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Review 『恋愛術士 〜Love in Magic〜』『ロマンス』
『王后沈清』『マドレーヌ』

Text by カツヲうどん
2006/5/6


『恋愛術士 〜Love in Magic〜』

 この『恋愛術士 〜Love in Magic〜』は毛色の変わったコメディだ。主人公ジフンが、プレイボーイの人気マジシャンであることが、劇中まったく役に立っていないことは、明らかに演出的なミスなのだろうけれど、そんなことが気にならないくらい、キャラクターたちの掛け合いが楽しい現代コメディに仕上がっている。内容はお手軽で、こぢんまりとしているが、決して軽薄でもなく、現代韓国の世相がそれなりによく出ている。

 物語は主人公二人のラブホテル盗撮犯人捜しの珍道中であり「ラブホテル物」とでもいうべき内容になっており、ところどころに韓国のホテル事情がよく出ていて、笑える日本人もたくさんいるだろうと思う。

 主役のジフンを演じたヨン・ジョンフンは不思議なキャラクラーの持ち主だ。ソル・ギョングより内野聖陽に似ているとか、いやイ・ジョンジェにも似ているぞとか、つぶらで奇妙な瞳の独特な容姿の持ち主なのだけれど、大根役者に見えつつも時折見せる繊細さと鋭さには思わずハッとさせる輝きがある。彼一番の特徴は、なんといってもテレビと映画では全く印象が違うことだろう。相手役ヒウォン演じたパク・チニは、濃いルックスゆえ、損をしている感じもするが、とても現代的なキャラクターを持った女優であり、本作品にはまさに適役。もっと活躍してほしい。

 新人監督チョン・セファンの演出は小気味よく、ベタなお笑いに演出が流れたりしないところは、今の若手に共通するうまさを感じさせる。日本でいえば、CX系列(フジテレビ)のテレビ・ドラマあたりが得意としそうなネタだし、映画であることにあまり意味がない企画にも思えるが、ラブホテルを巡るコメディゆえ、韓国の地上波テレビ・ドラマでは、まだまだ無理な話なのだろう。

 こじんまりまとまった小さな作品だが、現代劇が好きな人にはお勧め出来るし、ヨン・ジョンフンが気になって仕方ない方は必見の作品だ。


『ロマンス』

 この映画が始まってからまず第一に感じたのは、どんなジャンルであっても映画を撮り続けることの厳しさでした。なぜなら、監督のムン・スンウクは、こういったタイプの企画から最も遠い位置にある人物だと私は常々思っていたからで、東映のヤクザ映画のような始まりは、「え! あのムン・スンウク監督が?」といった具合に驚いてしまいました。自身の作家性に頑なにこだわり、メジャー路線に迎合することをあんなに嫌っていたかのような彼が、一見コテコテの韓国式メロ・ドラマに思えるような出だしで始まる作品を撮り上げたことは、色々と複雑な事情を想像させたのです。

 しかし、そんな杞憂も映画が進むにつれてすぐ四散してしまいました。なぜなら、映画が終わると、この『ロマンス』もまた、作家ムン・スンウクの作品であることが、はっきりわかったからでした。そこには、監督の追い求めているものが、巧妙に偽装されて描かれていて、やはり彼でなければ撮れなかったであろう作品になっていたのです。

 刑事ヒョンジュン(チョ・ジェヒョン)は、苛酷な現場で疲れ果てた日々。かつてアジアン・ゲームの射撃で銅メダルを獲った栄光も今では遠い過去。結婚生活は失敗し、別れた妻には子供と会うことを拒絶されています。ユニ(キム・ジス)もまた、絶望の結婚を送っています。政治家であり資産家である夫の元に嫁いで数年になりますが、嫉妬深く、暴力を振う彼との生活に、ユニは感情を失い、まるで人形のようになっていました。二人が最初に出会ったのは数年前。しかしそれは一瞬の邂逅であり二人に記憶はありません。二度目の出会いは、トラックにひかれそうになったユニを、ヒョンジュンが救った時。怪我をしたヒョンジュンをユニは言葉少なげに手当しますが、お互いが誰かわからないまま、別れてしまいます。そして三度目。ヒョンジュンはユニが著名人の妻であり、生きる世界が全く違う人間であることを知りますが、彼女の憂いに自分の寂しさと共通するものを感じとってゆきます。それはユニも同じ。遂に二人は一夜を共にして愛し合いますが、そのことを知ったユニの夫は、ヒョンジュンの上司カン検事(ユン・ジェムン)を通じてヒョンジュンの殺害を謀り、ユニを病院に監禁してしまいます。一方、刑事仲間の庇護のもと、一命をとりとめたヒョンジュンは入院先から逃亡、ユニの監禁されている病院に立て籠もりますが、警察に包囲され一触即発の状態に陥ります。ヒョンジュンに対して同情的な警察官たちと、彼の抹殺を焦るカン検事たちが対立する中、遂に戦闘警察による強行突破が行われ、絶望的な攻防戦が始まります。

