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Review 『ソン・イルグクのレッド・アイ〜幽霊列車〜』
『ネギをトントン、卵をパカッ』『ジェニ、ジュノ』『チャーミング・ガール』
『麻婆島(マパド)』『恋の潜伏捜査』

Text by カツヲうどん
2005/3/25受領


『ソン・イルグクのレッド・アイ〜幽霊列車〜』 ★

 この作品をもってして、現状における「韓国ホラー」の形は出来上がったといっていいのではないだろうか? アメリカ的なスタイルと日本的なスタイルがチャンポンになった様は全く洗練されていないが、これはこれで追求してゆけば、近い将来、とんでもない傑作が生まれる素性は十分あると思う。2004年に公開された『R-Point』は、そんな未来を予見させる作品だった(もちろん本編とは関係ない)。

 この『ソン・イルグクのレッド・アイ〜幽霊列車〜』は、かなり妙なホラー映画だ。まず、原題『レッド・アイ』と内容が全く関係ないように思える。「鬼神(=亡霊)の目」といった意味なのだろうけど、英語のタイトルにしたのは、外国で販売することを最初から考えた作品ということなのか? 劇中に赤い目など出てこないし、このよくわからないタイトルに加え、牧歌的なドラマと、それに全くそぐわない恐怖演出も、監督と製作会社の関係が最悪だったのではないか、と感じざるをえない。

 物語は企画として考えれば、可能性を感じさせる内容だ。1988年に起こった凄惨な列車大事故の原因が、現代の深夜列車を舞台に、現在と過去、亡霊と人間たちが入り乱れながら解き明かされて行くというミステリー仕立てになっている。死者たちの一部は、現世の人間を引きずり込むべく画策し、別な死者たちはそれを防ぐべく疾走し、また別の死者たちは自分たちが亡者であることを未だ気づかず、偶然乗り合わせた現世の人間たちと共に、列車は再び惨劇へと突き進んで行く。

 おそらく、元ネタの一つは、アメリカの旅客機を舞台にした実話怪談(日本でもアーネスト・ボーグナイン出演のTVムービーが放映されたし、この怪談について書かれた本も出版されていたから、心当たりの方もいるだろう)だったのではないかと思う。まあ、それはよいとして、複雑な時間軸、人間模様が入り乱れる脚本は、もっと整理されていれば、カルト的名作になったのではないかと思う。しかし、実際は、こんがらがった構成に、唐突な展開、しかも深夜の鈍行特有の「ゴットン、ゴットン、ゴットン、ゴットン、ゴットン・・・(以下無限に続く)」というリズムで進んで行くので、眠るのにはいいホラー映画となっている。

 話の冒頭、列車に乗り合わせた多彩な乗客が無理やり紹介されて行くが、「こんなに風呂敷広げてまとまるのか?」という疑問通りにまとまらないし、乗客を襲う悪霊が完全な貞子系で、恥も外聞もあったものではない。しかも、この悪霊、暴れる割には、本筋とあまり関係ないのが、ずっこける。恐怖シーン自体は良くできているが、これもまた本筋から浮いている。ラストも「?」だし、事故の真相も「おい、おい」といった感じだ。

 出演者も知る人ぞ知る、地味な俳優ばかりだが、これは狙いなのか? イ・オルが物語の鍵を握る謎の中年男性ジョンヒョンを、過去の因縁に呪われたジンギュとヒジュの兄妹を、イ・ドンギュとキム・ヘナが、チョイ役だが若い女性客ソヒをクァク・チミンが演じている。この中で一番オーラを発していたのが、クァク・チミンだろう。彼女の強い視線は、出世する俳優に共通した光を感じさせるので、今後、運が向けばもっと脚光を浴びそうだが、もちろん本作では期待できない。

 2004年は多数のホラーが製作されたが、この『ソン・イルグクのレッド・アイ〜幽霊列車〜』は、そんな安易な流行の終焉を飾るに相応しい、退屈で支離滅裂な珍作であった。


『ネギをトントン、卵をパカッ』 ★★★

 この作品は、ちょっと変わったタイトルだが、ここ1・2年、韓国では擬音表現を看板などに使うことが流行っているので、その影響なのだろう(ちなみに日本語の擬音表現を使った表記も韓国では見かけるようになった)。「ネギをトントン、卵をパカッ」というのは、劇中、ラーメンを作るときに歌われるフレーズで、オーソドックスな韓国式インスタントラーメンの調理法でもある。

