HOME団体概要support シネマコリア!メルマガ登録サイトマッププライバシー・ポリシーお問合せ



サイト内検索 >> powered by Google

■日本で観る
-上映&放映情報
-日本公開作リスト
-DVDリリース予定
-日本発売DVDリスト
■韓国で観る
-上映情報
-週末興行成績
-韓国で映画鑑賞
■その他
-リンク集
-レビュー&リポート
■データベース
-映画の紹介
-監督などの紹介
-俳優の紹介
-興行成績
-大鐘賞
-青龍賞
-その他の映画賞


韓国映画界の現況
〜1990年代後半を中心に〜

西村嘉夫(ソチョン)
1998/12/23執筆
1999/2/10加筆訂正



  1. はじめに
     1998年10月に韓国で長らく禁止されていた日本映画の上映が解禁された。そして12月の『HANA-BI』,『影武者』公開に合わせて日本のマスコミが殺到。同時期ソウルの街頭で韓国映画人が行っていたスクリーン・クォーター制廃止反対デモの模様も日本のメディアで紹介され、韓国映画に対する関心が一気に高まった。最近では、数多くの秀作韓国映画が公開を控えているせいか、日本の映画評論家の間でも「最近、韓国映画は元気がいいらしい」 「1960年代生まれの新人監督が台頭し今までとは全く異なる作品を作り始めているらしい」といった台詞がちらほら聞かれるようになってきた。しかし、韓国映画の紹介が一時期滞っていたせいか、現在の韓国映画界の実状を正確に伝える日本語文章は極めて少ない。そこで本稿では、1988年のソウル・オリンピックを契機とした民主化以降の韓国映画界の製作現況を概説し、なぜ最近、韓国映画界が再び活況を呈し始めているのか。その要因分析を試みる。なお、作品や監督に付いては釜山国際映画祭が始まった1996年の終り頃から1999年1月までをイメージして執筆しているため、該当期間に作品を製作していない監督は重要な人物であっても紹介していない場合がある点、あらかじめご承知おきいただきたい。

  2. 韓国映画の苦境
     現在の韓国映画界の状況は不安要因と希望を持てる要因があい混ざった状態である。まず韓国映画産業の規模を見てみよう。年間の映画館入場者数は1969年の17,304万名をピークとして以後テレビ・ビデオの普及などにより年間入場者数は長期低落傾向にある。1997年の入場者数は4,752万名。同年の人口は4,677万名であるので、現在韓国民が一年に映画を見る本数は平均1本に過ぎない。同じ1997年の数字で見た場合、日本の入場者数は14,072万人であるので、韓国映画産業の規模は入場者数で見て3分の1、一人が一年に映画を見る本数は日本とほぼ同水準ということになる。
     韓国映画界はパク・チョンヒ(朴正煕)政権時代(1961〜1979年)、映画法により政治的統制の下にあった。本稿ではその後の変遷を概説したい訳であるが、現在の韓国映画の製作状況を語る上で決定的に重要なのは映画法の第五次改正(1984年12月31日公布)と第六次改正(1986年12月31日公布)である。第五次改正の要点は2つある。それまで韓国には、各映画会社の製作本数と(政府が言うところの)優秀映画の製作に対して外国映画輸入枠を割り当てる外国映画の輸入クォータ制度があったのだがそれを廃止し、韓国映画の製作と外国映画の輸入を完全に分離したこと。もう1点は映画会社の許可制を登録制に変更したこと。これにより、申請しさえすれば誰でも映画会社を組織できるようになった。その後1988年のソウル・オリンピックにかけて民主化が進み、映画界ではシナリオ事前検閲の撤廃などが実現したこともあり、この時期の制度改革は「自由な映画作り」という観点からは韓国映画界にとって好ましいものである。しかし、第六次改正により外国の会社が韓国内で外国映画の輸入・配給をすることが可能となり、1988年の韓国政府とアメリカ映画業界の調印により、UIP、ワーナーブラザーズ、ウォルトディズニー、20世紀フォックス、コロンビアなどアメリカのメジャー映画会社や配給会社が直接配給を始めると、外国映画の輸入は劇的に増大。スクリーン・クォーター制(現行法では、各映画館は年間146日(最低106日)韓国映画を上映する義務がある)があるとはいうものの、韓国映画は苦境に立たされた。劇映画の輸入審議本数で見た外国映画の輸入本数は1985年の27本から1994年の382本まで急増。1997年の輸入本数は359本であるので外国映画の本数は日本と全く変わらない状況であり、映画輸入大国になっている(日本の1997年の封切り本数は333本、韓国での封切り本数は271本)。一方の韓国映画の製作本数は、1985年の映画法改正以降漸増し、1991年には年間121本の劇映画が製作されるまでに至ったが、以降は年間60本前後の本数に落ち着いている。ただし、1998年の本数は43本。これは、1997年末からの韓国の経済危機により、1995年頃から活発になっていた財閥や金融会社の映画への投資が減少したのが大きい。その後、映画振興公社の助成金制度のスタートや大企業・金融会社の投資が徐々に映画界に戻りつつあるとはいえ、資金面から見た韓国映画界の現況は楽観できるものではない。
     「韓国人は韓国映画を見ない」といわれて久しいが(私の親友は「生まれてこのかた見た韓国映画は5本だ」と明言した)、それを立証する数字が韓国映画の市場占有率だ。全国の映画観客数に占める韓国映画の観客数の比率は1983年には39.9%だったのが、1993年には15.9%にまで落ち込んでいる。もちろん外国映画輸入の自由化がその最大の原因だ。

