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ユン・イノ監督作品『バリケード』との出会い
−『僕が9歳だったころ』から『バリケード』へ−

Text by 井上康子
2005/9/1


はじめに

 2004年9月に開催されたアジアフォーカス・福岡映画祭では、ユン・イノ監督の第3作『僕が9歳だったころ』(2004)が上映され、監督はゲストとして来日されましたが、その時のユン監督の第一印象は、一言で言って迫力がありました。苦労をして実績を持ち、自信をつけた人だけが持つことのできる、そういう腰の据わった人間の迫力があって、エネルギーが、もう、ほとばしるように話をされるのに圧倒されました。

 『僕が9歳だったころ』はアジアフォーカス・福岡映画祭2004では、『僕が9歳になったら』という題名で上映された。本作の原作小説『9歳の人生』(ウィ・ギチョル著)は河出書房新社より邦訳が出版されている(清水由希子訳)。

 そして、ユン監督の作品『僕が9歳だったころ』は1970年代の釜山近郊を舞台にした、9歳の少年が、愛する母親や淡い恋心を抱く少女を守ろうと奮闘する、その中で感じる喜びや戸惑いが描かれた、静かな幸福感に満ちたすばらしい作品でした。私は、この作品が本当に好きになって、監督のお話も聞きたくて、映画祭期間中、この作品は3回上映され、すべての回で監督がゲストのティーチ・インも行われたのですが、全3回、観に行きました。


アジアフォーカス・福岡映画祭2004より
右がユン・イノ監督

 子役たちの演技が本当に自然ですばらしくて、いったいどうすれば、こういう演技が導けるのだろうかと思いましたが、監督は、人間として信頼してもらえるように、撮影前に1〜2ヶ月、子供たちと一緒に過ごすようにして、信頼関係を築いた、とか、釜山方言を子供たちに習得させるために、1日に4時間位2ヶ月間方言の練習をしたが、さらに、スタッフたちと日常的に方言を使って、子供たちの方言が定着するように、スタッフには強制的に方言を覚えてもらった、とか、私が想像もしていなかったようなお話がボンボン出てきて、監督の真摯な映画作りの姿勢に本当に感動しました。そして、だからこそ、こんなにすばらしい作品ができるのだと、素直に納得しました。

 この時にインタビューをさせていただいたご縁で、監督の第1作『バリケード』(1997)の英語字幕付のビデオを見せていただき、そして、この作品が誕生するまでの経緯や、公開にこぎつけるまでのご苦労を監督から直接伺うこともできました。

 2005年9月3日に大阪で開催される「日韓映画バトル」(http://www.shasen.ac.jp/f_campus/fc_report/4thnikkan.html)に、ユン監督がゲストとしておいでになり、『バリケード』が日本で初めて上映されるのは、本当にうれしいことで、この機会に、たくさんの人がユン監督と監督作品に関心を持ってくださることを願っています。

 これからご紹介する「『バリケード』韓国公開までの歩み」は、ユン監督から直接伺った話をまとめたものです。『バリケード』の Review と併せて読んでいただき、この作品の価値と、たいへんな苦労をしながら、自分が作りたいと思う作品を真摯に作り続けているユン監督の映画人としての姿勢を、ご理解いただければ幸いです。また、『僕が9歳だったころ』は日本でも劇場公開が予定されています。この作品は、第12回(2004)春史羅雲奎映画芸術祭で、作品賞、監督賞(ユン・イノ監督)、子役賞(主演の4人の子役たち)を受賞し、韓国でも高い評価を受けている作品です。ぜひ、みなさん、劇場に足を運んで、観てください。


Review 『バリケード』(1997)

 監督・脚本:ユン・イノ
 出演:キム・イソン(ハンシク)、ユ・スンチョル(ハンシクの父)
     キム・ジョンギュン(ヨンスン)、カーン(カーン)、ジャッキー(ジャッキー)
     キム・イル(洗濯所のペク社長)

 ユン・イノ監督の第1作で、第2回(1997)釜山国際映画祭「韓国映画パノラマ」部門に出品された作品。今から8年前の作品であるのに、不法就労の外国人を登場させるという国際的な視点を持ち、父子の対立と和解、文化の対立と和解というという普遍的なテーマをもち、全く古いとは感じさせられない作品だ。

