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Review 『デュエリスト』『愛を逃す』
『放課後の屋上』『清風明月』

Text by カツヲうどん
2006/4/16


『デュエリスト』

※『デュエリスト』は韓国公開版と日本公開版では編集が異なります。
このレビューは韓国公開版のレビューです。

 この作品を監督したイ・ミョンセは、なかなかOKテイクを出さない人物として知られています。しかし、その映像的情報量は、韓国映画界では例外的に目を見張るもの、といっていいでしょう。1999年にヒットした前作『NOWHERE 情け容赦無し』が画期的だったのは、当時の韓国における製作環境下で、常識外の映像美を作り上げた事です。全編、戦前のドイツ表現主義を連想させる映像の連続は、アクション映画を越えて、今でも海外で高く評価されています。映画『マトリックス』においても、その影響が囁かれていることは、決して嘘ではないでしょう。しかし、この作品も完璧ではありませんでした。映像的な凄さはさておいて、ドラマとしては、かなり情けないものがありました。主演のアン・ソンギとパク・チュンフンの持つ力強いオーラがなければ、危うい気がする作品でもあったのです。

 約6年間の沈黙を破って姿を現したイ・ミョンセ監督の新作『デュエリスト』は、映画ファンにとって、ちょっと複雑な気持ちにさせる作品です。確かに今の恵まれた製作環境で製作された映像美は前作の比ではありませんが、あまりにも無機質な、観客おいてきぼりの豪華映像ショーになってしまっていたからです。

 基本的には、大人気を博したTVシリーズ『チェオクの剣』の映画化ではありますが、当然ながらイ・ミョンセ監督はオリジナルを解体し、自分の作品としての再構築を試みています。それゆえ、TVファンの観客にも不満は多かったのではないでしょうか。映画は冒頭から、凄まじい情報量です。カット数が多く、目まぐるしい編集をしているために「間」といったものがほとんどありません。まさに映像の洪水であり、雪崩のよう。物語は語り部による回想の形式をとっており、カリカチュアされた登場人物の造形とあいまって、この『デュエリスト』という物語が個人の空想、思い出に過ぎないということを暗に示しているのかもしれません。が、実験的過ぎて、観る側が同化することはかなり難しいでしょう。この企画はどちらかといえば、イ・ミョンセの作家性に基づいた映画化であるよりも、もっと普通に撮るべき企画だった、とは思うのですが、前作で国際的注目を集めてしまった同監督ゆえ、それは周りも許さなかったのかもしれませんね。

 主演のハ・ジウォンとカン・ドンウォンは、今、最も人気のある若手俳優の組合せですが、この作品では、血の通った人間というよりも、まるで人形です。彼らをバックアップするベテランとして韓国映画界の至宝、アン・ソンギも大活躍しますが、彼は徹底した道化役です。こうして観ると、ロングショットが多いこともあってか、監督のイ・ミョンセは、ヨーロッパのマリオネットや、日本の人形浄瑠璃の再現を狙っていたのかもしれません。特に山場である、主人公二人の決闘は日本の能や舞を連想させる映像に仕上がっています。この『デュエリスト』を観ていて、やはり素晴らしいのは、なんといってもアン・ソンギでしょう。彼には珍しく徹底した、おとぼけ三枚目の役ですが、いざ闘う時になると、切れの良いアクションと、深く厳しい渋い演技を見せてくれます。それは、今の韓国映画界において、誰が彼の後を継げるのか、ちょっと疑問すら感じさせるくらい、いい役者ぶりです。

 この『デュエリスト』という作品は、とりあえず映画『NOWHERE 情け容赦無し』やTVの『チェオクの剣』、マンガの『茶母』とは一切関係ないものとして観ていただくことをおすすめします。


『愛を逃す』

 「ボタンのかけ違い」という言葉があります。どんなに素敵なジャケットでも左右のボタンをかけ違えれば意味をなしません。この『愛を逃す』は、互いの関係にボタンをかけ違い続けた男女の10年間に渡る運命的な絆を描こうとした作品ですが、映画自体もボタンを4つぐらいかけ違えてしまったようでした。