  3. 韓国映画の復権
     さて、ここまでは非常に不安な材料ばかりならべ立ててきたが、1993年に韓国映画界に救世主的な映画が登場する。日本でも上映されているのでご覧になった方も多いと思うが『風の丘を越えて〜西便制』(1993年、イム・グォンテク監督)と『トゥー・カップス』(1993年、カン・ウソク監督)がそれである。パンソリという伝統芸能を題材にした『風の丘を越えて〜西便制』は、1993年4月6日の公開以降ソウルで196日という大ロングラン記録を樹立し、100万人もの観客を動員。観客に韓国映画の存在を再認識させるという大きな役割を果たした。続いて、同年12月13日に公開されたポリス・コメディ映画『トゥー・カップス』は年を越えてのロングランとなり、こちらはソウルで86万人の観客を動員。監督のほか製作者としても活動し、「面白くなければ映画じゃない」を信条とするカン・ウソクの登場は、「娯楽性」「商品性」の薄かった韓国映画に新風を吹き込み、その後のコメディ&アクション全盛時代への道を切り開いた。なお『風の丘を越えて〜西便制』と『トゥー・カップス』の動員記録はそのまま歴代韓国映画観客動員ランキングのトップと第2位となり、この記録は未だに破られていない(注:その後、1999年2月に公開された『シュリ』が最高興行記録を更新した)。
     この1993年以来、韓国映画の入場者比率はほぼ一貫して増大しており(1993年はスクリーン・クォーター監視団が発足した年でもある)、1997年の数字では25.5%にまで回復している。25.5%というと大した数字ではないように感じるかもしれないが、1997年の韓国映画封切り本数が60本、外国映画の封切り本数が271本であることを考えると韓国映画が健闘していることが分かる。また、1990年代に入ってからほぼ一貫して低落していた映画館入場者数も1997年には反転。12.4%増となった。二桁以上の伸びは実に1978年以来のことで、増分の半分は韓国映画の貢献である。1997年にはコメディ全盛時代に続いて到来した恋愛映画ブームのきっかけとなった『接続』チャン・ユニョン監督)をはじめ、『手紙』イ・ジョングク監督),『ゴースト・ママ』ハン・ジスン監督)などのメロ映画が大ヒット。娼婦の一生を描いたイム・グォンテク監督の『娼』チョン・ウソン主演のアクション映画『ビート』キム・ソンス監督)、韓国映画人が1997年作品の中で一押しにする名作『グリーンフィッシュ』イ・チャンドン監督)なども健闘し、話題性・作品性・観客動員力など色々な意味で外国映画と対抗できる作品が続々と輩出されるようになってきた。そして、その流れは経済危機により製作本数が激減した1998年も継続しており、好調な恋愛映画の他にも『カンウォンドの恋』ホン・サンス監督),『スプリング・イン・ホームタウン』イ・グァンモ監督)といった作家主義の映画がロングランされたり、『クワイエット・ファミリー』キム・ジウン監督),『女校怪談』パク・キヒョン監督),『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』パク・クァンチュン監督)といったサイコ・スリラー・SFXものが台頭し、いずれもヒットするという新しい動きもある。『異邦人』ムン・スンウク監督),『ニューヨークデイドリーム』チン・ウォンソク監督),『家族シネマ』パク・チョルス監督)などの合作公開も増え、ジャンルの多様化の兆しも感じられる。また、暫定値ではあるが不況にもかかわらず韓国映画トップ10の合計観客動員数は1997年を上回った。韓国の映画製作費は平均8〜10億ウォンだが、1999年には『シュリ』カン・ジェギュ監督),『建築無限六面角体の秘密』ユ・サンウク監督),『イ・ジェスの乱』パク・クァンス監督),『愛のゴースト』イ・グァンフン監督),『ヨンガリ(→ 怪獣大決戦ヤンガリー)』(シム・ヒョンネ監督),『ユリョン』ミン・ビョンチョン監督)など、製作費30億ウォン規模の大作映画も公開される。