 映画は、父親と息子の和解と別れを、ロード・ムービーの手法で描いたヒューマン・コメディで、非常にオーソドックスな作風だが、同じオ・サンフン監督の前作『偉大なる遺産』よりも格段に作品の完成度は上がっており、泣きたい人も、笑いたい人も、きちんと身を任せられる作品になっている。また、主役のテギュ演じたイム・チャンジョンの持ち味が良く出ているから、彼のファンにとっては、さらに魅力的だろう。

 この作品で最も注目すべきは、息子イングォンを演じたイ・インソンだ。演技が闊達な事はもちろんだが、スネオ(=もちろん、ドラえもんのスネオのこと)顔の独特な風貌に、暴れん坊なエネルギーが全身から漂う様子は、通常の子役とは一味も二味も違い、「名子役」というよりも「名脇役」と表現した方が相応しい。『おばあちゃんの家』におけるユ・スンホのような、卓抜したプロの演技を見せる子役が続出する韓国芸能界において、ちょっと素人っぽい荒々しさは、新鮮に感じられた。

 主演のイム・チャンジョンにとって、今回のテギュ役は決してベストといえるものではないにしろ、彼の、歌手としての側面を強く意識したキャラクターとして描かれている。イム・チャンジョンが既に何枚ものアルバムを出していることは説明するまでもないが、もう少し日本で認知されてしかるべきだと思うのは、私だけではないだろう。

 映画の最後は悲しい。しかし、大人になれなかったテギュが父親として成長し、息子と心を通わせる姿は、救いのあるラストでもあった。この『ネギをトントン、卵をパカッ』は、驚きも発見もないが、広く誰にでも受け入れられる作品といえるだろう。


『ジェニ、ジュノ』 ★★★

 以前、テレビ東京で韓流ビジネスの番組が組まれた時、韓国の投資&配給会社であるショー・イーストの様子が紹介されたことがあった。その際、新しい企画としてこの『ジェニ、ジュノ』についての打合せの模様が紹介されたから、心当たりのある方も多いと思う。中学生妊娠、といえばどうしても深刻かつタブー、重い話になりがちだが、この『ジェニ、ジュノ』は、そこら辺をすべてさらりとかわし、誰でも抵抗なく観ることが出来る、健全な作品に仕上がっている。

 また、この作品は、韓国映画の特徴であるマーケティング至上主義の良い見本でもある。題材が題材だけに、一番関心を抱くだろう中学三年から高校一年生くらいまでの観客動員をピンポイントで狙っていることは確実で、「中学生の妊娠」「15才以上観覧可」「春休み」の3要素の前に、劇場は中学を卒業したばかりらしい女の子の姿が非常に目立った。2004年度は、『オオカミの誘惑』が、やはり公開のツボを上手く押さえ、大ヒットをした事は記憶に新しいが、この『ジェニ、ジュノ』も的を特化したマーケティングという部分では注目すべき映画といえる。

 映画はとにかく明るく屈託なく、今の日本の感覚いえば異常といえるくらい健康的だ。キム・ホジュン監督は、前作『マイ・リトル・ブライド』でも、同様な手腕を見せたが『ジェニ、ジュノ』も全く同じで、職人技といっていい。悪人は誰一人登場せず、皆が若いカップルに理解を示す様は、大人不在(特に教師の存在が無いに等しい)の非現実的な世界観だが、ロー・ティーンの理想郷を描いたファンタジーとして割り切れば、楽しく感動的だ。

 主人公カップルの書き分けも個性的で魅力がある。ヒロイン、ジェニ(=パク・ミンジ/筋肉質で、まるでスポーツ選手)は裕福な家庭の娘だ。すべてに積極的で気も強く、クラス中から慕われている。相手のジュノ(=キム・ヘソン/中性的なキャラクターが韓国では珍しい)は、平凡なサラリーマン家庭の息子であり、どちらかといえば家に籠りがちな、おとなしい少年だ。

 妊娠が発覚した時、攻撃的に主導権を握るのはジェニと、妊娠を知らされたときのジュノの大ボケぶりは対照的で可笑しい。その様子は、普遍的な男女関係そのものだし、二人の家庭環境の違いが、両親の行動の違い(共通の道徳律に従うところは同じだが、ジェニの両親は強硬だし、ジュノの両親は優柔不断で、両者の社会的立場を象徴している)に反映してゆくところなども、細かく考えられている。最初は情けないジュノが、親になる決心をしてからは、ぐっと男らしくなるところや、段々ナーバスになってゆくジェニの様子など、キャラクター成長や変化もきちんと織り込まれ、心にくい演出になっている。