 韓国の恋愛やメロ、といえば互いに「好きだ、嫌いだ、愛している、別れる、別れない」とヒステリーに騒いでいるかのような印象を持たれがちですが、それは日本で紹介される作品がそういったものばかりというだけであって、実際はもう少し多様です。『愛を逃す』も、そういったワンパターンに背を向けた作品であったのですが、主人公二人の優柔不断な関係は、登場人物たちをわかるようでわからない霞のようなキャラクターにしてしまい、私にとって感動できない作品でした。結婚や恋愛、という関係を越えた、人としての男女関係、口悪くいえば腐れ縁を描いたことは、共感できることもあるのですが、妙に腰が引けているカメラの視点に、画面にそぐわない変に俗っぽい音楽の使い方、テロップを並べないと時の経過がわからない時のうつろいと、監督が意図したものがまとまらないので、公開に合わせて無理やり一本に繋げたかのような映画になってしまっています。

 男が女を描く時、観客の共感を得るには何が一番重要かといえば、それは人物がどういう理由で何のために行動し、どういう気持ちになるか?ということを理論的に描けるかどうかであって、漠然と何となく人物がウロウロしていたり、悩んでいたりするだけでは、観る側としては感情移入するのは難しいのではないでしょうか。『チャーミング・ガール』『ラブ・トーク』のイ・ユンギ監督は女性の心理を描くことが上手い、と評されますが、彼は女性像を、明確な意思や感情を持って行動している人物として描いていますし、古くは溝口健二や成瀬巳喜男にしても、描かれた女性たちは行動理念がはっきりしていると思うのです。もちろん、異性や他人を描くわけですから、どうしても感情的に受入れ難い部分には、無意識でブレーキもかかってしまうでしょう。それを超えられるか否かが、クリエイターとしての才能でありセンスなのでしょうが、『愛を逃す』の場合、主人公二人の男女については、それが叶わなかったように見受けられました。

 監督のチュ・チャンミンは、前作『麻婆島(マパド)』において、形容しがたい不思議な人間ドラマを作り上げ、興行の面でも成功を収めましたが、今思い起こせばこの『麻婆島(マパド)』も、大部分の観客が「ホラー・コメディ」と勘違いして観に来たような映画でもあって、やはり「ボタンのかけ違い」が逆に成功をもたらしたようにも感じます。それが彼の持ち味だ、と形容するのは現段階では乱暴ですが、商業的なところから離れることで才能を開花させることが出来る監督なのかもしれません。

 優柔不断で不器用なウジェを、若き真の名優ソル・ギョングが演じていることが最大の話題ですが、日ごろ尖った役の多い彼が、ごく普通の役を演じているのを観ていると、どこかホッとして癒されます。物足りないと思う人もいるでしょうが、彼にはこういうごく普通の役をもっと演じて欲しいと思います。なんだかよくわからない幻燈のようなヒロイン、ヨンスをソン・ユナが演じていますが、個性は強いがオーラが無い、というスクリーン映えしないタイプの女優なので、ちょっとミス・キャストだったように見えました。もっと幸薄な印象を演じられる若い女優であったならば、映画のイメージ自体が大きく変わっていたかもしません。ヨンスの母親をTVドラマでお馴染みのイ・フィヒャンが演じていますが、彼女がこの作品で一番輝いた演技をみせてくれます。彼女は近所の初老男性(チャン・ハンソン)と恋人関係にあって、チュ・チャンミン監督は一生続く男女関係を描きたかったのだろうな、と思いました。イ・ギウが意外な役柄で出ており、演技が随分上手くなったな、と思うと共に「田舎にこんないい男、いねーよ」といった感もあって、ちょっと苦笑してしまいます。

 この『愛を逃す』は、韓国の一般的恋愛物に対するアンチテーゼであり、必ずしも普遍的な作品とはいえませんが、共感出来るかどうかは観る人次第の映画といったところでしょうか。


『放課後の屋上』

 この作品がどういう映画かといえば、「学園コメディ」ということなのでしょうが、奇をてらい過ぎたのか、全体が見えてこないバランスの偏った異様な映画になっています。予想のつかないストーリー、誇張されたキャラクターと、日本でいえばCM監督が撮りそうな内容ですが、ちっとも垢ぬけておらず、おしゃれでもなく、先端的でもありません。各カットとも、色々な手法を使って、バラエティ豊かに表現しようと努力はしていますが、唐突であまり効果的とは思えません。結論を先にいってしまえば、何をやりたかったのか、さっぱりわからない映画だったのです。

 主人公ナムグン・ダル(ポン・テギュ)は、とにかく運の悪い星の下に生まれた高校生。何をやっても貧乏くじを引きまくり、トラブルに巻き込まれます。そこである研究施設で治療を受けて、人生をやり直すべく転校するのですが、転校先もまた一筋縄ではいかない生徒ばかり揃った弱肉強食の世界。階級が不良といじめられっ子に分かれ、その中間で無難に生きることは至難のわざ。しかも、因縁あるチンピラもダルを追って姿を現します。ダルは、同じ施設で治療を受けていたマ・ヨンソン(キム・テヒョン)から、学園で上手く立ち回る方法を教わりますが、机上の空論。不良からは目をつけられ、いじめっ子たちからは慕われと、逆にダルの立場は複雑になるばかり。不良たちからダルはあの手この手で逃げ回りますが、遂に放課後の屋上で対決の時を迎えてしまいます。果たしてダルの運命は如何に?