  4. 韓国映画1990年代ニューウェーブ
     以上、長期傾向としては楽観視できる状況ではないが、外国映画の輸入自由化以降一時苦境にたった韓国映画が1993年以降急速に盛り返してきていることを概観した。では、最近の韓国映画の復権はいかなる要因によるものか? 原因は大きく分けて3つある。

    1.監督主導からプロデューサー主導の映画製作へ。
    2.新人監督の台頭。
    3.海外へ韓国映画を紹介する窓口としての釜山国際映画祭の存在。
     大企業の映画進出の先駈けとなった1992年の『結婚物語』キム・イソク監督)以降(1992年は文民政権であるキム・ヨンサム政権誕生の年でもある)、韓国映画の製作方法はがらりと変わってしまった。以前は有力な監督と製作会社社長が手を組み、どんぶり勘定で職人技的な製作をしており、プロデューサーは単に投資者や映画社の製作部長に与えられる称号だった。しかし、三星、大宇、現代、SKC、LGなどの大企業の資本参加、そして企画やマーケティングの重要性が認識されるに連れ、映画製作は企画・製作・投資・配給と完全に分業化が進んだ。大企業の映画界進出は、どんぶり勘定式製作慣行の透明性を高め、若い監督を大挙デビューさせて現場に活気を吹き込んだ。零細な自己資本で映画製作をしていた映画社は没落し、配給業にも進出し大型化した映画社(その代表格がカン・ウソク監督のシネマ・サービス)が生き残った。プロデューサーの権限が強まり、監督主導の映画作りは減少した。現在、監督主導の映画作りができるのはベテランでは泰興映画社のイ・テウォン社長とコンビを組むイム・グォンテク、そしてインディ系で頑張るパク・チョルス、あとはパク・クァンスチャン・ソヌパク・チョンウォンなど。若手では独自の映画作りに執念を燃やすホン・サンスイ・グァンモくらいか。1997年から1998年にかけてソウルで50万人以上(大ヒットの基準)の観客を動員した作品は『接続』『娼』『手紙』『女校怪談』『約束』の5作品だが、この内イム・グォンテクの『娼』を除けば後はすべてプロデューサー主導型の映画といえる。こうしたプロデューサー主導型の韓国映画が増えたことにより、韓国映画の商業的企画力は飛躍的に伸びた。1997年から始まった恋愛映画ブームは映画そのものの質もさる事ながら、企画力が付いたため芸術性・作品性と興行性を兼ね備える作品が登場してきた結果だろう。前述の『トゥー・カップス』以降、韓国はコメディやアクション映画全盛時代となり、大企業が潤沢に映画に出資するようになったこともあいまって、少々粗製濫造気味の時代が一時続いたが、1997年以降の恋愛映画ブームは作品性と興行性を兼ね備えている点が異なる。
     興行結果が全てのプロデューサーが主役に躍り出ることにより、ここ数年の韓国映画の平均的な水準はアップしたように感じる。もちろん芸術性・作品性などで監督が手腕を発揮する余地はまだまだ残されているものの、興行を意識したプロのプロデューサーの登場により映画の企画社・製作社名を見るだけで、その映画の「質」をある程度推し量ることができるようになったのは事実である。安全志向のため同じプロデューサーが製作する作品の作りがだんだん似通ってくるという問題もあるが、『モーテルカクタス』(1997)、『八月のクリスマス』(1998)、『ディナーの後に』(1998)、そしてチョン・ウソンの新作アクション映画『太陽はない』(1998)を製作したウノ・フィルム(代表:チャ・スンジェ)のようにプロデューサー制を導入する会社も現れてきた。ウノ・フィルムでは、4名のプロデューサーが各々の作品を担当。2本の映画撮影と2本の撮影準備が同時進行し、多様な作品を供給し続けている。
     残る課題は興行性に劣る芸術作品や社会批判的なテーマを持った非興行映画が淘汰されないシステムを作り上げることか。現況では、商業映画の大衆性と作家主義映画の個性を両立させる監督、たとえば1970年代の労働運動を描いた『美しき青年 全泰壱』(1995)のパク・クァンス、光州事件を描いた『つぼみ』(1996)、そして日本公開も予定されている『バッドムービー』(1997)のチャン・ソヌ『301・302』(1995)、『家族シネマ』(1998)のパク・チョルス『われらの歪んだ英雄』(1992)、『永遠なる帝国』(1995)のパク・チョンウォンら、また若手では自らのスタイルに固執し第2作目『カンウォンドの恋』で早くもそれを世界に認知させたホン・サンス、理想の映画を作るために海外の芸術映画を韓国に紹介しながら機をうかがい『スプリング・イン・ホームタウン』を作り上げたイ・グァンモなど、個人のパフォーマンスに頼る部分が大きく、多くの芸術作品は評論家筋及び海外での映画祭では評価を受けるものの韓国国内での上映は少数の映画館でおなさけ程度に1・2週間上映されるに過ぎない。非興行映画が評価され、それがきちんとした形で公開されるような下地の整備、たとえば最近とみに増えてきた芸術映画専門映画館・韓国映画専門上映館・名画座の更なる増加や、観客の鑑賞眼の多様化などが望まれる。

