、瞬く間に教室は元の状態に戻ってしまうのでした。

 また、過去のトラウマを抱えたギョンミンは、晴れの舞台となるはずだったピアノ・コンクールでパニックに陥ってしまい、演奏を棄権し、ジスは失意のどん底に。しかし、ギョンミンの卓越した音楽の才能を知った外国のピアニストが、彼を養子として迎えることを申し出てきます。ギョンミンの未来を考えれば、まさに夢のような話でしたが、それはジスとギョンミンの別れを意味しています。いつの間にか、ジスはギョンミンとの間に親子の絆が育っていたことを知るのでした。

 苦悩の末、ギョンミンを外国に出す決意をするジス。それから十数年後、国際的なピアニストになって凱旋帰国したギョンミン。演奏を終えると観客に向けて、たどたどしい韓国語で感謝の言葉を投げかけます。「カムサハムニダ」と。それは、客席にたたずむジスとグァンホに向けた感謝と愛の言葉でもあったのでした。

 この『私のちいさなピアニスト』は基本的に二つのラブストーリーから構成されています。一つはジスとギョンミンの絆、もう一つはジスとグァンホの関係です。それが程よく融合していて、バランスのとれた物語になっているところも、この映画の良い部分。どろどろの韓国式愛憎劇にうんざりした人には一種の清涼剤ともいえるでしょう。

 次に、子役の扱い方がなかなか優れていて、妙に不自然で芸達者な子役ではなく、子どもが持つ、乱暴さや不器用さを重視したキャスティングと演出が、作品の完成度に大きく貢献しています。特にギョンミン演じたシン・イジェの場合、ほとんどセリフもなく無表情、演技なのか地なのかよくわからないのですが、「いかにも賢そう」といった子役特有の欠点がないところが光っていて、映画のキーキャラを見事にこなしました。

 物語も、よくあるサクセス・ストーリーにはなっていないところが、映画の余韻を高めています。ジスとギョンミンの共同ピアノ勝ち抜き成功物語だったら、もっとつまらない映画になっていたでしょう。『私のちいさなピアニスト』は、今の韓国映画の中では残念ながら埋もれがちになってしまうタイプの作品ですが、機会があったら是非観て欲しい、2006年度韓国映画ではお薦めの一本です。


『モノポリー』

 この映画の見所は何かといえば、凝りに凝った映画の構成でしょう。ラストのどんでん返しを迎えるまで物語は「世間知らずのオタク青年が、狡猾な詐欺に引っかかってひどい目にあう話」といった具合で進んで行きますが、最後の最後、全編に散りばめられた伏線が全て一つに合わさって、エンドクレジットを使ってまでの大きなどんでん返しへと繋がってゆく構成になっています。ですから、映画がどういう構造になっていて、どう進行してゆくのか、ネタばれになってしまうので、それらに触れることは出来ませんが、私の感想は「やりすぎ」ということ。本来あったひとつの絵を、必要以上にバラバラに粉砕してしまい、元に戻すプロセスも、これまたやたらと複雑に構成してしまったために、結果的には別の絵になってしまった、という感じです。

 イ・ハンベ監督は、20年以上あたためていた構想を元にシナリオを書き上げたそうですが、これでは物語やキャラクターの造形うんぬんよりも、シナリオの構成表作りに、何年もウンウン唸って時間を費やし、エネルギーを摂られてしまったのではないでしょうか? そのためか、各キャラクターの描き方、ドラマは、とっても希薄です。どんでん返しが、この映画最大のテーマなら、キム・テグンの音楽の良さもあって、そこそこ成功してはいるのでしょうけども、一般的な映画としては、なんだか方向性がズレていたのでは?と、強く感じました。

 映画の中で「フィギュア」が人物を描く重要な小道具として使われていますが、天才的プログラマー=オタクという、使い古された図式でしかありませんし、主人公キョンホ(ヤン・ドングン)の職務、生活といったものが、ちゃんと浮かび上がって来ません。また、キョンホにつきまとう他のキャタクター、謎の男ジョン(キム・ソンス)だとか、これまた謎の美女エリー(ユン・ジミン)だとか、事件を解き明かそうとする公安の連中だとか、その他オッサン連中だとか、みんな印象が弱くて、観ているうちに皆同じに見えてきてしまいます。登場人物が虚無であることは、トリック上の必然性なのでしょうけど、これまた、何か方向性を誤ったように見えました。