 もうひとつ、この映画の見所は、現代ソウルの中学生を、それなりにだが描いている、ということだろう。決してリアルではないが興味深いものがある。なお、二人がペアで持っているLG製の携帯電話は、2004年度の統一大学入試におけるカンニング事件で多用され、一躍有名になった機種だが、現行では一番価格が安く、対応している通信会社も一番維持費が安いという、中学生が持つのに相応しい、極めてリアルな小道具なのだ。

 映画はハッピーエンドを迎えた後、「これは全て架空のお話です」と解釈できる終わり方をする。このラストゆえ、『ジェニ、ジュノ』はファンタジーであったことが明らかにされるのだが、若い観客への、やんわりとした大人の忠告のようでもあり、余計な説教のようでもあった。この作品は、ちょっと大人が観に行きにくい内容ではあるが、出来はいいので、観て損はないと思う。


『チャーミング・ガール』 ★★★

 この作品は、観る側にとって、一種の目眩を覚える擬似体験なのかもしれない。主人公チョンヘの生活を、一つ一つ、寄り気味で紡いで行くカットは、演出する側が、架空の人物チョンヘに肉薄し、同感しようとした結果、生まれた映像なのだろう。ヒロインの日常は何気なく、点在するパッチワークのように、ゆったりと流れて行く。そして観客はいつの間にか、チョンヘの視点で日常を眺め始める。チョンヘの行動は、時には唐突で刹那的だが、それは決して不自然ではなく、人の行動とは、そんなものだろうと思う。その様子は、男性でも同感することが十分可能だ。この映画の視点は、イ・ユンギ監督の日常の記憶でもあり、人生の再現なのでもあろう。それは普遍的、特別なものではなく、私にとっても、韓国での原体験に重なるところがたくさんあった。


写真提供:ユナイテッドエンタテインメント

 ヒロインの日常は、まさに普通の日常であり、そこに漂う独特の時間進行が遅くなったかのような感覚は、仕事を終えて帰宅したとき感じる、疎外感と厭世感そのものだろうと思う。しかし、その寂しさは、不幸でもなく幸福でもなく、唯物的な孤独があるだけだ。その一瞬は、イ・ユンギ監督自身が、アメリカ留学時代に常に感じたであろう、異邦人の孤独感なのではないだろうか。

 映画は進み、やがて、断片的に明らかにされてゆく、チョンヘの過去、人生の傷。だが、私の場合、ここから一気に白けて、意識は現実に戻ってしまう。なぜなら、あまりにもわざとらしく、過去の事象がインサートされることで、完全に、今までのリズムはブチ壊れてしまったからだ。これは、あくまでも観る側の問題だが、私の場合、この『チャーミング・ガール』が、あくまでもING形の彼女を描き続けたからこそ、同感できたのであり、彼女の過去は、観客の想像にもっと任せるべきだったと思う。チョンヘの過去が頻繁に描かれ始めた時から、映画は疑似体験の役割を終え、よくあるお決まりパターンを辿ることになる。それが許せるかどうかが、この作品に対する分かれ目になりそうだ。

 主人公チョンヘを演じたキム・ジスは、実年齢相応の女性像を好演している。美人といえば美人、普通といえば普通といったところが大きな魅力だ。彼女を巡る人々も、郵便局の上司に『選択』のキム・ジュンギが、作家を『浮気な家族』のファン・ジョンミンが演じており、意外に多彩だ。

 『チャーミング・ガール』が、海外の映画祭で評価された理由は、韓国映画が世界的に注目されている、ということは、もちろんだが、都会で暮らす人間の日常というものを、普遍的に描けたことが大きいと思う。


『麻婆島(マパド)』 ★★★

 最初、この『麻婆島(マパド)』のポスターを駅で見かけたとき、私はこの映画が、韓国に時々に出現する、ジャンル不明の怪作の一つかと思った。それは『アー・ユー・レディ?』とか『地球を守れ!』とかいった作品の類いだ。ポスターは、怖い顔をした初老の女性たちが、南の島を連想させるドレスと髪型で、鎌を持って睨んでいる。その足下には浜に埋められた二人の男たちの困った表情。韓国映画の場合、宣伝材料の中身と実際の映画が全く違うことがよくあるので要注意なのだけど、大体この手のポスター・デザインだと、ハズレが多い。だから全く気乗りしないまま劇場に入った私だった。

 しかし映画は、始まってみると明らかに何かが違う。オーソドックスな演出だが、予期していたようなドタバタはなく、全体のバランスを崩しかねないほど、登場人物たちの様子を丁寧に描いてゆく。やがて、舞台は孤島、麻婆島(マパド)に変わるのだけど、ここでも予想するようなドタバタは起こらない。いや、正確にいえば起こるのだけど、話の中心はあくまでも島の暮らしだ。映画が終わったとき、私は正直いって、面白くはなかった。しかし、それでも感動的な余韻と「つまらない」ではくくれない、強いこだわりが、この『麻婆島(マパド)』から感じられた。