 監督は16歳の頃に、両親とフランスに移住したものの、フランスで暮らすということが受け入れられず、一人で韓国に戻り、そのことで、長く両親を恨んでいたそうだ。また、留学で、米国で生活した経験もあり、そういう外国での経験により、文化的な差異に特別な関心を持つに到ったようだ(→「アジアフォーカス・福岡映画祭2004 リポート 『僕が9歳になったら』」)。ゆえに、この作品の父子の対立と和解、文化の対立と和解というテーマは、監督自身が、描かずにはいられないという強い動機を持ったテーマであり、そのことが、この作品に強いエネルギーをもたらしていると感じられる。

 トタン屋根のバラックが立ち並ぶ路地裏、ハンシクはその一画に住み、近所の洗濯所で肉体労働者として無気力に働いている。彼には大学進学の夢があったが、米国に出稼ぎに行っていた父親が仕事中に怪我をして帰国し、彼の進学のための貯金は父の治療に使われ、彼は進学を断念せざるを得なかったのだ。そして、その無念さが父に対する憎しみになってしまっている。

 ハンシクの働く洗濯所では、粗暴なヨンスンら韓国人労働者と共に、バングラデシュから来たジャッキーとカーンが不法就労の外国人労働者として働いている。大量の洗濯物を、手でもみ、足で踏み、力を込めてアイロンをかけ、器械を使ってプレスする。換気の悪い作業場は蒸気がこもる。洗濯所の作業は重労働で、労働環境も良くない。他に行き場がなく、ここでの仕事に耐えているヨンスンたちにとって、ジャッキーとカーンは欲求不満のはけ口にもなっており、二人は毎日、殴られ、罵倒されている。

 しかし、監督がこの作品で描こうとしているのは、単純な父と子、韓国人労働者と外国人労働者といった対立や、外国人労働者への同情ではない。同じ韓国人労働者であっても、大学進学を断念し父を憎むハンシクと、ハンシクが高校を出ていることを羨むヨンスンは、互いを理解しあうことが出来ない。また、同じバングラデシュから来た不法就労者であっても、社長に連れて行かれた焼肉屋で豚肉を食べることを強要されて、宗教上の理由から「死んでも豚肉を食べない」と訴えるカーンと、病気の弟へ仕送りをしたい一心ですぐに豚肉を口にするジャッキーも、互いを認め合うことが出来ない。ハンシクを中心に、彼と父、そして、洗濯所で働く人々の間には、彼らの置かれた立場や境遇から、眼に見えないバリケードが張り巡らされているのだ。この作品のタイトルはそのことに由来する。

 監督が描こうとしているのは、人々の間に張り巡らされたバリケードを人がどう乗り越えていくかだ。ある日、洗濯所で事故が発生する。作業中にカーンが手の指を切断してしまったのだ。カーンを病院に運び世話をしたハンシクは、事故の補償も受けられないカーンの姿の中に、やはり仕事中に怪我をしたにもかかわらず、不法就労者であるがゆえに補償を受けられなかった父の姿を見出し、そのことを契機に父に対する思いを変化させ始める。そして、不法就労者として苦労するジャッキーやカーンの日々の姿に、かつての父の苦労する姿を重ねていくようになる。緻密に練られた脚本が、父と子の対立と和解をはじめとして、洗濯所を舞台にした、韓国人と韓国人、外国人と外国人、韓国人と外国人という、多様な対立と和解を、併行させて、変化の過程を無理なく示してくれる。

 エンディングの、仕事帰りの路地裏で、家族思いで、いつも故郷の家族に国際電話をかけることを切望しているジャッキーに、ハンシクが電話代を渡してやり、ジャッキーが受話器の向こうの母に向かって韓国語で「オンマ ポゴシッポ、オンマ サランヘ(お母さん 会いたい、お母さん 好きだよ)」と訴え、それをハンシクがそっと見つめているという場面は、彼らの間にバリケードがなくなり、さらに互いが、相手の思いや文化を尊重するまでに成長していることを、さわやかに伝えてくれる。

 作品を見ていると、ユン監督は、すべての登場人物を対等で平等な存在として、敬意を持って見つめていることがわかる。抑圧される側に置かれたジャッキーとカーンは、一見、弱い存在であるかに見えるが、実際はハンシクを変化させる力を持った対等な存在だ。また、普段は労働者たちをこき使いながら、自分は友人との碁に興じているペク社長も納期が迫った洗濯物が片付かなければ、労働者たちと共に作業をせざるを得なくなり、彼も結局は対等な対場の人間だということを示している。すべての人々を平等に見つめ、そして、人を一面だけで判断しようとしない、その監督の視線が、過酷な不法就労者の状況を描きつつも、この作品に明るさを保たせ、感傷に陥ることのない深みをもたらしている。