 キョンホ演じたヤン・ドングンは、一種天才的な役者勘を持つ俳優で、彼のこの才能が映画のトリックに大きくものをいってはいます。でも、彼の繊細さばかり表立ってしまっていたので、ちょっと物足りません。ただ、だいぶ痩せたこともあってか、ロンゲ&メガネの二枚目ぶりはちょっと意外でした。ジョン演じたキム・ソンスについては、語りようがありません。なぜなら、そういう無個性なキャラクターを求められた役柄だったからで、そういう意味では演出の意図には沿っていたのでしょう。エリー演じたユン・ジミンは、演技よりもメークで無理やり劇中キャラに合わせた感じで、あまりこういう役柄は似合っていないタイプの女優でした。

 なお、この作品、主人公がフィギュア・コレクターという設定なので、映画には模型店(三成COEX内にあるアカデミー科学の直営店)が出てきますが、こういうフラッグシップ的なお店ではなくて、良才や竜山辺りに集まっている模型屋なんかで撮影して、韓国オタクカルチャーの濃い部分を見せて欲しかったところ。なぜなら、韓国社会のサブカルチャーを考えるとき、プラモデルやフィギュア、玩具産業というものが、一体どういう存在なのか知ることは、日本と韓国を比較する上で面白い材料だと思うからです。もっとも、映画の主題とは全く関係ないし、誰も興味がないでしょうから、どうでもいいことなんですけどね。あくまでも私見ではありますが、こうしたオタクに関する描写に、韓国ソフト・コンテンツの弱点たるものがちょっと出ていたように感じました。

 決して悪い作品ではありませんが、上質なミステリーを期待しない方にだけ、お薦めしたいと思います。


『奇跡の夏』

 この『奇跡の夏』は、家族連れの観客にとって、非常に優れた作品といえるだろう。辛く深刻なテーマを正面から堂々と描き、脳腫瘍治療の様子や小児ガン病棟の生活など、きちんとした取材を元にしただろうリアルな描き方をしており、単なる美しい家族愛・難病ものでは終わっていない。

 監督のイム・テヒョンは、キム・ハヌル&ユ・ジテの映画デビュー作『バイ・ジュン 〜さらば愛しき人〜』のプロデューサーだった人物で、興行的な面と社会的な影響面を見越した、バランスの取れた映画を作ろうとする努力が感じられる。(韓国での)マーケティングの面でも、障害者とその家族を招待する大々的な試写会を開くなど、公共的なアピールを怠らない。しかし、この『奇跡の夏』にも、2005年の大ヒット作『マラソン』と同じように、ビジネスでありすぎる面も目立ち、私のようなへそ曲がりウォッチャーからすれば、必ずしも率直に喜べない作品でもあった。

 実はこの映画を観た後、韓国人の知人一家から「週末、みんなで映画を観に行くのだけど、何がいいと思いますか?」という相談を受けた。それに対して、私は「『奇跡の夏』だったら、いいかもしれませんね。でも・・・」と答えずにはいられなかった。なぜなら、この映画は計算高い面があまりにも見えすぎるゆえ、あんまり大手を振って推薦したくなかったからなのだ。ただし、重ねて主張したいが『奇跡の夏』は良い映画だ。題材が題材だけに、観る人によって意見が別れるだろうな、ということである。

 主役のハニ演じたパク・チビンは、2004年韓国旧正月作品で最大のダークホースとなった『ファミリー』でも名演を見せた子役だ。今回も優れたパフォーマンスを見せてくれるが、はっきりいって映画のテーマから浮いてしまっている。だから、彼の兄ハンビョル(ソ・デハン)の方が逆に深い印象を残すという、皮肉な結果になっている。また、本当の小児ガンの悲劇の主人公だったのは、ギャグマン志望のウク(チェ・ウヒョク)と、その家族だったりする。

 ハニの両親の描き方も、その突っ込み具合は人によっては賛否両論だろう。母親(ペ・ジョンオク)はあくまでも長男の行く末に悲観的だし、父親(パク・ウォンサン)は、本音を隠しながら希望的に立ち向かおうとする。ハンビョルが、緊急手術を受けなければいけないほど、病気が進行している事実に直面したとき、妻を優しく支えようとする夫に対して彼女は「何をいっているの!」と感情的に反論する。しかし、二人の激しい心の葛藤はここで終わり、あとはよくある優等生的な優しい両親像で最後までいってしまう。父親の理知的な態度は、監督であるイム・テヒョンの代弁でもあるのかな、と思いつつも、もう少し大人の事情を突っ込んで描いてくれれば映画は深みを増しただろうと思う。

 「汚いものを、わざわざ子供に見せるべきではない」という考え方は間違ってはいないけど、韓国社会の暗闇を巧妙にぼかしながらも鋭く突きつけた『おばあちゃんの家』のような切れ味は、残念ながら『奇跡の夏』にはなかったようだ。


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