     映画製作方法の様変わりと並んで現在の韓国映画の活況を支えているのが、新しい感覚を持った優秀な新人監督の台頭。そして彼ら新人監督の供給源の多様化である。
     戦後(日本の植民地支配後)韓国映画には二つの黄金時代があった。第一の黄金時代は1950年代から1960年代にかけてであり、ユ・ヒョンモク、シン・サンオク、キム・ギヨンキム・スヨン、イ・マニらによって支えられたこの時代の作品は1996年から1997年にかけて全国で開催された『韓国映画祭 1946→1996 〜知られざる映画大国〜』によって日本でも知られるところとなった。その後、パク・チョンヒ(朴正煕)政権による検閲の強化などにより、韓国映画界は暗黒時代を迎えるが、1980年代に第二の黄金時代が到来し、この時代にはニューウェーブと呼ばれる作品がイム・グォンテク、イ・ジャンホ、ペ・チャンホ、少し遅れてパク・クァンスチョン・ジヨンチャン・ソヌチャン・ギルスらの手により生み出された。1980年代は韓国映画が日本で紹介され始めた時期でもあり、日本では第二の黄金時代がまず紹介され、遅れて第一の黄金時代が紹介されたことになる。今まで日本の韓国映画ファンは、第二の黄金時代である1980年代ニューウェーブ作品を基本とし、『韓国映画祭 1946→1996 〜知られざる映画大国〜』により第一の黄金時代の名作も守備範囲に含めるというのが典型的なパターンであった。そして今、1990年代後半に激増した新人監督達の登場は戦後第三の黄金時代と呼びうる一大ウェーブを形成しつつある。
     一例を挙げよう。1998年の釜山国際映画祭で上映された新作韓国映画20本のうち新人監督の手によるものが14本、第3作までを含めると17本で実に8割以上がここ2・3年でデビューした監督の作品である。1988年前後の民主化以降に国内外で映画教育を受け、多様な感性を培った1960年代生まれの新人監督たち。これら新人監督は