 日韓映画バトルで上映されるこの機会に、ぜひ、見てほしい秀作だ。


『バリケード』韓国公開までの歩み

―撮影中断を迫った安企部(国家安全企画部)の職員も感動の涙を流した秀作−

<この作品を撮ろうとした契機>
 原作のソ・ジハンの小説『バリケード』(1994)がとても良くて映画化したいと思った。米国で生活している時や、韓国での生活の中でも、外国人の不法就労者の実態についてはよく知っていたし、自分の中ですでに蓄積されたものがあったのだと思うが、脚本は4〜5日で一気に書き上げてしまった。脚本は原作に忠実なものではなく、小説の『バリケード』では、不法就労者と雇用主との対立のみをバリケードとしていたが、私の作品では対立関係を複雑にしている。

<製作資金の調達>
 『バリケード』は製作会社J-COM(現 CJ ENTERTAINMENTの前身)の第1回作品になった。この作品を撮ることについては製作会社からは反対されて、別の商業的な作品を撮れと散々言われた。でも、「どうしても撮りたい」と押し通して、それが受け入れられて、資金の提供を受け、作ることが出来た。製作資金は約3億ウォンだった。現在の韓国映画界ではこういう作品はもう作ることが出来ないだろう。

<不法就労の外国人を演じた二人>
 この作品でバングラデシュから来た不法就労者のジャッキーとカーンを演じたのは、プロの俳優ではなくて、実は本当に、バングラデシュから来た不法就労者だ。劇中、カーンが指を切断しても補償が受けられないという場面があったが、それは実際にあったことで、このような状況に抗議するために、当時、不法就労者のデモがよく行なわれていた。警察も不法就労の外国人がいなくなれば、実際はたちまち困ってしまうことになるのがわかっているから、厳しくは取り締まらないんだ。「ジャッキー」と「カーン」は実名なのだが、この作品のリサーチをしている時に、デモに参加している二人を見て、キャラクターのイメージに合っていたので出演を依頼した。でも、不法就労者だからね。映画に出演して表に出るということには、当然、抵抗があった。1週間、毎日説得に通って、彼らも作品の意図は理解してくれていたし、出演を引き受けてくれた。ただ、プロの俳優ではなかったので演技指導はたいへんだった。実際のジャッキーとカーンも作品中のキャラクターによく似ていた。カーンは本当に真面目でよく勉強もしていた。そして、ジャージャー麺を食べるジャッキー(作品中でも豚肉を食べた)に「(宗教上の戒律に反するため)それは豚肉が入っているから食べるな」と叱ったり、「韓国人が自分たちを見ているのだから恥ずかしくないように振舞え」と言ったりもしていたよ。