 この映画の特徴は、男女のラブ・ストーリーの形をとりつつも「相互コミュニケーション」がテーマになってもいて、それはムン・スンウク監督の長編デビュー作『異邦人』、そして第二作『バタフライ』と脈々と連なるテーマでもあります。「なぜ愛するのか?」という事よりも、「愛されたい、愛したい」という感情の後ろにある、葛藤と相手を慕いつつも互いに疎遠になってしまう苦しみといった、個人間の障壁からくる問題を、この『ロマンス』でも強く訴えているように私には思えました。それは日本のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』などで描かれたテーマとも共通するものであって、韓国式ラブ・ストーリーという仮面を剥がした視点で映画を観ないと、ありがちで大げさメロ・ドラマ、という印象で終わってしまうでしょう。そういうところが、ムン・スンウク監督作品らしいところでもあったと思いますが、この映画の商業作品としての欠点でもあるのです。

 また、階級闘争がもう一つの大きなテーマになっていて、それを強烈に感じさせるのは、ヒョンジュンと仲間たち、その上に位置するカン検事の険悪な関係です。安月給で危険な現場仕事に従事するヒラの刑事と、政治経済界と繋がるエリートたちの緊迫した上下関係は非常にリアルで、この作品に警察ドラマとしての面白さを加味したことは無論ですが、最後の最後、この『ロマンス』が階級の対立という問題を大きく含んでいたことを明確にしてゆくのです。単なる刑事同士の対立はよくある話ですが、労働者としての警察官、それを支配する階級としてのエリート検事という描き方は、斬新かつ説得力のあるもので、ちょっと注意して観てほしい部分です。

 映画の最後はハッピーエンドではありません。大量に流れ落ちる血は、主人公たちの涙のようです。悲劇で幕を閉じた瞬間、私はこう思いました。「ああ、ムン・スンウク監督は、オペラの世界を再現したかったのだな」 この『ロマンス』は賛否両論に別れるタイプの作品ですが、観る視点を変換することで評価が大きく変化する、なかなか複雑な映画といえるでしょう。


『王后沈清』

 1999年は韓国映画界にとって記念すべき年でした。『シュリ』が公開されたこの年を境に、韓国映画は中興の時代を迎えることになった訳ですが、ほぼ同じ時期、韓国のアニメーション業界でも「次は俺たちの時代だ!」とばかりに、行政や企業の支援を得て様々なアニメーション製作が企てられました。しかし、多くの企画は無駄な製作費を食いつぶすばかりで、完成しても結果は惨憺たるもの。一部、国際コンクールで受賞したり、コアなファンをつかんだ作品もありますが、ビジネスとしてよい結果が出ないものに企業がいつまでもお金を出す訳がありません。こうして韓国のアニメーション・バブルは弾ける前に、急速にしぼんでいったのです。しかし、決してオリジナル企画の製作が頓挫した訳ではなく、近年のデジタル機器の爆発的な普及にも助けられて、商業型アニメーションから離れた、個人的作品を目ざすクリエイターにとって、チャンスはこれからでしょう。逆に、権威主義に浸かった古いアニメーション業界関係者こそ、危うい立場に立たされているといえるのかもしれません。

 この『王后沈清』は、パンソリの曲目で有名な『沈清伝』をベースに、韓国商業アニメーション界のベテラン、ネルソン・シンが指揮をとって製作した大作アニメーションです。原作の『沈清伝』は、親孝行をテーマした韓国らしい題材であり、オリジナル作品を作る上では大変よい原作といえるでしょう。また、事前に発表された予告編は極めて印象が良く、古き良きカトゥーンの魅力を感じさせるものでした。そのようなわけで、期待して劇場に向かった私だったのですが、観終わってがっかり。残念ながら、韓国のアニメーション作品が今まで繰り返して来た過ちを、再び繰り返しているだけの退屈な作品になっていたからです。