    1.国内の養成機関である韓国映画アカデミー出身者(4名)。
    2.海外留学組(8名)。
    3.演劇・テレビなど他分野からの参入組(3名)。
    に大別される。括弧内の数字は前述した1998年の釜山国際映画祭で作品が上映された新人監督17名(第3作まで)の出身別内訳。特に目立つのが海外留学組みの多さで、それは合作の多さ(『異邦人』『ニューヨークデイドリーム』『蜂の飛行』)や、ハリウッドばりの映像感覚とCGで話題となったSFX映画『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』などに現れる。日本国籍の金城武を主役に抜擢した『ニューヨークデイドリーム』などは在米韓国人監督であるチン・ウォンソクの自由な視点なくしてはありえない作品だろう。国内の監督・スタッフ養成機関である韓国映画アカデミーも当初は東国大学、漢陽大学、中央大学などの演劇映画科出身者が多かったが、最近は大学では映画とは関係のない学部を専攻し、その後映画を目指して入学してくる者、また脱サラして再入学してくる者などが増えているのが特徴。『八月のクリスマス』(1998)のホ・ジノ監督も脱サラ組みだ。演劇やテレビ界など全くの他分野からの参入組みもいる。『クワイエット・ファミリー』(1998)のキム・ジウンは演劇出身、『グリーンフィッシュ』(1997)のイ・チャンドンは小説家出身だ。彼らは忠武路(韓国映画界の代名詞)以外からもスタッフを招聘し、既存の映画製作の枠組みに囚われない映画作りをしている。
     経済状況の悪化により製作本数が激減する中、1997年から1998年にかけて多くの新人監督がデビューした。『グリーンフィッシュ』イ・チャンドン『バリケード』ユン・イノ『ナンバー・スリー』ソン・ヌンハン『モーテルカクタス』パク・キヨン『接続』チャン・ユニョン『ラブラヴ』イ・ソグン(以上、1997年作品)、『スプリング・イン・ホームタウン』イ・グァンモ『八月のクリスマス』ホ・ジノ『情事』イ・ジェヨン『ディナーの後に』イム・サンス『クワイエット・ファミリー』キム・ジウン『ソウル・ガーディアンズ 退魔録』パク・クァンチュン『女校怪談』パク・キヒョン『ニューヨークデイドリーム』チン・ウォンソク『異邦人』ムン・スンウク『美術館の隣の動物園』イ・ジョンヒャン『陽が西から昇ったら』イ・ウン(以上、1998年作品)。1997年から1998年にかけてのヒット作・話題作の多くは新人監督の手によるものだ。そして彼ら新人監督と『沈香』撮影を終えたキム・スヨン『春香伝』を企画中のイム・グォンテク『イ・ジェスの乱』撮影中のパク・クァンス『虹鱒』撮影中のパク・チョンウォン『家族シネマ』(1998)のパク・チョルス『カ』(1998)のチョン・ジヨン『約束』(1998)のキム・ユジン『バッドムービー』(1997)のチャン・ソヌ、韓国版『失楽園』(1998)のチャン・ギルス『NOWHERE 情け容赦無し』撮影中のイ・ミョンセ『手紙』(1997)のイ・ジョングク『生寡婦慰謝料請求訴訟』(1998)のカン・ウソクらベテラン監督がしのぎをけずっているのが、現在の韓国映画界の現況だ。若手監督の台頭により、相対的にベテラン監督が冷遇される傾向にあったり、新人監督もデビュー作がヒットしないと第2作を撮らせてもらえない可能性があるなど問題点もあるが、今や巨大配給会社に成長したカン・ウソク監督のシネマ・サービスが彼らに対する支援を開始したことによりそういった状況も徐々に改善されつつある。

     最後に、1996年から始まった釜山国際映画祭について述べたい。この映画祭以降、韓国では大小様々な映画祭が企画されるようになったが、海外へ韓国映画を紹介する窓口としての釜山国際映画祭の役割は他を圧倒している。特に日本の映画人の中では釜山国際映画祭に行くことはなかば常識化しており、ここで上映された韓国映画なら「私も見た」という返答が返ってくることが珍しくなくなった。諸外国の国際映画祭に招待される韓国映画もほとんどは釜山で上映されたものであり、釜山国際映画祭が始まってから国際映画祭での韓国映画の上映本数は漸増。「韓国映画特集」の開催も増えてきた。国際映画祭に招待された作品が海外で賞を取る回数も増え、それが国際的な韓国映画の知名度の向上に貢献している。韓国国内だけではなく世界に目を向けた映画作りをする監督も徐々に出現してきた。また、釜山国際映画祭で上映される海外の作品が新しい世代の製作者や監督を刺激し、今までにはなかったジャンルの映画も出てきた。

     プロデューサー主導の映画作りが興行性を生み、新人監督の台頭が新しい感覚と今までにない芸術性を生み、そしてそれらの作品が釜山国際映画祭を通じて海外に紹介される。観客数の長期低落傾向とハリウッド映画の席巻という悪条件の中で、韓国映画界の巻き返しは今始まったばかりだ。

※ 文中の数字は『韓国映画年鑑』(映画振興公社編)各年度版による。


Copyright © 1998- Cinema Korea, All rights reserved.