 『麻婆島(マパド)』の物語は、プレス風に書けば、「韓国の地方都市に巣くう、ヤクザの親分(オ・ダルス)が経営するタバン。そこに勤める女の子(ソ・ヨンヒ)が、皆で買った宝くじの当たり券を持って姿をくらましたから、さあ大変。親分に女の追跡を依頼された悪徳刑事チュンス(イ・ムンシク)は、チンピラ、ジェチョルと一緒に、女の故郷、孤島麻婆島(マパド)に潜行し、宝くじを奪還しようとする。しかし、二人を待っていたのは、鬼より怖い五人のアジュマたち(ヨ・ウンゲ、キム・スミ、キム・ウルドン、キム・ヒョンジャ、キル・ヘヨン)だった・・・ 果たして、チュンスとジェチョルは任務を遂行出来るのだろうか? その運命はいかに!」といった感じ。しかし、実際は、こういったストーリー・ラインとかなり印象が異なる映画になっている。見かけは、よくあるコメディだが、実体は、非常に真摯かつ複合的なテーマに支えられた人間ドラマといった方が近いだろう。この『麻婆島(マパド)』の大きな特徴は、全編に「人間は性善である」という一徹したメッセージが貫かれていることだ。登場する人物に、根っからの悪人は誰一人としていない。

 ヤクザたちは凶悪にはほど遠く、ロトくじを共同購入することが楽しみなくらいだから、稼ぎはたかは知れている。悪に不器用だから、観念するのも早い。刑事チュンスも、手入れを見逃す代わりに、稼ぎをピンはねする程度、やる気のない警察官だが、土壇場では正義を貫き通す。チンピラのジェチョルは粗暴だけど、いい奴だし、アタリくじを横領した女も、自分の行いに悩み続ける。島のおばさんたちも、乱暴だけど、純朴で、やさしい。

 チュンスとジェチョルが麻婆島(マパド)にたどり着いてから、もう一つのテーマが加わってくる。二人を待っていたのは、世間と切り離された世界ではあるけれど、ここで描かれるのは、「都会 vs 田舎」という図式ではなくて、理解し共存してゆく過程だ。カメラは、多くの人々が持っているだろう、懐かしい田舎の原風景を捉えてゆく。そこには、田舎生活への戸惑いや、ゆったりと流れる空気、いつの間にか田舎に取り込まれてゆく安心感が見事に再現されていて、観ているうちに懐かしい子供の頃の思い出が浮かび上がってくる。

 島で暮らす五人のおばさんたちを、韓国を代表する強烈なアジュマ女優たちが演じた意味は、もちろん観客への受け狙いもあるのだろうけど、彼女たちの持つ、個性と演技力でなければ、こうしたテーマを伝えられなかったという理由が大きいと思う。彼女たちの横暴さ、ずうずうしさ、寛大さ、やさしさは、韓国が時代と共に失いつつある濃い人情への後悔を象徴しているし、たった五人の自給自足の生活は、都会と地方の格差、地方の過疎化、田舎の消滅といった、社会性の強いメッセージが含まれている。それは2003年に大ヒットした『ぼくらの落第先生』におけるチャン・ギュソン監督のメッセージと共通するものだ。

 『麻婆島(マパド)』の監督チュ・チャンミンが、ありがちなドタバタをやらなかったことも、彼の強い何かの意思を感じる。これが他の監督だったら、汲み取り便所や痰吐き、暴言に欲情などを大げさに馬鹿馬鹿しく演出しただろう。しかし、『麻婆島(マパド)』が騒ぎ立てなかったのは、それらが立場の違いからくる、乗り越えられるギャップに過ぎない、というメッセージを発信したかったからではないだろうか。追っ手の二人が、いつの間にか島の生活に取り込まれ、馴染んでしまう情景は、そういった部分がとてもよく出ていると思う。

 映画は島の秘密を巡って、ヤクザと島の住民たちの戦いでクライマックスを迎える。私が『麻婆島(マパド)』で唯一残念だったのは、このくだりである。ここからよくあるパターンと化してしまい、作品は安っぽくなってしまう。もし、ヤクザの行動にひとひねり加えられれば、と思うと残念だ。