 韓国のアニメーションが越えなければならない壁とは、古い偏見や外国のOEMで刷り込まれてきたプライドと、その演出のあり方に疑問を投げかけ、壊そうとする意欲だと思うのですが、この作品もまた、そういった壁は越えられないで終わってしまったようです。この『王后沈清』は、完全なアメリカのカトゥーン・スタイルで作られていますが、それは監督のネルソン・シンが、アメリカのOEMを長年手がけてきた人物であり、そのスキルとスタッフ・ワークをうまく機能させるには当然の事であって、決して不自然な事ではありません。ただ、そこには演出家としての明確な思想や哲学から来るオリジナリティが感じられませんでした。

 全編、作画はしっかりしていますし、枚数も日本人の感覚からいえば無駄使いとしか思えないくらい、沢山使っています。が、映画は平坦な演出とあいまって、まるで盛り上がりません。マニュアルに沿って造形されたようなキャラクターも古臭いだけです。シナリオには複数の人物が名前を連ねていますが、本当に、こんな大人数で関わる必然性があったのでしょうか。

 商業アニメーション映画で大事な事は、やはり世界観であり、登場人物たちの魅力であり、きっちりとしたテーマを持つ物語であると思うのですが、この『王后沈清』は、それらが全て弱い作品といえるでしょう。このことは韓国のオリジナル作品に共通する弱点でもありますが、それは韓国のアニメーション製作システムや、業界トップの考え方が、いかに硬直化しているかを示していることなのかもしれません。しかし、希望の灯が全て消えてしまっているわけではありません。なぜなら、未来の監督やプロデューサー予備軍である若い世代は、自分たちの社会が持つ構造的な問題を、ベテランたちよりも率直に認め、変えようとする姿勢があるからです。だから韓国アニメーションの未来は決して「暗い」とは言い切れません。そういう若い世代を、韓国の行政や企業が理解して支えて欲しいと思います。これらの要素がうまく化合すれば、想像もつかないような変化を遂げる可能性もあるのです。


『マドレーヌ』

 怪作『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』を撮ったパク・クァンチュン監督の第二作としては予想外に見える企画だが、彼のオタクぶりが良く出ている作品である。なぜなら、ヒロインの造形、それを取り巻く人間像、物語の進行など、少女漫画のスタイルや、ページをめくる感覚が映画に投影されているように思えるからである。そうする事で、従来のラブ&メロとは毛色の違う、現代韓国の若者にアピールすべき新しい映画を試みたのだろう。

 美容院で働くヒロイン、ヒジン役を演じたシン・ミナは、まだまだこれからといった演技力だが、前作『火山高』のヒロイン役より遥かに良い。前向きで聡明な役柄を、なかなか熱演している。シン・ミナは一般的な美人顔ではないものの、その事は彼女の個性として大きな武器になるだろう。小説家を目指す主人公ジソク演じるチョ・インソンは、朴訥な個性が韓国の若者らしくて好感が持てるが、もう少し破綻した役柄に出逢って、壁を壊さないと、俳優としてのキャリアが難しいであろう事を感じさせた。ジソクの昔のガールフレンド、ソンヘを演じるパク・チョンアは、ミュージシャンゆえ、劇中かなり歌うシーンが用意されている。だが少し多すぎて余計である。ジソクの精神的な支えとなる牛乳配達の青年マノを、キム・スロが演じているが、彼が映画で市中の人間を演じたのは、これが恐らく初めてではないだろうか。「個性派」といえば聞こえは良いものの、キワモノ扱いの感を拭えなかった彼の役柄としては、嬉しい配役だ。ただし、彼の最後のシーンは、まるで安っぽいコマーシャルか子供番組のようで、一歩間違えるとギャグになっていた。

 この『マドレーヌ』、登場人物が良い人ばかり、青春の苦しみもきちんと描き、とても美しい物語である。だが、全てが奇麗な絵空事にしか見えず、感動が薄いのはなぜだろうか。また、現代韓国を象徴するかの様に、携帯メールでのコミュニケーションやネット・ゲームでのイメージが随所に描かれているが、陳腐な印象は免れない。最近の若手作品はこの手の表現ばかりで工夫が足らず、「いい加減なんとかしろ」と言いたくもなる。良くも悪くも、底の浅いラブストーリーであり、結果的には「子供向けメロドラマ」で終わってしまったようだ。


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