 この『放課後の屋上』に見所があるとすれば、それは若手のキャスティングだけ。ポン・テギュを除いて皆、有名ではありませんが、やりすぎのキャラクター像は、人間標本箱の様相を呈しています。ダル演じたポン・テギュに関していえば、「また、高校生役?」と、ちょっと気の毒になってしまいます。役柄も彼にかなり依存したものなので、意外性もありません。反対に、盟友ヨンソン演じたキム・テヒョンは、元々が結構二枚目なので、今回一番目立った存在といえるでしょう。ただ、あまりにもヘンな髪型と牛乳瓶メガネの組合せは、抵抗を感じる人もいるかもしれません。ヒロイン、ミナ役のチョン・グヨンは可愛いというよりも、とにかく奇っ怪なインパクトある顔立ち。印象だけは強烈です。最初、私はなんらかの画像処理を顔にかけていたと思ったほど。その他、いじめられっ子グループ連中も、単体だけでは結構笑えます。

 この映画を観ていて特徴的だったのは、とにかく客席から笑いが全く起こらないこと。ここまで誰も笑わないと、それはそれで凄いことだったのかもしれません。演出自体はあの手この手で楽しませようと努力していることは伝わってくるのですが、みんな滑ってしまい、観客としてはとにかく乗れない作品でした。第二作も製作が決まったという噂を聞きましたが、それが本当だとすれば、それが一番の驚きとなりそうな映画です。


『清風明月』

 この作品は、従来の韓国時代劇とは少し趣が異なり、まるで日本の時代劇を連想させるスタイルになっている。凜として死地に向かう主人公の生き様は、日本人にはおなじみの感覚だ。その殺陣のスタイルも、腰を据えて一瞬一瞬を打ち合う型を重視している。美術も映像も重厚で丁寧に作られており、まさに「正統派」と呼ぶに相応しい時代劇だろう。

 だが、面白い魅力的な作品か?と聞かれたら、答えは「NO」。残念ながら、退屈で面白くない映画になってしまっている。話の大筋は、十分面白くなる可能性を持っていたと思う。だが、物語の途中、主人公ジファンとギュヨプを巡る過去の思い出が延々と描かれ始めるところから、映画の流れは完全に腰を折られてしまい、猛烈につまらない内容になって行く。また、全編を彩るイ・ギョンソプの音楽が、凝った映像を盛り下げている様に思えてならない。曲の作り自体はオーソドックスであり、決して安っぽい訳ではないが、単調で定番の保守的なスタイルが、映像を活力を奪ってしまっているのだ。

 登場するキャラクターは日本の劇画のように多彩だが、皆演技が固く作劇の中で活き活きと機能していない。その欠点は、残念ながら主人公たちにも、あてはまってしまっている。復讐鬼と化したジファンを演じたチェ・ミンスは、オドロオドロしい役柄が、その個性にぴったりだが、その「カリスマ」と称された個性も既に飽きられた感があり、そろそろ大きな方向転換が必要なのではないだろうか。ギュヨプ役のチョ・ジェヒョンは、こわもての容姿が、チェ・ミンスに全くひけをとっていないが、今回の演技は、今までと比べると、かなりよくない。武術の達人かどうか最後までさっぱりわからないし、『受取人不明』などで見せた鬼迫溢れる素晴らしい演技を思うと、比較にならない位の大根役者ぶりだ。紅一点ともいうべき、美貌の刺客を演じたキム・ボギョンは、古風かつ端正な顔立ちが役柄によく似合っているが、男のドラマゆえ、あまり活躍は出来ない。

 この『清風明月』は、大金を投じて製作されたにもかかわらず、とても成功したとは言い難い内容の映画ではあるが、一か所だけ観るべき価値がある。それは、最後の山場、漢江舟橋上の君主襲撃のシーンだ。死を賭して大軍勢に立ち向かって行くジファンの姿は、感動的で迫力に満ちており、まさに、このシーンを撮るため観せるためだけに、この『清風明月』は作られた、と断言してしまおう。それ以外は、残念ながら完全な意欲倒れに終わってしまった作品である。


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