 この『麻婆島(マパド)』という映画は、スターは誰も出ていないし、ある程度考えながら観ないと、よく分からないところもある。だが、商業性と作家性のギャップに苦しむ韓国映画において、両者が上手に融合できた作品といえるし、2005年に公開された韓国映画の中でも、上質の部類に入るといえるのではないだろうか。最初から最後までヒューマニズムを貫き通した骨のある一本だ。


『恋の潜伏捜査』

原題:潜伏勤務
2005年執筆原稿

 韓流全盛の今、この『恋の潜伏捜査』を監督したパク・クァンチュンは本当だったらもっと注目されて然るべき人物なのかもしれない。彼の商業デビュー作『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』は、完成度は別にしても、インターネット小説を原作に、韓国式オタク感覚を駆使して作りあげた、当時としては画期的なSF伝奇アクションだったからで、そういったジャンル映画が韓国でヒットしたのも当時は異例だったが、今を思えば、韓国映画中興の予兆ともいえる作品だった。そこには、それまでの韓国映画にはなかった、マンガやアニメ、ゲームで培われた新世代の感性が存在し、今をときめくパク・チャヌクや、ポン・ジュノの感性と共通するものだ。カン・ジェギュだってそうだろう。だが、パク・クァンチュンは『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』の後、しばし沈黙し、『マドレーヌ』を一本撮っただけ。噂のあった『ソウル・ガーディアンズ 退魔録2』も全く聞かなくなり、明らかに今の流れに乗り損なった感じだ。

 彼がうまく波に乗れなかったことは、映画監督という職業を続けることの難しさもある事は確かだが、新作『恋の潜伏捜査』を観た限りでは、やはり映画監督としての手腕が凡庸だったのかなぁ、と思うしかなかった。前作『マドレーヌ』も、新しいことをやろうとしていたのがよく分かるだけの凡作だったけど、今回の『恋の潜伏捜査』もまた、それに劣らない凡々作だ。ただ、企画として『恋の潜伏捜査』は、非常に可能性があった。だから、この『恋の潜伏捜査』という映画は、監督と企画が合致しなかった分かりやすい例なのかもしれない。私はこの映画を観ている時も、観終わった時も、ずっと感じていたのが、「カン・ウソクが撮っていればなあ」ということ。そうすれば、大傑作になっていただろう。

 この『恋の潜伏捜査』という映画は、観客から見て「あきらかに高校生に見えないヒロイン=キム・ソナが、高校生になりすまし登校しても、劇中の人々は誰も不自然に思わない」というところが笑いのポイントなのだけど、見所はそれだけ、キム・ソナが学校に行って観客を笑わせたところで、ネタは全て尽き、あとはダラダラと、どうでもいい話が続くだけになる。しかも、事件を潜伏勤務で解決する、という大きなテーマは、「キム・ソナの高校生」というアイディアを進めるために、無理やり付け加えたかのようなペラペラな内容で、本末転倒なシナリオになっている。

 肝心のアクションシーン、ヒロインが大暴れするシーンも、古典活劇のパターンを取り入れることで、お約束的なおもしろさ、カタルシスを出そうとしているのはわかるのだけど、残念ながら効果が出ていない。

 ヒロインのジェイン演じたキム・ソナは、頑張っているし、よく体を鍛えているとは思う。しかし残念ながら、年齢的な限界を隠しようがなく、それを補うべく映画的テクニックも、あまり上手くない。謎の同級生ノヨン役のコン・ユも、完全なミス・キャストだった。等身大の役柄が似合う彼に、謎の二枚目というマンガ・チックなキャラクターを要求しても、気の毒なだけだと思う。この二人は、『Sダイアリー』で持ち味を活かした、とてもいい仕事をしていたけど、『恋の潜伏捜査』では、残念ながらそうはいかなかった。

 ヤクザと警察に追われる逃亡犯ヨンジェを、名優キム・ガプスが演じたが、はっきりいってこれもダメ、あまり真面目に演じている感じではない。ただ、高校担任役で出演していたパク・サンミョンは、ちょっと注目すべきだろう。彼が体育教師という設定も意表を突くが、真面目な教師像を、真面目に演じ、いつもの三枚目ぶりは全くない。それがとても新鮮で、パク・サンミョン自身、地は、こんな感じの人物ではないだろうかと思ったりもした。また、ヨンジェの娘、スンヒを演じたナム・サンミも、清楚で整った顔立ちが印象的。目立つタイプの女優ではないけど、記憶に残る。

 この『恋の潜伏捜査』という映画は、残念ながらパク・クァンチュン監督にとって新たな突破口にはならなかったようだ。ただ、ところどころ出てくる日本ネタが、製作側の商売気一杯な意欲を感じさせるだけである。きっと、日本語指導はキム・ソナが担当したのだろうな・・・


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