<安企部からの圧力で困難を極めた撮影・公開>
 『バリケード』の撮影・公開について、たいへんだったのは安企部から圧力がかかったことだ。安企部はこの作品に刺激を受けて学生や労働者がデモを起こすのではないかと心配したんだ。1996年5月に作品の製作発表をして、7月頃だったけど、安企部の職員が記者だと詐称して製作会社にやって来たんだ。「なぜ、この映画をどうしても撮ろうとするのか?」と言うので「どんな話だろうと映画監督が映画を撮る時に口をはさまないでくれ」と答えたら、こいつに話してもだめだと思ったみたいで、会社側に「撮影を中断した方が良い」と言って帰って行った。会社でもJ-COMの最初の作品として、製作発表まですでにしていたから、今さら中断するわけにもいかないという状況だった。私はそれがよくわかっていたから、とにかく撮影を進めていったけど、安企部が関わって来たのだから、すごく緊張を強いられた状況での撮影だった。ジャッキーとカーンも状況がよくわかっていたから、不安になって出演を躊躇したりしないように、ということにも気を使って、撮影から撮影までの期間は製作部長やプロデューサーの自宅で過ごして、一緒に撮影に出てもらうようにも配慮した。
 そうしているうちに、今度はジャッキーとカーンが不法滞在者であるという情報を安企部が掴んで、二人を押さえ込めば撮影が出来なくなると判断したんだ。1997年1月頃に出入国管理所から、呼び出された。「二人はどこにいるのか?」と迫られたので、「知らない。たまに彼らから連絡が来るので、撮影はその時にしている」としらを切った。管理所では「それなら、私たちが二人を絶対に探し出して見せる」と脅された。弁護士からアドバイスは受けていたので「彼らにお金は払っていない。雇用はしていないから、私たちには違法性はない」とその場では主張して、引き続きこっそり撮影した。撮影日程が漏れてはいけないから、とても神経を使ったよ。秘密裏に、撮影日程も数人が知っているだけで、スタッフたちには撮影当日の明け方に連絡を入れていた。今の韓国映画界ではありえないコメディのような話だけど、わずか8年前にはこんなことが本当にあったんだ。
 そうやって、苦労を重ねて、やっとの思いで作品は完成したんだけど、今度は会社と劇場が公開を躊躇したので、本当にハラハラさせられた。当時、ソウル大学の学生たちが、不法就労の外国人の置かれた状況に問題を感じていて、この作品にも関心を持ってくれていた。ある日、総学生会から連絡があって、「私たちもこの作品がとても観たいのに、封切りできないようだし、一度、私たちが仲裁をしたい」と申し出てくれて、1997年4月にソウル大学の大講堂で試写会を開くことになった。その試写会には、撮影の中断を迫った安企部の職員も観に来たんだ。そしたら、彼は感動してポロポロ涙を流して「この作品はデモをあおるような作品ではない」と言ってくれた。それで、翌月の5月に、やっと、一般公開にこぎつけることができたんだ(韓国でも数少ないアート系のミニシアター、コア・アートホール他で公開)。

<国内・海外での作品の上映>
 韓国国内では、劇場公開と大学などで行われた上映会で、5万人程の観客を動員した。国内では1997年の釜山国際映画祭「韓国映画パノラマ」部門に出品し、海外では1998年のベルリン国際映画祭「パノラマ」部門に出品したのをはじめ、フライブルグ国際映画祭、ロッテルダム映画祭、香港国際映画祭に出品した。ヨーロッパは外国人や異文化との関わりについて関心が高く、ドイツでは『バリケード』はTVで3回も放送されたそうだ。

<後日談>
 ジャッキーはかわいくて人懐っこいとこがあるので、映画を見た女の子がたくさんジャッキーのファンになった。その後、ジャッキーは帰国して、在バングラデッシュの韓国領事館職員の韓国人女性と親しくなって結婚したよ。彼は韓国と縁が深い人間なのだろうね。ジャッキーやカーンとは今も連絡は取り合っているが、会うことはできてないなあ。


あとがき

 「国家安全企画部(略して安企部、現在は国家情報院と名前を変えている)」というのは、『二重スパイ』の中で、ハン・ソッキュ演じる北朝鮮の工作員ビョンホが、冷戦時の1980年に、亡命して韓国にやって来たと訴えたものの、当然、偽装亡命疑惑がかけられ、凄惨な拷問を受ける場面がありましたが、まさに、あそこが、安企部です。国内外の安全管理の名目の下に、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事独裁政権下で中央情報局が設けられ、民主化運動を厳しく弾圧し、さまざまな人権侵害が行なわれたことが、『大統領の理髪師』や『下流人生〜愛こそすべて〜』でも描かれていましたが、その中央情報局が組織改変され、安企部になりました。

 ユン監督が、安企部の職員から撮影中断を迫られた1996年当時は、すでに文民政権である金泳三(キム・ヨンサム)大統領が在任していた時で、そんな時代でも、こういう圧力があったのかと驚き、さすがのユン監督も「安企部」の名前が出た時は、一瞬たじろがれたのではないかと想像したりしました。

 製作会社からの商業的な作品を撮れとの圧力にも屈せず、泣く子も黙る安企部という国家権力の圧力にも屈せず、「自分の作りたい作品を作るんだ」という筋金入りの強い信念で、ユン監督が『バリケード』を作ったことがご理解いただけたことと思います。

 現在の韓国映画界では、商業的に利益を見込むことが難しい、地味なテーマの作品、芸術性の高い作品には資金が集まりにくく、ユン監督のように、そうであっても、妥協せず、「自分が作りたい作品を作るんだ」という方は、本当にご苦労が多いことだろうと思います。でも、きっと、これからも、ユン監督はさまざまな困難を克服して、自分が納得できる作品を作っていく、そういう監督さんです。これからも、ユン監督が真摯に作っていく作品を、ずっと期待していきたいと思います。


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